の祭神は午頭天王と記されている。 明治初期の山笠の状態については明確になし得ないが、大違作の明
治二年、その結果御救安直米、唐米等に頼る者が多かった同三年、福岡俵混雑一件により三年八月以降
諸祭礼行事を慎んだ同四年、筑前騒動の同六年等には山笠は建てられていない可能性が強い。 古老よ
りの聞き取り調査で知り得るのは、明治二十二年頃、黒崎に流行病が発生した折その厄払いに藤田にて一
本山がて建られたがその時田町の角、当時の郵便局の前にて畑 和三郎氏の息子が死亡した事故以降の
事である。 この事故、乃至は数年後の事か山笠 による死亡事故のため、黒崎の山は十余年中止されたが、
明治三十七年八月末日の遼陽陥落を祝してか、或いは翌三十八年の日露戦争の戦勝を祝してか黒い鳩を
作り、それを逆さに飾り、それを突く日本兵を配した山笠が建てられた。 これは露将クロバトキンに因んだも
のであったがこれは山笠というよりは祇園囃子を伴った楽車、山車といったほうが妥当だったかもしれない。
以降つづく
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