■ 出生と父と母
永禄12年(1569)8月13日、筑後国・問本城(といもと)で生まれる。
父は大友家の重臣=戸次鑑連(道雪)。母=仁志姫は筑後国の豪族=問注所鑑豊の娘で、共に再婚である。仁志姫には先夫との間に二人の子があり、男子は「亀菊丸」後の箱崎座主「方清法印」、女子は「政千代姫」といい、婚姻の条件として、この二人の子供を伴なっての輿入れであった。 |
■ 姫の名は
父・道雪は名前を決めるにあたり、肥前国・加瀬の僧・増吟に頼み、「誾千代姫」と名付ける事にした。(古賀敏夫著「立花宗茂」)
読みは「誾千代=ぎんちよ」で、「誾」とは「和らぎ慎む」という意味である。父は「女性らしく育つように」と願をかけていたハズが、姫は父に似て気性が激しく育ち、西国一の女丈夫と謳われる程の男勝りに成長してしまう。
ついでながら、九州にはもう一人「誾」の付く女性がいる。
肥前の熊(鷹)と恐れられ、五国二島の太守と豪語した龍造寺隆信の実母「慶誾」である。彼女も数え切れない程の壮挙で知られる女傑で、天下人秀吉・家康両名にも「龍造寺後家」としてその名を知られている。 |
■ 筑後国から筑前国へ
元亀2年(1571)、父道雪が豊州三老=吉弘鑑理の後任として、筑前国の立花城督に任命される。それにともない誾千代姫も筑後国の赤司城より移城。筑前国の国際貿易都市=博多をのぞむ立花城にきた誾千代姫は、当時の日本人としても、他方の大大名ですら見た事が無い(見る事も出来ない)異国から来る最先端の物珍しい品々を見聞する事になる。
天正2年(1574)3月には、豊後より大石火矢(大砲)二門が立花城に到着。同年7月には、ポルトガルの交易船により虎四頭、象二頭が博多に到着、博多の人々は初めて見る異国の猛獣に驚嘆したといわれ、この時道雪は方清法印を伴って見物したといわれるが、誾千代姫も見物したのではないだろうか。
ちなみに、この動物たちは豊後の大友宗麟の元へ送られ、宗麟は象の背に乗ったという。後の天下人たちも象や虎といった動物は見ているが、乗ったのは宗麟ぐらいではなかろうか。
当時の博多は、戦乱により幾度となく灰塵に帰すが、その度に復興を果たし更なるなる盛り上がりをみせている。 |
■ 家督相続、そして姫城督に
天正3年(1575)5月28日、
男子に恵まれない道雪は、主君大友宗麟の許しを得て誾千代姫に立花家の家督を譲る。日本の歴史に於いても稀な女城主の誕生である。
この時、誾千代姫は僅か6歳、父道雪は既に63歳である。
当然まだ幼い彼女に政務がとれる訳がなく、実権は道雪が握っているわけだが、この壮挙は当時、大いに話題になっている。
当初、主家である大友家からは戸次家を継いでいる鎮連(道雪の甥)を以って立花家を相続させる様に内示するが、道雪はこれを拒否し、娘に相続できるように要請している。この時期の道雪が如何に大友家に重きを成していたかが窺われる。
日本の歴史の中で、女性が城主になる例は稀にみられるが、その殆どが夫の留守居を守っていたとか、夫を失い幼い息子の代理といった例が殆どである。誾千代姫のように正式に手続きをふんだ上で任命された例は、後年豊臣秀吉の側室となり淀城をもらった淀殿(茶々)ぐらいのものである。(たぶん)
「城督」制とは、大友家独自のもので、戦功のあった者に対し広大な領地を与えない代わりに、軍事行政面で強大な権限を有する事ができる。いわば誾千代姫は大友家の筑前方面の軍事司令官的地位になったともいえるのである。
因みに、この年の同じ月に東国では、織田・徳川氏と武田勝頼が設楽ヶ原で合戦に及び、武田氏は壊滅的な大敗北を喫している(長篠の戦い) |
■ 婿候補
家督を譲った道雪ではあるが、やはり女の身では心配である。自身が生きている間はいいが、もし事があった場合この幼い姫が立花家の命運を握ら無ければ成らなくなる。自身の死後を考えれば、やはり男子が欲しい。しかも大友家の北の生命線である立花城を継ぐには並みの武将では勤まらない。
道雪は誾千代姫に家督を譲る以前に、妻の連れ子である政千代姫を筑前の豪族(地侍)で知勇兼備の将である薦野増時(後の立花三河)に娶わせ立花家を継がせようとする。
増時は「立花家は大友家中の名族であります。何卒、大友の血族の中から選ばれますよう」と、断り遂に受ける事は無かった。その内に政千代は早世したらしい。(米多比三左衛門に嫁した後に死去したとおもわれる。)
そこで、次に眼を付けられたのが同じ筑前国の宝満・岩屋城主、高橋紹運の嫡男の千熊丸(後の宗茂)である。誾千代姫と年の頃も近く、幼いながらも物怖じしない千熊丸に道雪は将来の大器をみた。先の薦野増時も千熊丸に非凡の才を見、たびたび誾千代姫の婿候補として道雪に推挙している。まだ幼い千熊丸が立花城に遊びに来る度に道雪はその一挙一動を観察し、一人前の武士に成るよう接している。 |
■ 主家の衰運
その様な中、天正6年(1578)主家大友家は、日向国に於いて薩摩の島津軍と大合戦をし、未曾有の大敗を喫する。世に言う「耳川の戦い」である。この敗戦により大友家の威信は失墜し、今まで心ならずも従っていた諸豪族が一斉に蜂起し、特に肥前の龍造寺氏と筑肥にまたがった秋月氏の躍進が目立つようになる。この時期より、父道雪と千熊丸の父高橋紹運の二人は孤立する筑前に於いて反大友家を掲げる諸勢力を向こうに回し奮戦する。
この頃になると、誾千代姫は非常時に備え、城中に侍女などを集め女軍を組織して指示していた様で、一説によると、女鉄砲隊を組織していたとも云われる。日を追うごとにその美貌を増していく誾千代姫の健気な行動を家中の者達は皆頼もしく思い、父道雪はといえば、自身の命数と戦乱の世の主家大友家と立花家の行く末を思い焦燥に駆られるのである。 |
■ 婿養子「高橋 統虎」
千熊丸が元服して「高橋 弥七郎 統虎」を名乗るように成ると、道雪は他家からの婚姻話が出る前に大宰府の岩屋城に自ら赴き紹運に統虎を養子に貰いたいと、かき口説いた。紹運としても、次代を継ぐべき嫡男であり勇武の才がほのみえる統虎を手放したくはない。次男の千若丸(後の高橋統増=立花直次)ならばと、話を進めるが道雪は承知しない。
難色をしめす紹運に対し道雪は
「私は壮年の始めから今の七十有余歳に至るまで大友の為、幾十度となく戦い多くの敵を倒してきました。しかし、近年に至り大友家は衰退し、賊徒は負けても日に日に盛んに成り、味方は勝っても日に日に衰えるありさま。近くは竜造寺・島津、遠くは毛利の大敵を私の死後も、だれが御辺と共に大友を助けるのか。甚だこころもとない限りです。
貴殿は、壮年であり男子を二人もっておられる。それに引き換え、私は老年であって一人の男子もありません。そこで、統虎殿を立花家を相続させ、私の死後も御辺と共に心を合わせ大友家を守らせたいのです。養子に望むのは私の為ばかりではありません、大友家に尽くす為でもあるのです。どうか、そのことに力を尽くして下さい。」
と、涙ながらに懇願した。
国を想う義心あふれる道雪の言葉に遂に紹運は折れ、最愛の嫡子を道雪に委ねる事となる。
天正9年(1581)8月18日、誾千代姫は統虎と結ばれる。
この日ばかりは、さすがに誾千代姫もしおらしく花嫁気分を味わった様であるが、幼なじみであるこの夫婦、あまりにも相手を知り過ぎ、あまりにも性格(気質)が似ていたのだろう、当初は睦まじくしていた二人は、道雪が逝去した後、競い合う様にして夫婦仲は徐々に冷え切って行く。
時に誾千代姫は13歳、夫となった統虎は15歳であった。また、父道雪は69歳、義父である紹運は34歳である。
戦乱が続き不穏な空気が漂う中、次代を担う若き夫婦の誕生は領内に久しい明るい話題となり、家中・領民は喜びに沸いたといわれる。そして、この二人の婚姻により立花・高橋両家の結束は更に深まった。 |
■ 筑後遠征と父の死
天正12年(1584)、九州内で三国鼎立の一角を占めていた肥前国の龍造寺隆信が、島原で島津・有馬連合軍に敗れ敗死する。その期に乗じて、主家である大友家は田原親家を大将とした7千の軍勢をもって筑後国の失地回復を図る。しかし耳川敗戦で良将を失い、若く実戦経験の浅い将が多い大友軍は、一月を費やして一城も落とせないでいた。豪を煮やした当主・大友義統は、今や切り札といえる筑前の道雪と紹運に応援を要請することになる。
主命を受けた両将は時を置かず、天正12年8月18日出陣し、敵領内を突破し20日には着陣し豊後緒将を驚かせている。両将の活躍は目覚しく、黒木氏の猫尾城を攻め落とし半ば旧領を回復する。しかし難攻不落といわれる柳河城には攻めあぐみ膠着状態に陥り、天正13年6月、道雪が発病し、9月11日に紹運と家臣に見守られ陣没する。享年73歳であった。道雪の遺骸は家臣に守られながら敵中の中からの退陣を果たした。敵である龍造寺・秋月氏をはじめ、肥後に陣取っていた島津氏も、生涯を大友氏に尽くした老将の死に敬意をはらい、追撃をする事は無かったといわれる。
道雪の死によって、立花家は実質的に、夫である統虎(宗茂)が継ぐことになる。 |
■ 島津氏の北上と立花城篭城
天正14年(1586)3月、
島津氏の圧迫に耐えかねた大友宗麟は、海路で大坂に赴き、関白になっていた豊臣秀吉に謁見。島津氏討伐を上訴する。この時の約定によって、筑前国の大友与党である立花・高橋家は、大友家と共に秀吉の家人として認められる事となる。
同年6月、島津氏の筑前侵攻軍が出陣し、7月6日まず大友方(豊臣方)に寝返った勝尾城主・筑紫広門を3日で攻め下し、ついで7月12日には大宰府に侵攻。14日には義父である紹運が篭る岩屋城を攻め27日に自刃させた。翌28日には高橋統増の篭る宝満城も開城する。
同年8月、5万の島津軍は立花城を包囲し、降伏勧告に及んだ。夫統虎(宗茂)は島津氏に対して、和戦両様の構えを見せて言葉巧みに翻弄し、秀吉の援軍を待った。先の岩屋城戦で多くの死傷者を出した島津軍は、攻勢にでる事ができず無為な時を重ね、23日に豊臣幕下の毛利氏が関門海峡を越えた報に接し、立花表から撤退する事になる。
島津軍の撤退を知った統虎は、即座に追撃を行う。小勢での追撃に不安を憶えた老臣に対し統虎は
「父の仇を報ぜず、母と弟の恥もそそがず、どこに生を甘んじる意味があろう。お前達に無理強いはせぬ、自分は一人でも島津を追い、心ゆくまで戦おうと思う。もし斬死したとしても、泉下の父上へのよき挨拶となろう」
と答えた。
追撃により島津軍に少なからず打撃を与えた後、旬日をおかず高鳥居城を1日で攻略、返す刀で奪われた高橋家の宝満・岩屋城を無血で奪還を果たした。この報を接した秀吉の喜びようは大きく、近臣への書状に「九州の一物」と評している。
翌15年(1587)、秀吉が九州に遠征。秀吉に拝謁した統虎は、父紹運の岩屋義戦と立花篭城を九州役の第一の軍功として賞される。
5月8日、島津氏は豊臣氏に降伏。同月23日、豊後の戦国大名 大友宗麟が津久見の館で死去している。九州の戦国時代は一応の終焉を迎える。
話が前後するが、この時期の事で「淺川聞書」に誾千代姫が大坂城に人質として上坂していたという記述がある。
「前の年9月より、翌年の3月まで、腹赤様大坂へ御座なされ候、御供を八左衛門相勤め申し候」
吉永正春著の「筑前立花城興亡史」では「天正14年9月から、翌年の3月まで」となっているが、姫の上坂の理由として、「夫統虎の母(宋雲尼)が病気だった為」とあるので、宝満城開城時に島津氏に捕まった宋雲尼が、その頃に島津氏の許から戻ってきていたのかによって、この時期の上坂は多少不信かもしれない。 |
■ 因縁の城、柳河城へ
秀吉の九州国割りによって、立花家は正式に大友家から独立し、筑後国 柳河城主として13万2千石余の大名となる。
6月になって柳河城への移住が始まった。誾千代姫は夫の栄達を喜びはしたが、柳河城への移城には反対したようで「たとえ所領を削られても、父道雪や祖母(養孝院)の眠る立花の地を離れたくない」と、統虎や侍女達を困らせたといわれる。また父親である道雪は、筑後遠征で柳河城を落とす事が出来なかった為、陣没するに際し
「我が遺骸は、甲冑を着せ柳河の方に向けこの地に埋めよ。もし遺言に背くようなら子々孫々まで呪い殺すぞ」
と云って遺言としていた。いわば立花氏にとっての因縁の城である。姫にすれば、父を死に追いやった城に嫌悪感があったのも仕方がなかったのである。だが夫統虎にすれば、養父でさえ落とせない程の城を持城とする事に、深い感慨と誇りを持っていた。
移城は秀吉の命である。個人の意思が通る筈もなく、誾千代姫も夫に遅れる事三日後、6月15日に家中の妻子と共に立花城を出、17日柳河に到着した。統虎は住みなれた立花城を離れ、気落ちする誾千代姫の為に、領内に道雪の菩提寺「梅嶽寺」を建立する。 |
■ 朝鮮役
(注)以下の文章から夫の名は「宗茂」に統一。
(注)但し、正確には「宗茂」と名乗ったのは晩年である。
文禄元年(1592)、秀吉により朝鮮役が起こり、宗茂も3千を率いて朝鮮へ渡海する。この文禄の役の最大の大戦「碧蹄館の戦い」で宗茂麾下の立花軍は日本軍の先鋒として戦い、朝鮮・明連合軍を攻め下し大いに名を挙げる。また慶長の役でも活躍し、加藤清正のウルサン城救援、朝鮮からの撤退の際には、孤立する小西軍を島津・寺沢氏と共に救出し、同じく両氏と共に朝鮮水軍の英雄李舜臣を退け、殿軍として最後に日本に帰国した。
この両役の頃、誾千代姫は家中の女子を集め、火の始末・盗人用心を厳重にさせ、率先して毎夜女子衆を召し連れて領内の屋敷廻りの警備をしたと伝えられる。
またこの頃の事で、後世の創作とされる話がある。
秀吉は遠征の本拠地として肥前名護屋城を築き、自らこの地に在陣していた。ある時秀吉は、緒大名の内室を引見しようと、伺候を呼びかけた。誾千代姫にも達しがあり姫が参上すると、秀吉は姫の美しさに懸想し無理を強いたという。
同じ伺候の話として、
誾千代姫は、好色の噂がある秀吉を用心して、たすき鉢巻き姿に大薙刀を小脇に抱え、仕える老女・侍女に数人にも同じ姿をさせて、秀吉の御前に颯爽と参上した。流石に秀吉も仰天したらしく、
「流石は立花の妻女である。武家の妻とあれば、平時において、かくも立派心がけである。」
と云って大いに褒め称えたという。
実際の所、誾千代姫の「名護屋城への伺候」自体、資料を調べても証拠になる記述が無く、両説とも後世の創作といえる。先の話は小説にもよく出てくる話であるが、後年この夫婦は別居するが、その理由が不明であった為、作られたものであろう。 |
■ 別離、宮永館へ
文禄4年(1594)もしくは慶長4年(1599)説があるが、この頃から夫婦関係が破綻し、姫は柳河城郊外の宮永村に作った館に移り住み、「宮永様」と呼ばれるようになる。
不和となった理由としては様々な説がある。
●「宗茂を養子と見下し、姫が驕慢であった為」
●「姫が政(まつりごと)に口をはさんむ」
●「性格が似すぎてソリが合わなかった」
●「男勝りな女性だったから」
とあるが、資料的には、夫宗茂が側室(矢嶋氏、八千子、後の瑞松院)を持った事による別居だといえる。誾千代姫と宗茂にはこの時期にも子供がなく、大名家として世継ぎを儲ける必要があったのだろう。姫が石女(うまずめ)であったかは定かではないが、立花家の為に自ら身を引いたのであろう。また立花家を継ぐべき嫡女としての誇りを傷つけられ、姫自ら別居に踏み込んだともいわれる。 |
■ 関ヶ原合戦~江之浦街道を守る
慶長5年(1600)、「関ヶ原の戦い」が起こる。
宗茂は朝鮮役以来、友好関係にあったとされる隣国の加藤清正や、東軍の家康から利による誘いをけって、秀吉の恩を報じて西軍として参戦する。この時別居中の誾千代姫は、東軍勝利を予見して、徳川方への合力を進めたともいわれるが、確かな証拠はない。
立花軍は大津城を攻め開城させる活躍をみせたが、この開城した9月15日は、主戦場の関ヶ原での開戦日であった。主力敗戦の報に接した宗茂は、急ぎ大坂に戻り、西軍の大将「毛利輝元」らに大坂篭城を進言する。しかし大坂在城の西軍首脳陣は既に戦意を喪失していた為、しかたなく九州へ帰国する事になった。
国許である柳河の地で、上方での敗戦を知った誾千代姫は、家臣に命じて数十人の兵を豊後国の鶴崎(筑前名島との説もあり)に派遣して、宗茂一行の出迎える心くばりをみせたという。宗茂が帰国してからも、姫は城に入る事はなかった。
休む暇もなく、徳川方に旗色を変えた肥前の鍋島氏が領内総出の3万の兵をもって柳河に侵攻して来ると、宗茂は家老小野和泉を大将として出陣させ、八之院で迎撃し、多くの死傷者を出しながら撃退する。(八之院の戦い)
一方、誾千代姫は、宮永館を守る為に、
「さては肥前勢が間もなく攻め寄るであろう。我は仮令女(?)の身ではあるが、道雪の女である。一死を以って国に殉じ、先考の名を汚すまい」
と云って、紫威の鎧で身を固め、大薙刀を小脇に抱えて臨戦体制をしいた。家中の女房衆や侍女達も、一様に唐紅の装束に甲冑をつけ駆けつけてきた為、彼女らに的確な指示をあたえていた。
姫は鍋島氏による海路からの侵攻を察知し、事前に海上への警備を厳重にして上陸を不可能にしたという。また肥後の加藤清正による、柳河侵攻の気配を察知し、自ら出向いて江之浦街道に陣取った。この時には、宗茂に無断で馳せ参じる旧来の立花家恩顧の老臣の姿もあり、二百人余の勢力になったという。
清正が立花領へ入る為には2つの街道があった。江之浦街道と瀬高街道である。清正は家臣・小野作兵衛という家来に「どちらの道がよいか」と尋ねると、
「江之浦街道は人数越え難い川があり、その上、途上に宮永館という左近将監(宗茂)殿の妻女の居館があり、陣を張っております。この奥方は、左近将監殿の養父道雪殿の娘にて、立花家中の者はこの奥方殿を殊の外尊崇しております。もし宮永館の近くに軍勢を派遣すると知れば、多くの武辺功労の者たちが馳せ参じ抵抗するでしょう。構えて、瀬高街道を通る方がよろしかろう。」
と答えたので、清正も物騒な江之浦街道を避けて瀬高街道へ迂回したという。 |
■ 筑前の白梅、肥後に散る
関ヶ原の敗戦によって立花家は改易され、宗茂と誾千代姫は肥後一国を得た加藤清正に庇護される身となった。肥後で宗茂は玉名郡の高瀬に居住し、誾千代姫は母宝樹院と共に同郡・腹赤村の庄屋・伊蔵の屋敷に居住し、道雪の女婿である立花三左衛門が随行した。
夫宗茂はその後、清正の赦しを得て上方に上がることになるが、姫は肥後に留まった。家を失って零落の身にあった姫は、環境の変化も災いしてか、しだいに食も細くなり臥せる事が多くなっていった。しかし立花家と夫宗茂への思い入れは変わらなかった。姫は供の者に父道雪が信奉していた稲荷社から御札を貰ってこさせ
「妾の命に代えて、夫宗茂を再び世に送り出し給え」
と願をかける日々を過ごしたという。
そして、慶長7年(1602)10月17日、
誾千代姫逝去。享年34歳であったと云われている。
法名=光照院殿泉誉良清大姉
姫の死去した翌年慶長8年、姫の願いが稲荷社に通じたのか、宗茂は徳川家に5千石で召抱えられ、同11年には1万石、同15年には2万石を加増される。そして元和6年(1620)徳川家が幕藩体制を築き大名の改易も相次ぐ中、遂にほぼ旧領通りの柳河城主11万石の大名として奇跡の返り咲きを果たすのである。
20年振りに柳河に戻った宗茂は、不遇の中で死去した誾千代姫の為「良清寺」を建立して、その菩提を弔った。
現在の柳川市にある「三柱神社」は、藩祖・道雪と宗茂・誾千代姫夫婦を祭神として祀っている。
因みに、宗茂の妻室は、正室の誾千代姫の他、瑞松院(矢嶋氏)、長泉院(葉室頼宣の娘)がいたが、いずれの女性からも子供を儲ける事がなかった。その為、実弟の高橋統増(立花直次)の四男を出産まもなく養子として養育した。 |
□ 異説 肥後国の「ぼたもちさん」腹赤村伝
熊本県玉名郡長洲町に「ぼたもちさん」と云われる墓石があります。
墓石の上の部分が「牡丹餅」に似ている為、いつの頃かそう呼ばれるようになったそうです。この墓は、立花宗茂の正室「誾千代姫」のものだと云われてます。
柳河の立花氏に伝わる姫の腹赤での事は上記の通りですが、この腹赤の地での「ぼたもちさん」こと「誾千代姫」の伝承は、柳河立花氏の伝承といささか異なります。 腹赤に伝わるは伝承では、
慶長6年(1601)2月7日、
腹赤村の庄屋の許に、阿弥陀寺の住持・淡海より
「1人の気のふれた女が来た」
と、届出があった。
庄屋が見に行った所、狂人に相違なかった。色々尋ねてみても柳河から来た者としか一切わからず、人別帳(住民登録)にも入れず、そのまま阿弥陀寺に預ける事にした。
慶長7年(1602)10月17日、
阿弥陀寺の住持淡海が、庄屋の許へやって来て云うには、柳河の女が寺前の古井戸に身を投げて死んだという。知らせを受け見に行くと本当であった。庄屋は村の者と寺の住持立会いのもと、哀れな柳河の女をこの古井戸に葬ったという。
この伝承は、小説の「立花宗茂 士魂の系譜」西津弘美著の中にも紹介されてます。(同書では「慶長6年」に死去したようになっているが、別の資料では「慶長7年」になっているので、これにあわせた)
「柳河の者としか分らない女が、古井戸に身を投げて、悲しい生涯を終えた。」として、同書では話が終わっている。これだけの話でも、かなり可哀想な話で、これが誾千代姫であれば、余りに惨めな生涯を終えた事になります。
しかし、この話はまだ終わらないのである。
柳河の女が身投げした約一月後、
慶長7年(1602)11月11日、
村に不幸な出来事が起こった。
火事で阿弥陀寺が焼け落ち、住持淡海が焼死したのである。
その後、寺の消火に参加した者をはじめ、次々に村中の者達が原因不明の病にかかり死んでいった。村の者達は、これはきっと菩提の咎(とが)だろうと思い、さっそく不浄払をして改めて弔った。これにより村に起こった怪異は、一応の収束を迎えたと伝えられる。
慶長8年(1603)、
村人達は柳河の女が死んだ古井戸の廻りに垣根を造り、花園をつくって桜の木を植えたという。
寛永11年(1634)6月
柳河城主に返り咲いていた宗茂は、腹赤村に役人を遣わせて、この墓所に供養塔を建立し、柳河でも良清寺で手厚く供養している。
地元の伝承なので、尊重したい所ではある…けど、かなりツッコミ所のある話です。当時は誾千代姫の母「宝樹院」も生存していたはずで、父道雪の女婿である立花三左衛門や十時摂津の息子なども、姫につけられいた筈だし…。 |
□ 姫の怨霊
夫宗茂が柳河城主に返り咲き、誾千代姫の為に良清寺を建立した事は、上記に記した。その宗茂の代では何事も無かったが、激しい気性の誾千代姫の霊はなかなか鎮まる事がなかった。
時は三代鑑虎の時代、
元禄14年(1701)に藩内で不祥事や怪異が起こったといわれる。そんな中、藩主鑑虎は毎夜枕元に白い女性が立つのを見るようになる。思い悩んだ鑑虎は、当時80歳にもなっていた柳河藩の儒学者「安東省庵」を召し出して、夢の事を相談した。思い当たる事があった省庵は衿を正して恭しくこう答えた。
「私が思います所、その御方は誾千代姫でありましょう。忠茂公(2代藩主)以来、御当家では誾千代姫を尊敬する事が薄いように思われます。姫は藩祖道雪公のご息女であり、宗茂公は高橋家から来た婿養子で、立花家にとって姫は国母と申すべき御方です。他の奥方たち(宗茂の後室、忠茂の室)とは異なり、国母として敬うべき御方であるのに、忘れられているかのようです。宗茂公とは不仲となり別離し、また開城の折、姫の幼少よりかしずき慈しんできた、道雪公から仕えてきた老臣達の遺憾の念は山のようでした。他の奥方と違い、国母として大切にお扱いになれば、姫もご満足かと思います。」
鑑虎は大いに驚き、墓所の改修と寺への寄進を増やし、その年の10月17日に大法要を営んだ。丁度その年は姫の100回忌であったという。それ以来、藩内での怪異は無くなったそうである。 |
□ 良清寺と瑞松院の火の玉
瑞松院とは宗茂の側室で矢嶋氏の事である。
誾千代姫は良清寺に葬られ、道を挟んで、矢嶋氏の娘の遺髪を葬った瑞松院があるそうです。この2つのお寺は隣同士でありました。その為か、柳川では良清寺と瑞松院から出てきた、誾千代姫と矢嶋の娘の火の玉が「空の上で喧嘩をしてるのを見た!」と、よく噂されていたそうな。
(真実は定かではないですが…本に載ってました) |