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藩祖 | 立花 鑑連(戸次鑑連・道雪) | あきつら |
戸次親家の長男
立花鑑載の跡を継ぐ |
福厳院殿前丹州太守梅岳道雪
73歳 |
大友家臣、大友家三家老(豊州三老)の一人。本名は戸次鑑連、道雪は号で、筑前国・立花城主・立花鑑載の謀反後、立花家を継いだ。 |
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初代 | 立花 宗茂 | むねしげ |
高橋鎮種(紹運)の長男
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立花鑑連(道雪)の婿養子。 |
大圓院殿松陰宗茂
74歳 |
高橋紹運の長男。道雪の娘・ァ千代の婿養子となり立花家を継ぐ。秀吉の九州征伐後に大友家から独立し13万2千石の大名となる。関ヶ原で西軍につき改易。のち許されて5千石を賜り徳川家に仕えた。その後、棚倉1万石を得て大名に復帰、更に1620年には旧領地・柳河に10万9千石の大名として返り咲いた。 |
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2代 | 立花 忠茂 | ただしげ |
立花直次の四男
(養子) |
別峯院殿忠厳好雪
64歳 |
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3代 | 立花 鑑虎 | あきとら |
立花忠茂の四男 |
雪峯院殿英山性俊
58歳 |
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4代 | 立花 鑑任 | あきとう |
立花鑑虎の二男 |
霊明院殿常心法鑑
39歳 |
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5代 | 立花 貞俶 | さだよし |
立花帯刀茂高の二男(養子) |
興源院殿慈雲紹陰
47歳 |
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6代 | 立花 貞則 | さだのり |
立花貞俶の二男 |
等覚院殿廊融性営
21歳 |
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7代 | 立花 鑑通 | あきなお |
立花貞俶の三男 |
大應院殿馨徳孔昭
69歳 |
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8代 | 立花 鑑寿 | あきひさ |
立花鑑通の五男 |
陽徳院殿元剛紹和
52歳 |
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9代 | 立花 鑑賢 | あきかた |
立花鑑通の四男
立花鑑一の長男 |
體仁院殿博曖元長
42歳 |
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12代 | 立花 鑑寛 | あきとも |
立花一族・立花寿俶の子 | 81歳 |
歴代最年少の家老・立花壱岐(親雄)を大抜擢し、「鼎足運転の法」と呼ばれる藩政改革を断行し成功を収める。藩内には尊皇攘夷と尊皇開国の二派に分かれていたが、鬼才・立花壱岐は早い段階から開国論を主張し、肥後藩の横井小楠の越前招致を画策し成功させ、越前の橋本左内を開国論に立脚させるなど活躍している。壱岐の病によって保守派の勢力が盛り返しのち復権したが、そのまま明治維新を迎えた。新政府に反発した士族の反乱が九州各地で起こったが、壱岐の機略によって柳河藩だけは無血で切り抜けている。その際に柳河城を炎上させ、最近になるまでその真相は柳河ではタブーであったらしい。
鑑寛は維新後 江戸にいたが、晩年は郷里・柳河に戻り、柳河の振興に尽くした。元藩主が領国に戻った例は、この鑑寛と佐倉藩主の堀田正倫があるだけであるそうな。 |
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