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■■ 簡易・武将列伝 ver.0.08  (2005・01・23)
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★ このページの列伝は高橋紹運を主軸に置いて書かれています。 ★
★ あくまで略伝です。資料不足の人物なんかはココにいれとこうかと・・・ ★
★ まぁ〜だまだ中途半端です。★
★生没年入れてみました。信長の野望に必須?★
色の項は、更新・修正したトコ ★

◆ 高橋紹運・一族 ◆
1548
1586
大友家臣・豊臣家臣。筑前国・宝満・岩屋城主。
本名は『吉弘鎮理』のち『高橋鎮種』、『紹運』と号す。大友三老の一人「吉弘鑑理」の次男として生まれ、大友氏に背いた筑前国の高橋鑑種の後任として高橋氏を継いだ。立花道雪と共に生涯を大友家に尽くした九州戦史を飾る義将である。天正14年、岩屋城に僅か763名で籠城し、島津5万を相手に奮戦。半月の間、島津軍を悩ませ 戦国史上でも類をみない壮絶な全員玉砕を果たした。この一戦により島津氏の九州制覇の野望は断たれ、秀吉の天下統一はほぼ確実なものとした。島津氏を下した秀吉は大宰府の岩屋城に立ち寄り、紹運を『乱世の華』と称えその死を惜しんだといわれる。
因みに、紹運の読みは、太宰府では「しょううん」、他方では「じょううん」と濁る。
1567
1642
大友家臣・豊臣大名・徳川大名。
紹運の長男であったが、立花道雪に請われ立花家を継ぐ。妻は道雪の娘『ァ千代姫』。島津氏北上による父紹運の戦死後も立花城を堅持し島津氏を退けた。豊臣秀吉は初めて対面して曰く『その忠義鎮西一。その剛勇また鎮西一』と評し、後年の北条征伐の時には、徳川家康の臣・本多忠勝と共に『天下一双の勇士』と言わしめた。朝鮮の役で勇名を馳せた加藤清正も『日本軍第一の勇将』と絶賛した。関ヶ原合戦で徳川氏と敵対し改易されたが、二十年後 旧領・柳河城主に奇跡的に返り咲く。両父の才と意思を良く受け継ぎ、その人柄と武勇は、戦国後期の武将の中でも、最も武将らしい武将として、敵味方から信頼された。
1572
1617
大友家臣・豊臣大名・徳川家臣。
紹運の次男、後の立花直次。兄が道雪の養子になった為、父の死後に高橋家を継ぐ。秀吉の九州征伐後、筑後国三池で1万8千石の大名となる。兄宗茂と共に国内外幾多の合戦で奮戦し勇名を馳せた。関ヶ原合戦後、改易されたが、後に徳川家に仕える。その際に『高橋』の姓を『立花』に改めた。父紹運の死後、兄宗茂との対面する際は、師父に対する態度で接したといわれる。宗茂の言として『世間に大剛なる者、主膳程の者、之あるまじく候』とその武勇の程を評す。旧領三池に再封される前に没す。
立花 種次
1604
1630
統増の長男。筑後国・三池藩初代藩主。
父・直次(統増)の死後、叔父・宗茂の後見のもと家督を継ぎ、旧領・三池に1万石の大名として再封を果たした。27歳の若さで死去す。
立花 忠茂
1612
1675
統増の四男。筑後国・柳河藩二代藩主。
生まれてすぐ叔父・宗茂の養子となる。島原の乱にも参戦した。
吉弘 鑑理
?
1571
大友家臣、
大友家三家老(豊州三老)の一人。
紹運の父。妻は大友義鑑の娘(宗麟の姉)。同じ三老職の臼杵鑑速が政、戸次鑑連が武と特徴を持つ中、鑑理は政と武の両方を過不足なくこなした武将で、宗麟政権下で軍事・行政に辣腕を振るった。鑑理の統括する吉弘一族は、多くの忠勇の名将を輩出した為、特に宗麟の信頼も篤かった。対毛利戦後、筑前の要衝・立花城城督の予定であったが病死。彼の後任として、戸次鑑連が選ばれ、立花道雪が誕生する。大友家の凋落は三老体制の崩壊、ことに鑑理の死から始まったといっても過言ではなかったのである。
吉弘 鎮信
吉弘 宗仭
?
1578
大友家臣、吉弘鑑理の長男。
加兵衛 鎮信。
紹運の実兄である。紹運とは対照的に軍事面よりも特に博多・堺の商人との交渉などに活躍したようである。天下の名器「楢柴の茶入れ」を手に入れる為、博多の豪商・島井宗室と交渉したが失敗している。対島津戦『耳川の戦い』で奮戦するも戦死。
吉弘 統幸
吉弘 加兵衛
?
1600
大友家臣、鎮信の子、加兵衛 統幸。
大友家改易後に一時的に宗茂の庇護を受ける。関ヶ原合戦の際は宗茂と袂を分かち徳川家に仕える大友義乗の許に駆けつける予定であった。しかし西軍についた大友義統を見捨てる事が出来ず義統に従った。黒田如水と戦い大いに苦しめるも戦死。大友家に残った最後の至宝・統幸の死は、義統に戦意を失わせ、その後降伏した。

◆ 紹運関連・武将 ◆
1513
1585
大友家臣、
大友家三家老(豊州三老)の一人。
本名は戸次鑑連、道雪は号で、後に立花家を継いだ為、立花道雪(戸次道雪)を名乗る。敵味方通じて慕われた戦国最強武将。雷獣を斬って下半身不随となるが、輿に乗って戦場に赴き不敗神話を築く。鬼道雪の名は九州はもとより東国まで鳴り響き、甲斐の大名・武田信玄もその名を知っていて、一度戦技を競ってみたいと言わしめたといわれる。
大友 宗麟
大友 義鎮
1530
1587
豊後国の大名。高橋紹運の主君。
九州六カ国を支配し九州探題に就任した。キリシタン大名として知られ、ドン・フランシスコを称す。日向国にキリシタン王国を築こうと妄想し、同地で島津軍に大敗した。以後大友家は衰退し、島津・龍造寺との三国鼎立状態に堕ちいった。道雪死後、大坂に上がって秀吉に泣きつき九州征伐を促す。島津降伏後に死去した。因みに日本では暴君のイメージが強い彼ですが、キリシタン側の記録では聖人の如く敬われて名君だそうです(笑)。
大友 義統
大友 吉統
1558
1610
宗麟の嫡子。妻は吉弘鑑理の娘・菊子。
文禄の役で敵前逃亡した為、改易される。・・・たしか、秀吉の養子として「吉」の字を貰ったんじゃなかったかと・・・
大友 義乗
1577
1612
義統の嫡子。妻は紹運の娘。
大友家改易後、家康に預けられる。徳川家の旗本として家名を残した。
斉藤 鎮実
?
1578
大友家臣、紹運の妻・宋雲院の兄。
『大友二階崩れ』の変に関連する斉藤長実の子。勇将として知られるが、耳川の合戦で壮絶な戦死を遂げる。
筑紫 広門
1556
1623
斉藤鎮実の妹を妻に持つ。紹運とは相婿。島津から秀吉に鞍替えした為、島津軍に攻められる。紹運とはすべてにおいて対照的な武将。九州征伐後、紹運の子・宗茂の与力大名となる。
高橋 鑑種
?
1579
大友家臣、宝満・岩屋城主となる。
一万田氏から高橋家の養子となり、高橋家を継いだ。大友家に謀反し敗れ、豊前に移される。高橋家は紹運が継ぐこととなる。
立花 鑑載
?
1568
大友家庶家。筑前国立花城主。
『西の大友』といわれた名家。毛利家に同調して謀反を起こし、戸次鑑連に攻められ開城。鑑載は逃亡途中殺害される。立花家は鑑連が継ぎ、立花道雪を名乗るようになる。
立花 親善
?
?
大友家庶家。鑑載の子。
父鑑載の謀反後、一時放浪す。のち鑑連(道雪)に父の不義を詫び、知行の安堵をこう。鑑連は親善を不憫に思い、宗麟に願って復権を願うが許されず、領内居住のみ許された。親善は立花の家名断絶を憂い、鑑連を以って立花氏を継ぐように懇願し、のち許され、鑑連に重代の家宝を進上し『立花道雪』が誕生する。

◆ 紹運関連・女性・その他の人物 ◆
?
1611
紹運の妻。斉藤鎮実の妹。
結婚前に疱瘡を患い醜女となり破談になりそうになったが、『容貌が変わろうとも、心も変わろうはずが無い』と紹運は言いきり無事結婚。家臣団からは母の如く慕われたという。
仁志姫
西姫
宝樹院
?
1616
道雪の正室、剃髪して宝樹院。問注所鑑豊の娘。
子連れで道雪と再婚しァ千代姫を生む。
1569
1602
道雪の一人娘。宗茂の正室。
筑前国立花山城城督。
女ながら僅か六歳で立花家の家督を相続し、立花城城督となる。『西国一の女丈夫』といわれ、女軍を組織、一説には鉄砲隊を組織していたとも言われる。宗茂とは性格が似すぎていた為か不和となり、後に別居。立花家改易後、わずか数年にして死去。
養孝院
?
1575
道雪の義母、臼杵氏。
道雪を育て挙げた偉人。
正光院
?
1514
道雪の実母、由布氏。
道雪を生んで間も無く死去。
亀菊丸
方清法印
?
?
筥崎座主・方清法印。
仁志姫の先夫との子。
政千代姫
?
?
仁志姫の先夫との子。
薦野増時と結婚話が持ちあがるが、薦野が拒否した為立ち消えとなる。そのうちに早世。・・・米多比三左衛門の妻かな?
色姫
伊呂姫
菊花姫
1546
1584
宗像大宮司・氏貞の妹。
道雪の側室・松尾殿。
宗像家の怨霊話などに関わる。
加袮姫
1570
?
筑紫広門の娘。
紹運の次男・統増の正室。
『押し掛け結婚』の壮挙で知られる。
いとこ同士で結婚するも、のちに父・広門が岩屋城の秘密を漏らしたという事で離縁。(ホントに離婚したのかは不明)
菊子
?
?
吉弘鑑理の娘。大友義統の室。
?
1587
大友宗麟の継室。
奈多八幡宮の奈多鑑基の娘。
大友義統・親家・親盛の実母。実家が神官であった為か、キリスト教を嫌い、キリシタン宣教師達は陰で「イザベル」と仇名して誹謗した。『耳川合戦』の前に、宗麟に離婚させられたが、その後も城に留まっている。宗麟の死去、数十日前に他界。後年はキリスト教にも、寛容に対処していたようである。キリシタン側から誹謗中傷されるが、仏教側の聖女といえる。
?
?
大友家臣・林左京亮の娘。
加判衆の吉岡長増の子・鎮興に嫁した。夫が『耳川の戦い』で戦死すると、子の甚吉を盛り立てた。妙林は女傑として知られ、天正14年に島津軍が侵攻すると、息子不在の鶴崎城に篭って奮戦、一旦降伏して油断させ、退却する島津軍を壊滅させた。秀吉もその武勇を聞き対面を望んだが拒絶したといわれる。その後の妙林の消息は不明。

◆ 高橋氏家臣 ◆
有馬 伊賀
?
?
立花宗茂の初陣の後見役を果たす。
伊藤 源右衛門
?
?
高橋家臣。北原鎮久の謀反の際、話を持ちかけられるが、紹運に知らせ未然に防ぐ。岩屋合戦の折は、統増を守護して宝満城に籠城す。三池移封に際して千三百石を賜り、家老職となる。
伊藤 惣右衛門
?
1586
高橋家臣。岩屋合戦の折、虚空蔵台南の大手城門を守る。
伊藤 八郎
?
1586
高橋家臣。岩屋合戦の折、東松本の砦を任される。
太田 久作
?
?
高橋家→立花家。紹運の長男・統虎(宗茂)の立花家養子入りに際して随行。
?
1580
高橋家筆頭家老。
前当主・高橋鑑種と不和になり、大友宗麟に願って高橋家を再興させる。しかし秋月種実に唆され、謀反を起こそうと計画して露見し、紹運に誅伐される。
北原 進士兵衛
北原 種興
?
?
高橋家臣のち家老。鎮久の嫡子。
父・鎮久の誅伐後も紹運に仕える。父を唆した秋月を領内におびき出して復讐を果たす。
?
1600
高橋家臣→立花家臣。
紹運の長男・統虎(宗茂)の立花家養子入りに際して随行。紹運から「紹」の字を賜り、「紹兵衛」を名乗る事を許される。関ヶ原合戦の折、不手際から多くの家臣を死なせた為に自ら自決する。
藤内 左衛門尉 重勝
?
?
高橋家臣。紹運の命により岩屋城兵の菩提を弔う為、岩屋合戦の前に城を出される。後に『西正寺』を建立す。ある意味、戦後もっとも苦労をした人かもしれない。
谷川 大膳
谷川 鎮実
谷川 立心
?
?
高橋家臣。岩屋合戦の際、立花城に使者として赴いていた為に岩屋落城を知らず、島津軍に捕縛される。島津忠長を前に堂々と応対。臣下となるよう進められるが拒絶し、代わりに自らの持つ書状を封は開かずに立花城に返してくれる様に要求、「もし叶わぬならば、我が首をはねて後、披見されよ」と死を望んだ。その忠節に感じ入った忠長により忠臣として立花城に返される。その後、立花家の兵学指南となったが、子に家督を譲り『立心』を号して、岩屋城兵の冥福を弔いながら生涯をおえたという。
土岐 大隈
?
1586
高橋家臣。岩屋合戦の折、風呂谷の砦を任される。
萩尾 大学
?
1586
高橋家臣。麟可の子。
家中第一の勇将。岩屋合戦の折は、二重の櫓を守備。
萩尾 麟可
?
1586
高橋家臣。岩屋合戦の折、二重の櫓を守備。
福田 民部少輔
?
1586
高橋家臣。岩屋合戦の折、虚空蔵台を守備。
三原 紹心
?
1586
高橋家の同族・大蔵一門。
岩屋合戦の折、百貫島より西北山城戸にかけてを守備。
村山 刑部
?
1586
高橋家臣。岩屋合戦の折、水の手上砦を任される。
?
1586
高橋家・家老。
岩屋城の城代家老として活躍した紹運の右腕。紹運の遠征時に鉄壁の守備をみせ、敵方から『屋山がいる限り、岩屋城には手が出せぬ』と言わしめる。岩屋合戦の折は、虚空蔵台西南の城戸を守備する。
屋山 太郎次郎
1574(?)
1586
高橋家臣。屋山中務の嫡子。
岩屋合戦の際、幼少の為城兵から外されるが 城に留まる。父の死を知って島津軍に駆け入り戦死。
弓削 了意
?
1586
高橋家臣。岩屋合戦の折、山城戸を任される。

◆ 立花氏家臣 ◆
■ 立花四天王
1527(?)
1612
立花家筆頭家老・立花四天王筆頭。
道雪に最も信頼された立花家の副将格。小野和泉を道雪に推挙した事でも知られる。幼少の頃から宗茂に厳しく接し、彼の人格形成の一旦を担った。不敗を誇った道雪の采配の許、幾多の合戦で先陣を受け持った。戦場での才覚は雄に及ばず、商都「博多」の統括を任されるなど文武に優れた良将である。宗茂が柳河城主になると、酒見城を任され3500石を給される。関ヶ原合戦での立花家改易後も浪人となった宗茂に従い、立花家再興を見届けた後死去している。
十時 摂津
十時 連貞
?
1644
立花家・家老。立花四天王の一人。
その人と為り『沈勇にして剛直也』と伝わる。立花家改易後も宗茂に従い、虚無僧となっ主を養う。その際に豊臣秀頼に万石をもって招かれるが拒否している。江戸にあった時、無頼漢を切り伏せた事が徳川家に伝わり、その事が立花家再興に繋がる。島原の役にも81歳で従軍している。
安東 家忠
紀伊介
?
?
立花家・家老、立花四天王の一人。
『武勇絶倫、戦場に赴くこと二十余回 皆功あり』 と伝わる。
高野 大膳亮
?
?
立花四天王の一人。・・・詳細不明。
■ 立花家臣
天野 源右衛門
安田 作兵衛
安田 国継
?
?
立花家臣(客将)。本能寺の変で織田信長に槍をつけた男。
二千石を給されていたが、朝鮮の役「碧蹄舘の戦い」で十時伝右衛門との先陣争いに破れ職を辞す。のち唐津城主・寺沢氏に仕える。
安東 省庵
安東 助四郎
1622
1701
立花家臣、安東連直の孫、
親清の次男。柳河藩藩学の祖。
幼少の頃より宗茂・忠茂親子にその才を認められて、成人した暁には一家を立てる事を認証されたという。島原の乱にも病をおして従軍している。
因みに省庵は、ラーメンを日本にもたらした事で有名な「朱舜水」の不遇時代、禄を削って助けた。後に舜水は水戸徳川家(水戸光圀)に招かれている。
安東 常久
善右衛門
?
1593
立花家臣。朝鮮の役『碧蹄舘の戦い』で奮戦し戦死。
安東 連直
?
?
立花家・家老にして母衣武者の一人。連実の子?家忠の孫?。
安東 幸貞
?
?
立花家臣。連直の子、家忠の弟。
剛勇にして武略あり、『碧蹄舘の戦い』で作戦上殊功をたてたという。
池辺 永晟
池辺 龍右衛門
?
1593
立花家臣。剛勇をもって知られる。『碧蹄舘の戦い』で奮戦し戦死。
石松 安兵衛
?
?
立花家臣。石松源五郎(高橋越前)の子。
内田 鎮家
内田 元叙
?
?
立花家・家老のち武者奉行を兼任。
岩屋合戦後、立花城に迫った島津軍に、偽りの使者として乗りこみ時をかせぐ。援軍到着を知った島津諸将に斬られそうになるが、忠臣として立花城に送り返される。柳河開城後は、清正に仕える事を潔しとせず帰農したという。
内田 統続
内田 忠兵衛
内田 忠右衛門
?
1600
立花家臣。鎮家の嫡子。
『碧蹄舘の戦い』で十時伝右衛門と共に先鋒となり奮戦す。伝右衛門と共に死ぬ事が出来なかった事を恥、常に死に場所を求めていたという。関ヶ原の役「大津城攻め」で壮絶な戦死をとげる。
海老 名弾正
?
?
戸次家臣(笑)。道雪の幼少時の傳役を勤めた人物。それ以外は不明(笑)。因みに明治頃の子孫の海老名弾正は、同志社大学の総長を勤めた人物。
小串 成重
忠左衛門
?
1593
立花家臣。『碧蹄舘の戦い』で小野和泉麾下として戦い戦死。
1546(?)
1609
大友家の臣→立花家・家老。
大友家から派遣された軍目付であったが、由布雪下に見出され立花家の臣となる。家中で由布雪下と双璧をなした知勇兼備の将。筑前国・高鳥居攻めでは両足を撃たれながら采配を振るい味方を鼓舞した。宗茂が柳河城主になると蒲池城を任され5千石を給される。朝鮮の役にも出征し立花軍の中核として活躍。帰国後、秀吉は和泉を評して『日本七槍の一』と称えた。立花家改易後は、立花家家臣団の筆頭として加藤清正に仕え厚遇される。浪人となった宗茂に対して、変わらず支援し続けた。宗茂の柳河再封を前に死去。
小野 成幸
?
1593
立花家臣。小野和泉とは従兄弟。
『碧蹄舘の戦い』で、宗茂より軍扇を賜り、それを持って奮戦す。同合戦にて戦死。
小田部 統房
小田部 新介
?
?
立花家臣、筑前・荒平城主・小田部紹叱の子、妻は紹運の娘。
1543
1623
立花家臣・家老。
道雪の立花城入りに際し、召抱えられる。一時その器量を見込まれ養子候補となるが固辞し、紹運の長子・統虎を道雪の養子として推挙した。道雪の筑後遠征時、宗茂の補佐として在城。留守を狙った秋月氏8千の兵に僅かの兵で夜襲をかけ撃退した。九州征伐の時に「立花」姓を賜り、秀吉の許へ赴く。宗茂が柳河城主になると、城島城を任され、小野和泉に次ぐ4千石を給される。関ヶ原合戦時は、東軍に付くように進言したが受け入れられなかった。立花家改易後はその処理におわれ、その際の手際の良さを買われて、黒田如水に誘われ筑前に帰る。
桜井 中務
?
1585
立花家臣。道雪の筑後遠征の際、立花城で謀反を計画するが露見し、統虎に誅伐される。
桜井 冶部
?
1585
立花家臣。道雪の筑後遠征の際、立花城で謀反を計画するが露見し、統虎に誅伐される。
高橋 越前
石松 源五郎
?
1586
立花家臣。岩屋合戦の際、岩屋城に使者に赴きそのまま城に留まった。その折 紹運より「高橋」の苗字と『越前』の名を賜る。
?
1620
立花家臣。薦野増時の嫡子。
紹運の娘を妻にする。関ヶ原の対鍋島戦『八の院の戦い』で、立花軍本体の苦境を知り、独断で持ち場を放棄し鍋島軍の横合に押し入り危機を救った。戦後、的確な判断で軍勢の崩壊を救った成家の活躍が随一であるとし、感状をもって賞される。立花家の改易後は、父に従い黒田家に仕えて4千石を給される。父に先立ち同地で没した。
立花 壱岐
立花 惟興
由布 惟興
?
?
立花家・家老。十時摂津の子。
由布惟次の嗣子となり、由布家を継ぐ。立花姓を賜り、通称『立花壱岐』を名乗る。忠茂を補佐して政治上多大の功績を為した。
?
1589
立花道雪の甥。戸次親行の子。
2歳の頃、父の死によって道雪に引き取られ厳しく育てられた。その人となりは、沈勇かつ剛毅で、礼節を重んじる高義の人だったといわれる。後に加藤清正に難癖を着けられ自刃に追いこまれる。その死に際して、妻子はもとより統春の人柄を慕う家人も皆 後を追い殉死した。武士として精錬に生きた統春の早過ぎる死は、立花家中の誰もが惜しんだという。
立花 三太夫
立花 統次
?
1600
立花家臣。森下釣雲の三男。
立花統春の死後、家名が絶えることをうれいた宗茂の命で統春の家を継ぐ。「八の院の戦い」で壮絶な戦死を遂げる。
十時 伝右衛門
十時 連久
?
1593
立花家の侍大将。連貞の従兄弟。
『勇猛果敢にして膂力衆に超ゆ。』
通称『生摩利支天』。一番槍・一番首・一番乗りの功多数、感状は数十通を数える。筑後遠征時、偵察任務中に水浴びをし敵兵に発見されたが、赤裸のまま敵兵をなぎ倒しゆうゆうと帰陣した。軍規に厳しい道雪にもこの不埒な武勇伝が報告されたが、その武勇を認めて苦笑するしかなかったそうである。朝鮮の役で出征し、文禄の役最大の合戦「碧蹄舘の戦い」で先陣を受け持ち、縦横無尽の働きをした。同合戦にて毒矢を受けて死去。その生涯は家中で常に話題にのぼる人物であった。
中江 新八
?
?
立花家臣。日置流・弓術の達人で、立花家に『電撃流抜刀術』を伝えた人・・・らしい。
?
1633
立花家臣・家老。
筑前の国人、道雪に見込まれ養女を妻に娶る。立花家改易後、加藤清正に仕えたが、道雪の妻・宝樹院と、宗茂の正室・ァ千代姫に孝養を尽くしたといわれる。
原尻 鎮清
原尻 宮内
?
?
立花家・老臣。
道雪死後、殉死をしようとした由布・小野等に対し『何故生きて九国の大敵を撃ち、幼主の運を開こうとしないのか』と言い放ち思い止まらせた。
戸次 鎮林
?
?
立花家臣。
戸次 統直
?
?
立花家臣。
森下 釣雲
森下 備中
?
1631
立花家・家老。
祖父・実父と共に『備中』を称す。道雪・宗茂二代に仕え、朝鮮の二役にも従軍し功をたてる。
森下 鎮矩
小野 鎮矩?
?
?
立花家臣。釣雲の子。
実子のない小野和泉の嗣子となる。のちに通称を「小野和泉」に改め、家老兼大組頭となる。
由布 惟次
?
?
立花家臣。雪下の子。
合戦により足が不自由になって、留守居役になる。
吉田 右京
?
1586
立花家臣。
岩屋合戦の折に『国に報いるに義あるのみ』といって自ら志願して援軍となる。萩尾父子と共に二重の櫓を守備し、落城の日 持ち場を一歩も退かず討死。後年 宗茂は右京の事を思い出すと  『養子の自分には家中の者に岩屋城への援軍を頼むことが出来なかったが、吉田が志願してくれた為、多くの者達が続いて志願してくれた。自分はあの時ほど嬉しかった事ない。』 と涙ぐんで、その死を悼んだといわれる。そして  『だから自分は吉田達の忠節に対して、子々孫々に至るまで報いなければならない』 とも語ったといわれる。


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