■ 立花家臣 |
天野 源右衛門
安田 作兵衛
安田 国継 |
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立花家臣(客将)。本能寺の変で織田信長に槍をつけた男。
二千石を給されていたが、朝鮮の役「碧蹄舘の戦い」で十時伝右衛門との先陣争いに破れ職を辞す。のち唐津城主・寺沢氏に仕える。 |
安東 省庵
安東 助四郎 |
1622
1701 |
立花家臣、安東連直の孫、
親清の次男。柳河藩藩学の祖。
幼少の頃より宗茂・忠茂親子にその才を認められて、成人した暁には一家を立てる事を認証されたという。島原の乱にも病をおして従軍している。
因みに省庵は、ラーメンを日本にもたらした事で有名な「朱舜水」の不遇時代、禄を削って助けた。後に舜水は水戸徳川家(水戸光圀)に招かれている。 |
安東 常久
善右衛門 |
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1593 | 立花家臣。朝鮮の役『碧蹄舘の戦い』で奮戦し戦死。 |
安東 連直 |
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? | 立花家・家老にして母衣武者の一人。連実の子?家忠の孫?。 |
安東 幸貞 |
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立花家臣。連直の子、家忠の弟。
剛勇にして武略あり、『碧蹄舘の戦い』で作戦上殊功をたてたという。 |
池辺 永晟
池辺 龍右衛門 |
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1593 | 立花家臣。剛勇をもって知られる。『碧蹄舘の戦い』で奮戦し戦死。 |
石松 安兵衛 |
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? | 立花家臣。石松源五郎(高橋越前)の子。 |
内田 鎮家
内田 元叙 |
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立花家・家老のち武者奉行を兼任。
岩屋合戦後、立花城に迫った島津軍に、偽りの使者として乗りこみ時をかせぐ。援軍到着を知った島津諸将に斬られそうになるが、忠臣として立花城に送り返される。柳河開城後は、清正に仕える事を潔しとせず帰農したという。 |
内田 統続
内田 忠兵衛
内田 忠右衛門 |
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1600 |
立花家臣。鎮家の嫡子。
『碧蹄舘の戦い』で十時伝右衛門と共に先鋒となり奮戦す。伝右衛門と共に死ぬ事が出来なかった事を恥、常に死に場所を求めていたという。関ヶ原の役「大津城攻め」で壮絶な戦死をとげる。 |
海老 名弾正 |
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? | 戸次家臣(笑)。道雪の幼少時の傳役を勤めた人物。それ以外は不明(笑)。因みに明治頃の子孫の海老名弾正は、同志社大学の総長を勤めた人物。 |
小串 成重
忠左衛門 |
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1593 | 立花家臣。『碧蹄舘の戦い』で小野和泉麾下として戦い戦死。 |
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1546(?)
1609 |
大友家の臣→立花家・家老。
大友家から派遣された軍目付であったが、由布雪下に見出され立花家の臣となる。家中で由布雪下と双璧をなした知勇兼備の将。筑前国・高鳥居攻めでは両足を撃たれながら采配を振るい味方を鼓舞した。宗茂が柳河城主になると蒲池城を任され5千石を給される。朝鮮の役にも出征し立花軍の中核として活躍。帰国後、秀吉は和泉を評して『日本七槍の一』と称えた。立花家改易後は、立花家家臣団の筆頭として加藤清正に仕え厚遇される。浪人となった宗茂に対して、変わらず支援し続けた。宗茂の柳河再封を前に死去。 |
小野 成幸 |
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1593 |
立花家臣。小野和泉とは従兄弟。
『碧蹄舘の戦い』で、宗茂より軍扇を賜り、それを持って奮戦す。同合戦にて戦死。 |
小田部 統房
小田部 新介 |
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? | 立花家臣、筑前・荒平城主・小田部紹叱の子、妻は紹運の娘。 |
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1543
1623 |
立花家臣・家老。
道雪の立花城入りに際し、召抱えられる。一時その器量を見込まれ養子候補となるが固辞し、紹運の長子・統虎を道雪の養子として推挙した。道雪の筑後遠征時、宗茂の補佐として在城。留守を狙った秋月氏8千の兵に僅かの兵で夜襲をかけ撃退した。九州征伐の時に「立花」姓を賜り、秀吉の許へ赴く。宗茂が柳河城主になると、城島城を任され、小野和泉に次ぐ4千石を給される。関ヶ原合戦時は、東軍に付くように進言したが受け入れられなかった。立花家改易後はその処理におわれ、その際の手際の良さを買われて、黒田如水に誘われ筑前に帰る。 |
桜井 中務 |
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1585 | 立花家臣。道雪の筑後遠征の際、立花城で謀反を計画するが露見し、統虎に誅伐される。 |
桜井 冶部 |
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1585 | 立花家臣。道雪の筑後遠征の際、立花城で謀反を計画するが露見し、統虎に誅伐される。 |
高橋 越前
石松 源五郎 |
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1586 | 立花家臣。岩屋合戦の際、岩屋城に使者に赴きそのまま城に留まった。その折 紹運より「高橋」の苗字と『越前』の名を賜る。 |
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1620 |
立花家臣。薦野増時の嫡子。
紹運の娘を妻にする。関ヶ原の対鍋島戦『八の院の戦い』で、立花軍本体の苦境を知り、独断で持ち場を放棄し鍋島軍の横合に押し入り危機を救った。戦後、的確な判断で軍勢の崩壊を救った成家の活躍が随一であるとし、感状をもって賞される。立花家の改易後は、父に従い黒田家に仕えて4千石を給される。父に先立ち同地で没した。 |
立花 壱岐
立花 惟興
由布 惟興 |
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立花家・家老。十時摂津の子。
由布惟次の嗣子となり、由布家を継ぐ。立花姓を賜り、通称『立花壱岐』を名乗る。忠茂を補佐して政治上多大の功績を為した。 |
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1589 |
立花道雪の甥。戸次親行の子。
2歳の頃、父の死によって道雪に引き取られ厳しく育てられた。その人となりは、沈勇かつ剛毅で、礼節を重んじる高義の人だったといわれる。後に加藤清正に難癖を着けられ自刃に追いこまれる。その死に際して、妻子はもとより統春の人柄を慕う家人も皆 後を追い殉死した。武士として精錬に生きた統春の早過ぎる死は、立花家中の誰もが惜しんだという。 |
立花 三太夫
立花 統次 |
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1600 |
立花家臣。森下釣雲の三男。
立花統春の死後、家名が絶えることをうれいた宗茂の命で統春の家を継ぐ。「八の院の戦い」で壮絶な戦死を遂げる。 |
十時 伝右衛門
十時 連久 |
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1593 |
立花家の侍大将。連貞の従兄弟。
『勇猛果敢にして膂力衆に超ゆ。』
通称『生摩利支天』。一番槍・一番首・一番乗りの功多数、感状は数十通を数える。筑後遠征時、偵察任務中に水浴びをし敵兵に発見されたが、赤裸のまま敵兵をなぎ倒しゆうゆうと帰陣した。軍規に厳しい道雪にもこの不埒な武勇伝が報告されたが、その武勇を認めて苦笑するしかなかったそうである。朝鮮の役で出征し、文禄の役最大の合戦「碧蹄舘の戦い」で先陣を受け持ち、縦横無尽の働きをした。同合戦にて毒矢を受けて死去。その生涯は家中で常に話題にのぼる人物であった。 |
中江 新八 |
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? | 立花家臣。日置流・弓術の達人で、立花家に『電撃流抜刀術』を伝えた人・・・らしい。 |
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1633 |
立花家臣・家老。
筑前の国人、道雪に見込まれ養女を妻に娶る。立花家改易後、加藤清正に仕えたが、道雪の妻・宝樹院と、宗茂の正室・ァ千代姫に孝養を尽くしたといわれる。 |
原尻 鎮清
原尻 宮内 |
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立花家・老臣。
道雪死後、殉死をしようとした由布・小野等に対し『何故生きて九国の大敵を撃ち、幼主の運を開こうとしないのか』と言い放ち思い止まらせた。 |
戸次 鎮林 |
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? | 立花家臣。 |
戸次 統直 |
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? | 立花家臣。 |
森下 釣雲
森下 備中 |
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1631 |
立花家・家老。
祖父・実父と共に『備中』を称す。道雪・宗茂二代に仕え、朝鮮の二役にも従軍し功をたてる。 |
森下 鎮矩
小野 鎮矩? |
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立花家臣。釣雲の子。
実子のない小野和泉の嗣子となる。のちに通称を「小野和泉」に改め、家老兼大組頭となる。 |
由布 惟次 |
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立花家臣。雪下の子。
合戦により足が不自由になって、留守居役になる。 |
吉田 右京 |
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1586 |
立花家臣。
岩屋合戦の折に『国に報いるに義あるのみ』といって自ら志願して援軍となる。萩尾父子と共に二重の櫓を守備し、落城の日 持ち場を一歩も退かず討死。後年 宗茂は右京の事を思い出すと 『養子の自分には家中の者に岩屋城への援軍を頼むことが出来なかったが、吉田が志願してくれた為、多くの者達が続いて志願してくれた。自分はあの時ほど嬉しかった事ない。』 と涙ぐんで、その死を悼んだといわれる。そして 『だから自分は吉田達の忠節に対して、子々孫々に至るまで報いなければならない』 とも語ったといわれる。 |