■ 勇将の血脈
高橋紹運の次男。
兄の統虎(宗茂)が立花道雪の養子となった為、高橋家の次代後継者となる。
高橋統増こと立花直次の記述は、兄宗茂ほど逸話が在る訳ではない。父紹運の岩屋篭城戦以後、宝満城に篭った統増は、城を開城して島津氏に降った為、その生涯も比較的過小評価されがちである。
しかしながら、その後の統増の行動は、父紹運が盟友道雪に従い、奇と正の軍を駆り勝利をつかんだ如く、統増もまた兄宗茂に常に従い常勝でなる立花軍の影となりその興隆に尽力したのである。
彼は常に最前線に自らの身を置き奮戦したといわれ、
『浅川聞書』の宗茂の言葉としてと評した程、武勇の人であったようである。 |
■ 筑紫の押しかけ姫君
天正十四年(1586)島津家と決別した筑紫広門の娘・加袮姫を妻とする。この婚姻には面白い話があるので紹介したい。
天正十三年(1585)
紹運と共に、筑後に遠征していた立花道雪が陣中で没する。その間隙をついて肥前の筑紫広門は、手薄な紹運の宝満城を簒奪していた。道雪の死によって、気弱になった大友宗麟は上方に上坂し豊臣秀吉に哀訴し、島津征伐を要請する。宗麟の上坂は九州緒将の噂となり、緒将は島津氏につくか、豊臣方につくか思いを巡らせていた。
筑前の秋月種実は、長年大友氏と抗争していたが、秀吉の力を知り、また長い戦禍にうんでいた為、高橋紹運と誼を結んでおこうと、娘(龍子?)を紹運の子統増に嫁そうと話を進めていた。
秋月氏と長年盟友として戦っていた肥前の筑紫広門はこと事を知ると大いに驚いた。そして
「もし秋月が高橋氏と合一しようなら、きっと当家は攻め滅ぼされるであろう。国家の安危はこの時であるから、皆の意見を聞きたい」 |
と一同に申し渡したが、平伏するばかりで一向に妙策が出てこなかった。暫くして、筑紫六左衛門という譜代の士が進み出て
「この一大事、尋常な事では敵いません。思いきった謀をとよくよく考えました所、ひとつ方法があります。
大変恐縮ながら、姫君を某にお預け下さいませんでしょうか。さすれば某が姫君を岩屋へお連れ申し、紹運殿に直談してみましょう。紹運殿は情深き人と聞いておりますれば、万に一つ巧く運ぶかもしれません。もし承知なき時はその場で姫を刺殺し、某も切腹してあの世へお供致します。この事が巧く運ばなければ、ご当家は滅亡、そうなれば姫君の運命もまた逃れられない事です。
秋月は島津に誼を通じていて、紹運殿は大友氏の忠臣です。双方ともに話を進め難い縁談なれば、某が今姫君をお連れ押しかけたら、紹運殿は必ず対面される事でしょう。姫君は世に優れた御容貌ですから、よもや眼前で見殺しにはされますまい。とても逃げられない運命です、是非に決行して頂きたい。当家にそれ以外の道はありません。」 |
と言ったので、広門を始め皆賛同した。広門は六左衛門を膝元に呼び寄せて
「『死地に入って生を取る』太公望の兵書にある秘密は、この外に手段はあるまい。よくぞ申してくれた。我が寵愛する娘なれど、国家の為、先祖の為にお前にあたえよう。良き様に取り計らってもらいたい。」 |
といって奥へ引きこもった。
岩屋へ出発する当日、
供に大勢は無用と、六左衛門の他は、「織屋」という局ひとりと、「沖尾」という腰元一人が選ばれた。
広門夫妻が表へ出れば、姫君は父母の前で淑やかに着座する。広門これを見て
「我が子ながらこのように美しく育った娘を如何に国家の為とはいえ、敵とも味方とも判らぬ岩屋へ赴かせるこの親の冷酷さよ。さぞ無情と思うであろう」 |
とはらはらと涙を流すと、気丈な姫は畏まって、
「これは父上の仰せとは思えません。妾が男児であれば、戦場で先陣となり骸を山野に晒す事も武士の習わしでありますのに、女に生まれたばかりに深窓の内に養われ、十六の今日まで何のご用にも立てず残念に思っておりました。此度はからずも仰せを蒙り、国家の為に岩屋へ参る事は本懐であり大慶の事でこれに過ぎる事はありません。もし不幸にして紹運殿のご承知なければ、かねて頂いております守刀で潔く自害いたしましょう。人に掛かって恥をかくことは致しませんからどうかご安心なさってください」 |
と潔く言って、お暇を告げたので広門はただ無くばかりで言葉をかける事もできなかった。姫は「時間が過ぎてはいけません。輿を…」と、織屋、沖尾に命じ岩屋へ出立した。
岩屋に着いた六左衛門一行は、取次ぎを以って
「筑紫広門公の姫君を連れて、家臣筑紫六左衛門という者が参上致しました。お願いの筋がございます。何卒遭って下さいます様、恐れながらお願い奉ります。」 |
と申しいれた。伝え聞いた紹運は
「はてさて、広門の娘が来たとは合点が行かぬ事である。なれど、わざわざ姫君が来られたのであれば対面せぬ訳には行くまい。」 |
といって書院へ通す事とした。年の頃、十六、七の娘が、華やかに装い、恥ずかしそうに頬を染め、両手をついて言上する
「筑紫上野介の娘「加袮(かね)」と申す者でございます。紹運さまに於かれましては早速にご対面下さり、有難う存じます。今日は、不躾ながら妾のお願い事で参上いたしました。実は女の口から申し上げ難い事なれど・・・」 |
と言ってうつむき、その先の言葉がなかな出てこず、加袮姫の頬から涙がはらはらと流れ落ちる。「御免仕ります」と、みかねた六左衛門が合間に入って事の仔細を述べた。仔細を逐一聞き終わった紹運は、「嫁にしてくれ」という前代未聞の押し掛け姫にあきれ、また当惑した。言葉を失う紹運に、六左衛門は膝を進め
「紹運公のご当惑は御尤もです。なれど只今申し上げました通り、ご当家と秋月殿が合一されましたなら、我が筑紫家の滅亡は必死。その時討死します命を、ただ今捨て、姫君を刺殺し、某も切腹しましょう。御承知なければ、恐れながら御縁の端をけがさせて頂きます。」 |
と言った。紹運は、姪でもある気丈な姫と、忠義の士である六左衛門を死なせるのは不本意であると思案する。秋月氏との約と、家を思う姫と忠義の士。そして時は過ぎ、六左衛門は今はこれまでと姫に目配せすると、姫もそれを察し、身拵えにかかった。
紹運、是非もなく、今はただこの者達の命を助けようと、「兎も角、こちらへ」と、自ら姫の手を取り奥の間へと導いた。そして紹運は
「話の筋は承知致しました。貴女の家を思う孝心と、主人を思う貴殿と御女中の義心に私も心を動かされました。
元々、貴家と当家は縁戚の間柄です。乱世の習いとして敵味方として戦ってきましたが、この上は貴家と御縁を結び、両家の平和を計らいましょう。」 |
といったので一同感激のあまり泣き崩れたという。
この吉報はすぐに勝尾城へ知らせられ広門夫妻は嬉し涙にくれた。中でも広門夫人は、紹運夫人「宋雲尼」の実妹で斉藤氏の出であった為、喜びはひとしおであったという。また、家中領民にしても、もともと隣国であった為、親戚・友人・知人が多く、両家の和は望まれていたものであった。
天正十四年(1586)二月(四月とも)の吉日を選び、
加袮姫は岩屋城へ輿入れした。
統増は15歳、加袮姫は17歳であった。
この時、高橋・筑紫家の家老・中老の子を始め、証人としてとり替わし両家の和睦を正式のものとし、筑紫氏の持ち城となっていた宝満城も両家の城という事になった。
しかし皮肉にも、この婚姻の成立は、秋月氏に脅威を与える事となる。秋月種実は、筑紫広門が抱いた脅威を同じく感じとり、薩摩の島津氏に筑紫攻めを要請、島津軍の北伐が開始される事となる。 |
■ 岩屋城の戦いと宝満城開城
岩屋合戦の時は、統増は宝満城にわずかな高橋・筑紫両家の兵と幼老婦女子等と共に篭もっていた。父・紹運岩屋戦死後、寄り合いの共闘兵である城中は結束力に欠け戦意は乏しかった。ことに筑紫氏の家人は、筑紫広門が島津氏の虜となっていた為、同様激しく、統増を殺害して島津氏へ投稿するのではないか、と疑心暗鬼に陥っていた。そこへ島津氏の使者がやってきて
「岩屋すでに落城し、大将紹運殿もまた自害なされた。この上は速やかに当城を明渡して降伏いたされよ。さすれば和議を行い、城主統増殿、ならびに城兵一同の一命はお助けいたそう。それがいやなら一気に攻め落とすまでです。」 |
と開城を進めてきた。重ねて島津は岩屋で捕らえた婦女子を矢面に立たせ、万余の軍勢で宝満城に迫りつつあった。統増を中心に高橋・筑紫の臣で協議を行った。北原進士兵衛は
「紹運公を始め、岩屋で義死を遂げた者達に対し、なんで自分だけおめおめ生きて行くことができようか、どうかここで死なせて頂きたい。」 |
と言う、しかし伊藤源右衛門は、
「昔、頼朝公は蛭ヶ島の流鼠から起こって、遂に平家を滅亡させられた。此度、統増公には絶え難きを偲んで頂き、天運を待って頂くのがよいでしょう。なにより統増公の前途を見届けることこそ、我等残された者の勤めではないか。」 |
と言ったので、開城する事に決した。源右衛門は使者に対して、
「統増公を立花城へ帰城させて頂けるのであれば和議致し開城しましょう。もしそれが出来ないのであれば、城を枕に討ち死にするまでです。」 |
と返答した。島津側はこれを了承し、誓紙を持って保証した。
8月6日、統増以下家中の者は宝満城を下城する。しかし島津方は統増一行を取り囲み、立花城へは送らず、天拝山の麓にある武蔵村、帆足弾正の屋敷に軟禁するのである。「約束が違う」と島津将に詰問する源右衛門に、
「島津の慣習として、弓矢の前では、空誓紙もあり得る。」 |
とうそぶいたという。自らの甘さに高橋家中の者は悔しさに泣いた。
郎党が武蔵村へ連行される時の事である。
一行が道を進んでいる時、野道の方からキジが1羽飛び立ち、丁度一行の上を横切ろうとした。この時、高橋家中の臣・今村五郎兵衛が四尺六寸の大太刀を抜き放ち、一刀の許、真っ二つに斬り裂いたのである。薩軍の将はあまりの早業に唖然としたという。今村五郎兵衛の憤りと怒りの成せる技だったのだろうか。 |
■ 三池の大名
秀吉の九州征伐によって解放され、戦後、父の軍功と兄の活躍によって、筑後国・三池郡一万八千石を賜り大名となる。
その折秀吉は、統増を召し寄せて、
「これまでの苦労は大変だったであろう。父紹運殿が秀吉の為、島津の大軍を引き受けて比類の無い戦をし討死された事は、忠功、感賞に堪えない。此の度、筑後国・三池郡を与えるにあたり、今後とも統虎殿(宗茂)と申し合わせ忠勤に励んで貰いたい。」 |
と、懇ろに語ったという。
三池に入国した統増は、戦死した父と岩屋篭城の将士達の霊を慰める為、紹運寺を建立する。 |
■ 死戦
以後は、兄・宗茂の与力として戦陣を伴にする。彼は父と共に死ぬ事が出来なかった事を生涯悔やみ続けたといわれる。その為か、兄・宗茂を尊崇する事深く、兄に対面する時は師父に接する態度でのぞみ、戦場では率先して戦ったいう。
天正十五年(1587)、
佐々成政の不手際にゆる肥後国の一揆に兄と共に出陣し、一日の内に十三度の合戦におよび、七つの城砦を抜くという殊勲をたてる。
文禄元年(1592)
朝鮮出兵が始まると、小早川隆景を大将とする第六軍に編入され渡海する。明軍が十万の兵を以って小西行長の軍勢を粉砕されると、日本軍に動揺が走る。
このとき、との風聞を聞いた統増は、すぐさま守備していた城から七百の手勢を引き連れて出陣し宗茂の元に駆けつけた。実際は何事も無かったが、宗茂はその迅速果断な行動と勇気に大いに感心したという。文禄の役 最大の合戦「碧蹄館(へきていかん)の戦い」にも、兄と共に先鋒を受け持ち、李如松率いる明軍十万を粉砕して日本軍の危機を救っている。 |
■ 両家を紡ぐ
関ケ原合戦の時は、兄の勧めにより海上より国元に返される。戦後、改易されると、肥後国・八代に寓居し、のちに京都の北山に移り住んだ。そののち、兄・宗茂が徳川家に許されたのに伴って、統増は常陸国・柿岡の地に五千石に封じられる。
慶長十七年(1612)七月七日、
四男が江戸・下谷で生まれる。この子は生まれてまもなくして、子供に恵まれない兄・宗茂に引き取られる事になる。後の柳河藩二代藩主・立花忠茂である。
慶長十八年(1613) 一月二十九日、
本多佐渡守正信の世話によって家康・秀忠に拝謁し、その折に本多佐渡守正信より「貴公も、有名な立花殿の弟であるから、姓を立花と改められた方がよろしかろう。」との進言を受けた為、高橋姓から立花姓に改姓し「立花主膳正直次」を名乗った。
翌十九年(1614)十月九日、
大阪冬の陣を前にして、常陸国・筑波郡に五千石を賜る。
大坂の陣の折は、兄と共に将軍・秀忠の旗本として従軍し、攻め寄せる豊臣軍を撃退し将軍家の危機を救っている。
元和三年(1617)七月十九日、
病のため江戸・下谷邸にて逝去。行年四十六歳、
法名は「大通院殿玉峯道伯大居士」
遺骸は、下谷広徳寺に葬られた。
元和七年(1621)一月十日、
嫡子・種次が旧領・三池郡・一万石を拝領し、大名として復権する。三池藩は、直次を藩祖とする。
また福岡県大牟田市にある御笠神社は
父=紹運と母=宋雲尼、そして統増公を祭神として奉っている。 |
初 2000/01/17
改 2005/01/22 |