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■0■ はじめに
まずは、前置きとして書き留めて置きます。
以下の文章は、
高橋紹運の正室『宋雲尼』の没後四百年という事もあり、
東京都にある『宋雲院』様への寄稿として、
当サイトの管理人「しらべ」が作成したものです。
現在は暫定処置として、ほぼ全文を掲載しますが、
当サイト内の情報と重複する箇所が多々ありますので、
後日改めまして、再構成したものを掲載し直す事とします。
宋雲尼を中心に据えた、一族の歴史、時々宋雲尼、
として読んで頂ければ幸いです。
しらべ記す
2011-04-27 |
■1■ 宋雲尼 出自とあらまし
これから紹介する「宋雲尼」という女性ですが、この方を知っておられる方は少ないかもしれません。
戦国時代に生を受けた彼女は、九州の戦国大名・大友宗麟に仕えた、武将・高橋主膳兵衛鎮種(後に紹運と号す)の正室だった人です。実名は伝わっておらず、彼女の法名が「宋雲院殿花獄紹春大姉」である事から、いまは一般的に「宋雲尼」もしくは「宋雲院」と呼ばれています。
夫紹運は後年、薩摩島津氏の5万もの大軍を、筑前岩屋城で僅か763人の小勢で迎え撃ち、多大な被害を与えた末、戦国史に稀な玉砕を果たした人物です。その清廉な生き様に敵味方が涙したといわれます。豊臣秀吉もまた紹運主従の奮戦を伝え聞き涙したと云い、島津氏の九州制覇を阻み、秀吉の九州征伐に於ける最大の功績を残した紹運主従の忠節を称えて『乱世の華』(『戦国の花』とも)と評し、その死を惜しんだと云われます。
紹運と宋雲尼の間には、二男四女の子宝に恵まれました。
長男は後に「西国無双の勇士」と謳われる立花宗茂(筑後国柳川藩主)であり、
二男は紹運の跡を継ぎ高橋家(後に立花姓に改姓)を相続した立花直次(筑後国三池藩主)でした。
二人の男児は、乱世を経て、それぞれ大名として礎を築く事となります。
宋雲尼の父は斉藤長実といい、九州の豊後国(大分県)の大名・大友義鑑(キシシタン大名・大友宗麟の父)の家老職を勤めていました。母は不明ですが、兄に勇将と知られる斉藤鎮実と、後に筑紫広門の妻となる妹がいました。
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■2■ 大友家の二階崩れの変
天分19年(1550)、
ある不幸な事件が起こります。
九州の豊後国(現在の大分県)の大名は、大友義鑑(キリシタン大名・大友宗麟の父)という人物でした。
この時期、大友義鑑には男児が3人いましたが、義鑑は長男の義鎮(後の宗麟)を嫌っており、次男の晴英(後の大内義長)は他家への養子縁組の話があり、幼い末子の塩市丸は側室の子でしたが、義鑑はこの末子を溺愛していたといいます。塩市丸に家督を継がせたい義鑑は、内密に家老衆を呼び寄せて意を伝えました。
しかし、嫡子廃嫡はお家騒動の元として、宋雲尼の父斉藤長実をはじめとした家老衆は反対したといいます。そこで大友義鑑は、再び呼び寄せた長実等をあろう事か謀殺してしまいます。この時手違いがありました。反対派の小佐井大和守と田口蔵人佐は所用で難を免れていましたが、たまたま縁者が御殿に近時していて、両者はこの凶事を知る事になります。逃れ得ぬ運命を悟った二人は図って「この上は、お家の為、事の元凶である塩市丸殿と母君を斬り、その後に潔く自刃しよう」と申し合わせ実行に移す事となります。
天分19年(1550)2月10日の夜、
小佐井、田口の両人は決起して大友義鑑の御殿に押し入り、塩市丸と母君を惨殺し、二階の寝所にて義鑑に斬りつけ重症を負わせたといわれます。世に『大友家の二階崩れの変』と呼ばれる凄惨なお家騒動です。
この後、大友家は長男である義鎮が家督を継ぎ、後年キリシタン大名として知られる大友宗麟と名乗ることになります。
事件の後、家督を継いだ大友義鎮は、父義鑑に忠孝を尽くした末、惨殺された斉藤長実を不憫に思い、その嫡子である鎮実に斉藤家の家督を相続させ、その所領も今ま通りとし、丹生庄(大分県北海部郡)の領主として遇しました。鎮実はこの後、大友家臣団の中核の一人として活躍し、勇将と呼ばれる事となります。
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■3■ 高橋紹運(吉弘弥七郎鎮理)の出自
ここで、いま少しばかり宋雲尼の夫となる高橋紹運(吉弘鎮理)の出自と人物像を紹介します。
高橋紹運は大友家の加判衆 吉弘鑑理の次男として生まれました。
吉弘氏は、豊後国・国東(ぶんごのくに、くにさき)の領主で屋山城を居城とします。父鑑理の頃は、大友家の三老(四老とも)の一人として大友家の興隆に尽くした功臣でした。兄に吉弘鎮信があり、大友宗麟の側近として活躍しています。
紹運の幼名は千寿丸、長じて弥七郎。主・大友義鎮(宗麟)から「鎮」の字を貰い吉弘弥七郎鎮理を名乗ります。後述しますが、後に高橋家の家督を継ぐ事になり、高橋家の通字「種」をつけて「高橋鎮種」となり、後に「紹運」と号しました。
大友家中で若き頃より声望があったそうで、その人柄は、沈着冷静で思慮深く、度量が人に優れて寛大で、義に篤い高義真実の人であったと云われます。普段の紹運は柔和で、饒舌は好まなかったが、一度口を開けば聞く者皆納得する至言を吐いたといわれます。外柔内剛の人といえるでしょう。
また『高橋紹運記』という史書には『賢徳の相有りて、衆に異る。器量の仁にてましませば』 と書かれています。吉弘家の次男の身でしたが、大友家中の人々は「この人物こそ将来の英雄となるであろう」 と噂されたといわれます。
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■4■ 宋雲尼と弥七郎 〜心ありてこそ〜
史書における女性の記述は少なくのが現状です。
宋雲尼もその例に漏れず、多いとは言えませんが、
その中で唯一と言っていい話が一つだけあります。
この話は、宋雲尼と紹運の心と心の結びつきを語る一方、その後の家族と家中の絆を象徴する話として印象深いと云えるでしょうか。
「容姿の美しさは、果たして、心根の美しさに及ぶものなのか?」
「失ったモノの代わりに、得たモノ」
『常山紀談』に記されるこの話は、色々な事を考えさせる挿話です。
高橋紹運が、まだ吉弘弥七郎を名乗っていた頃の話です。
宋雲尼(実名不詳)の兄斉藤鎮実(一説では鎮実の娘)と、弥七郎(紹運)の父吉弘鑑理(一説では兄鎮信)は、日頃から馬が合ったらしく友誼を持っていました。弥七郎がまだ筧(かけい)の館(豊後高田市)にいた頃、弥七郎の父吉弘鑑理と、宋雲尼の兄斉藤鎮実の間で、鎮実の妹御を弥七郎の嫁にと婚姻の約束が交わされていました。
鎮実の妹は、当時豊後一とも言われる華のような可憐な少女だったといわれます。弥七郎も鎮実の妹御の温和な人柄に惹かれ、この婚姻を承諾していました。
しかし時は戦国の世。当時、主家大友氏は、中国地方に台頭した毛利氏(毛利元就)と度々交戦し、弥七郎も父と兄に従い各地を転戦する日々が続いていました。
ある時、弥七郎は所用で鎮実に会う機会があり面会する事となりました。そこで弥七郎は、戦陣の合間に婚儀が延びたのを詫び、必ず妹御を妻に迎える事を伝えました。しかし鎮実は苦渋の表情を浮かべ婚約の破棄を申し出たのです。
『常山紀談』には、
「げにげに申し交わせしは忘るべくも候はねど、その後、妹は痘瘡を煩いて、以ての外みぐるしくなりぬ。中々かれが有様にて見届けらるべきにあらず。今にては参らせん事叶い難し。」
とあります。要約すると、
「妹は当時流行っていた痘瘡(天然痘)にかかり、命は取り留めたが、容貌が一変してしまい、とても嫁に出す事は出来ない」
と鎮実はいうのです。
それを聞いた弥七郎は、うな垂れる鎮実をみて
「これは思いもよらぬお言葉を聞くものです。斉藤家といえば代々武勇誉れ高き武人の流れであればこそ、拙者の嫁にと望み申し入れた事です。私が妹御を妻にと所望したのは、その心根の優しさであって容色ではありません。不幸容貌一変したとて心根まで変わるものでしょうか。拙者と致しましても、少しも色好みの浮いた気持ちで妻にと望んでいるのではありません。どうして武士の約束を違える事ができましょう。」
と心の内を披瀝し、程なくして約束どおり彼女を妻に迎え入れたそうです。
結婚した時期は不明ですが、長男の千熊丸(後の立花宗茂)が永禄十年(1567)誕生なので、永禄八年から九年頃、弥七郎が19歳頃、宋雲尼が16〜17歳頃といわれています。
弥七郎の見込んだ通り、彼女はその心根で人々に接した為、家中からは母の如く慕われたと云われます。また子宝にも恵まれ、武将の妻そして母として内助の功多く賢母の名を高めました。弥七郎は、後に高橋紹運と名乗りますが、多くの戦国武将が側室を持つのが当たり前だった時代、その生涯で伴侶は宋雲尼だけだったそうです。
宋雲尼は、若くして女性としての容貌の美しさを失った事は辛い事だったと言えます。その代わりに、夫との深い絆と、家族と家中の心の繋がりという、目に見えない得難いものを得たのだと思います。
宋雲尼の兄斉藤鎮実は、うち続く不幸の中にあった妹を不憫に思っていただけに、弥七郎への感謝と妹の幸福を誰よりも歓んだといいます。両家の関係がより深まったのはいうまでもありません。
因みに、同じ戦国時代、この宋雲尼と紹運の話と似た話が2つ程あります。
1つ目は、毛利元就の二男・吉川元春と、熊谷信直の娘の話。
2つ目は、明智光秀と、妻の煕子(ひろこ)の話です。
吉川元春と熊谷信直の娘の話は、紹運と宋雲尼の話とは少し違って、醜女(しこめ)と知られる信直の娘を娶る理由を「美女に惑わされて武名を汚したくない」事と、「世に知られ誰も振り向かない醜女を娶れば、その親で勇将として知られる熊谷信直の感激は深く、毛利に感謝して死力を尽くしてくれるに違いない」といった、少し権謀風味な話になってます。
明智光秀と煕子の話は、紹運と宋雲尼の話に似ていて、疱瘡に罹った煕子に代わって、父親が煕子に瓜二つの妹を光秀に煕子として娶わせ、それを光秀が看破して無事結婚という話です。
だだし、この光秀夫婦の話は創作性が強く、紹運夫婦の話を元とした後世の創作ではないかとも昔から疑われています。また、煕子は疱瘡に罹ってはおらず、大変美人であり、光秀の主君・織田信長に横恋慕された、という様な話もあり、真偽は定かではありません。
昔も今も美醜で人を判断する事は、あまり変わらないのかもしれません。
しかし、美女は傾国や傾城など悪い例えに使われますが、不美人といわれた女性は良妻賢母と言われる人が多いのも事実なのかもしれません。ここに取り上げた3人の女性は、それぞれが夫婦円満で子宝に恵まれ、家族や家中との心と心の繋がりや絆が強かった事が共通しています。そして戦国時代に珍しく、夫は側室を持つ事がなかった事も…。
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■5■ 九州大友氏の隆盛
話を歴史の流れに戻します。
宋雲尼が国東半島の吉弘家に輿入れしてまもなく、大友家の領国である筑前国で騒乱が起こりました。
中国地方で勢力を増す毛利元就が九州侵略を目論み、大友家に不満をもつ者を煽動した為です。中でも大友家の重臣の一人で、宝満山城・岩屋城(現在の太宰府市)を所領に持つ高橋鑑種を首魁として、大友氏の分家である立花鑑載、秋月氏、筑紫氏、宗像氏などが一斉に蜂起し混乱しました。
大友宗麟は直ちに配下の豊州三老と呼ばれる戸次鑑連(後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理をはじめ、斉藤鎮実らの武将に数万の兵を預けて筑前に侵攻させました。この時、吉弘鎮理(弥七郎、後の紹運)も父吉弘鑑理に従って転戦する事になります。
毛利氏は「毛利の両川」として知られる猛将・吉川元春と、知将・小早川隆景の有能な息子に大軍を預けて筑前国へ侵攻させ大友氏を圧迫します。戦況は一進一退し、筑前多々良川で対峙し合戦に及ぶも両軍膠着状態に陥りました。
永禄12年末(1569)、ここにきて大友宗麟は老臣吉岡宗歓と図り、先年、毛利元就によって滅ぼされた大内氏の一族で、大友氏に庇護されていた大内輝弘に兵を与えて毛利氏の領国に逆侵攻の策にでました。戦国随一の謀将といわれる元就でしたが、宗麟の謀略の前に屈し、手薄な本国の防衛の為に両川の軍勢を撤退させる事になり、毛利元就最晩年の屈辱的敗戦となりました。
この追激戦で、吉弘家中の働きは目覚しく、当時吉弘隊の中にいたであろう弥七郎(紹運)も奮戦したものと思われます。
毛利氏の掃討の後、筑前の叛徒は次々に大友氏に降ることになりました。
首魁のひとりだった高橋鑑種は、実家が大友家の重臣である一万田家であった為、助命され、領国を没収された上で豊前国へ移されました。大友氏の分家である立花氏は当主が死亡。その他の諸氏も大友氏の威に服した為、これより数年、大友氏の全盛期となります。
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■6■ 高橋家家督と大友氏の筑前五城
前述の如く、中国の大名・毛利氏に組して謀反を起こした筑前国の高橋鑑種は豊前国(福岡県北九州)小倉に追放されました。小倉に移された事に鬱屈した鑑種は家中の者に当り散らす様になり、家中に不信が募りました。そこで重臣達は協議して、豊後の大友宗麟に直訴し、名族・高橋家の再興を望み大友の一族からの後嗣を望む事になります。
大友宗麟は重臣と評議の結果
「高橋家の居城 宝満・岩屋両城は、当家にとって重要な城であり、めったな者を配する事は出来ない。鎮理は若年なれど人物に不足はない。また、鑑種の実家一万田と、鎮理の実家吉弘家は縁戚の間柄なので、名跡を継いでもおかしくあるまい。」
という事になり、
元亀元年(1570)五月(永禄十二年説もある)
吉弘鑑理の次男である弥七郎鎮理に、鑑種の旧領・御笠郡(現在の福岡県太宰府市周辺)一円を与え宝満・岩屋両城主としました。
そのため彼は吉弘鎮理を改め、高橋家の通字「種}をつけて「高橋鎮種」を名乗り、後に剃髪して「紹運」と号する事になります。
元亀元年(1570)五月、
紹運は妻(宋雲尼)と生まれたばかりの千熊丸(後の立花宗茂)を伴って宝満・岩屋城に入城ます。前後して、筑前国最大の要衝・立花山城に、大友家の武神・戸次鑑連が家族を伴い入城し「立花道雪」を名乗ります。(大友宗麟は、立花家は不忠の家であるとして、立花姓を名乗らせなかったともいわれます。)
当初、立花山城には紹運の父吉弘鑑理が赴任する予定でしたが、毛利家との合戦の頃より発病し体調を崩していた為、急遽、筑後国(福岡県南部)に詰めていた戸次鑑連を立花城城督の任に就かせました。以後は、年長の道雪の下で大友家の筑前支配の要として貢献し、領内の城砦などの整備や、城下の大宰府天満宮などの神社仏閣を保護するなど民政に意を注ぐ事になります。また、紹運の兄・吉弘鎮信が博多の豪商・島井宗室らと折衝していた関係から、彼らとも何らかの関わりを持つ事になりました。
この元亀から天正年間初期、主家である大友家は九州六ヶ国の守護となり、隆盛を極めました。
そして、宋雲尼にとって最も幸せな日々でした。束の間とはいえ、戦も無く、元亀三年には、次男の千若丸(高橋統増、後の筑後三池藩主・立花直次)も誕生しました。新生した高橋家中でしたが、夫紹運は一城の主として、多くの旧高橋家臣に清廉な人柄で絆を深め、夫人である宋雲尼は、自らの容姿に心を痛めながらも、元々温和で優しい気質である為、心根を持って家中に接したといわれ、その優しさに触れた家中の者は、いつしか母の如く慕う様になったといわれます。岩屋城城下に「遠の朝廷」(とおのみかど)と謳われた大宰府政庁を望み、宋雲尼は家族の成長と家中の絆を深めた時期でした。
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■7■ 暗転 『耳川の戦い』と筑前騒乱
栄耀栄華に溺れていた大友宗麟。
天正六年(1578)
主家大友家が、日向国「耳川の戦い(高城川の戦い)」で島津氏に大敗した事に伴って、筑前の諸豪族が再び反旗を翻しました。
この「耳川の戦い」で、宋雲尼の兄斉藤鎮実は戦死し、紹運の兄吉弘鎮信も壮絶な戦死を遂げました。大友家の有力武将の大半が戦死した事で大友家は衰運に向かう事になり、悲しむ暇も無く、紹運は立花道雪と共にその鎮圧に奔走する事になります。
紹運の周囲は立花山城を除き皆敵になり、筑前の大友領は本国から孤立状態に陥るようになります。九州の情勢は一変し、薩摩国(鹿児島県)の島津氏、肥前国(佐賀県)の龍造寺氏、豊後国(大分県)の大友氏の勢力が拮抗した、いわゆる九州三国鼎立時代へと移行します。
この「耳川の戦い」敗戦以後より、「紹運ある所、道雪あり」と敵側から言われる程、紹運は立花道雪と一致団結して軍事行動を共にする様になります。紹運は、東国までその名を轟かす名将・道雪を師父として敬い、彼の戦術・戦略を見聞きし実践する事によって、高橋家の軍勢は立花家の軍勢と共に大友家の双璧とまで謳われるほどの強兵に成長して行きます。
この頃の宋雲尼の事を記す話は多くありませんが、兄鎮実の戦死と共に、当時の状況から心を痛める出来事の連続だったようです。その一つが、宋雲尼の妹の事でした。宋雲尼の妹は、毛利氏との戦いが終結した後、大友氏に降伏した肥前国の筑紫広門の妻となっていました。この筑紫広門の領地は、大宰府の高橋領と隣接しており、講和の後は姉妹で互いに音信を交わしていました。大友施政下にあった両家の家中も、領地は隣接し、城主は斉藤家を通じた相婿という事もあり、親戚付き合いの家士も多かったともいわれます。そんな中、大友氏の凋落に乗じて、近隣の秋月氏と共に龍造寺氏に与して再び反旗を翻したのでした。「昨日の友は今日の敵」そんな言葉の通りですが、両家中は勝手知った相手、気心知れた知人友人なだけに、一旦戦端を開いた両家の抗争は凄惨を極めたといわれます。
『高橋紹運記』にこの時期に起こった一挿話があります。
高橋家の家士・中島右京と、筑紫家の家士・帆足五郎兵衛は年来の友誼を持っていました。
ある日、中島の家に帆足がやって来たので、鶏料理を出して歓待していました。そこへ岩屋城から触れがあり「仔細があり筑紫家と手切れとなった。直ちに妻子を連れて登城せよ」との達しが届きました。世の無常を知り、二人は慟哭し、別れの盃を交しました。
右京は帰り行く五郎兵衛を見送りながら、彼に「定め無き世とはいえ、明日からは主家の為、互いに敵味方となって戦わねば成らない」と言って硬く手を握り、そして「もし戦場で巡り合ったなら、御身の首は拙者が頂きますぞ」と冗談めかして言った。五郎兵衛も「その時は、お互い取るか取られるかだろうな」と答え、笑いながら帰っていきました。
そして翌日、早くも筑紫軍は行動を起こし、高橋領へ攻め寄せました。そして世の無常とも言うべきか、奇しくも二人は戦場で出会ってしまうのです。ふたりは示し合わせた様に「さぁ組もうぞ」と、互いに笑いつつ声を掛け合い、そして意を決して戦い、死力を尽くした激闘の末、五郎兵衛が右京に討たれて死んだそうです。その後、中島右京は職を辞し、僧となって亡き親友の菩提を弔ったといわれます。 |
■8■ 嫡子・統虎と立花の姫城督・ァ千代姫
天正九年(1581)、
紹運と宋雲尼の最初の子である千熊丸が、元服し名を「統虎」と名乗りました。そして盟友立花道雪の懇望により、高橋家の嫡子でありながら道雪の一人娘・ァ千代姫の婿養子として結婚する事とります。紹運は当初、嫡男を他家に出すことに難色を示しますが、生い先短い道雪の家を思う心情と両家の更なる結束を固める為、この養子縁組を承諾しました。
紹運は統虎に別れの杯を交すと
「今日より後は、この紹運を親とは思わぬよう努めよ、これより道雪殿がお前の父である。武門の習いとして明日にも道雪殿と敵味方になるやもしれぬ。その様な事になった時、お前は立花家の先鋒なって間違い無くこの紹運を討ち取れ。道雪殿は未練がましい事を嫌われる生れつき故、もしお前がわしを前に不覚の行跡あれば、必ずや義絶されよう。その時おめおめと当城へ帰ってくる事は許さぬ。自らの足らざるを悔やみ、腹を切って道雪殿にお詫びし果てよ。」
そう言うと、その時の為にと備前長光の刀を手ずから与えました。
更に
「とはいえ、今日明日も覚つかぬ命である。不幸にしてこの紹運がお前より先に討死にする日が来るやもしれぬ。その時はその刀を我が形見と思い肌身離さず持っているがよい。そして、その刀を見、触れる度に、養家に対し、主家に対して尽くす義理を思い、かねてからわしが言っている様に、武士たる者がたどるべき道を確かめよ。」
と、厳しくも諭し励まして旅立たせました。
統虎は、この時渡された備前長光を父の形見として、その生涯片時も放さなかったといわれています。
こうして立花家に婿入りした統虎は「立花統虎」と名を改め、左近将監を名乗る事となりました。
宋雲尼の許に統虎が暇乞いに来ると、彼女は
「当家の事はご心配せず、道雪公に孝養を尽くし、立花の家名に塵をつけない様勤めなさい。」
と、逞しく成長した統虎がひとり立ちし、己が手許から去って行くことに寂しさを感じながらも、気丈に送り出したと言われます。
因みに、統虎の妻となったァ千代姫は、僅か6歳(数えで7歳)の幼さで、父道雪より家督を譲られ立花家を継いでいました。戦国期としても稀な女城主で「西国一の女丈夫」と呼ばれた女傑として知られています。
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■9■ 三国鼎立崩壊と道雪の死
天正十二年(1584)三月二十四日
島原半島で龍造寺家と島津家が合戦(沖田畷の戦い)に及び、龍造寺隆信が討死した事で九州の三国鼎立が崩れ、大友家は島津家の正面攻撃にさらされる事になります。
当時の大友家の当主・大友義統(宗麟の長男)は島津家の本格的な北上に備える為、蚕食されていた筑後征伐を企図し兵を侵攻させました。しかし「耳川の戦い」以来、多くの勇将・知将を失った大友家の軍勢は戦に不慣れな若者が多く、作戦は悉く失敗に終わります。業を煮やした義統は、今や切り札といえる道雪・紹運に出陣を要請し、両将は直ちにそれに応え、五千の兵を以って筑後に出陣します。両将は豊後勢を叱咤激励して瞬く間に猫尾城を落とし、筑後の大半を切り従えましたが、筑後国最大の堅城・柳河城(柳川城)を落とす事が出来ないでいました。
天正十三年(1585)
柳河城に篭もっていた龍造寺家晴は城を出て大友軍と対峙しました。三万の大軍を擁する家晴に対し、小勢の道雪と紹運は野戦にて翻弄。散々に討ち果たし肥前勢を敗走させましたが、決定的な打撃を与える事は出来ません。以後も幾度か野戦で駆逐するも、遂には柳河城を落とすまでは至りませんでした。
そして同年九月十一日、
大友家の柱石・立花道雪が北野の陣中で死去してしまいます。
『筑前治乱記』は、道雪の死に際した紹運の様子を
『亡者の杖を失い闇夜に灯の消えたる心地なれ、中でも紹運の嘆きは大業ならず、生きては行を同じくし死しては屍を列ねんとの思いしことの空しく、心中いかばかりか思われなむ』
と、焦燥した紹運の痛ましい心情を書き記しています。
彼の死によって大友家の筑後奪還は頓挫し、紹運は殿軍となって道雪の遺骸を守り筑前に撤退します。この時、龍造寺を始めとする敵軍は、斜陽の大友氏を見捨てず忠節を貫いた偉大な老将の喪に服し、一切の攻撃を控えて大友軍を襲う者はいなかったそうです。
この時の事を、島津側の記録『鹿児島外史』に
『九月大友の柱礎老将、立花鑑連高良山に卒す。まさに五丈原の喪に等し、高橋鎮種(紹運)棺を守りて筑前に帰る。秋月の兵邀撃せず、島津軍亦(また)追撃せず。名将の喪を憐れみ、その隙に乗ぜざるなり』
と記されています。
「五丈原の喪に等し」とあるのは、中国の史書『三国志』に登場する、蜀漢の丞相「諸葛亮孔明」の最後の地を指します。国に尽くした孔明の死と見事な退陣を模して、道雪の死もまた見事であったと評しています。
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■10■ 筑紫広門の蠢動(しゅんどう)
ひとりの偉人の死が、時代の流れを変え、また速める事があります。
この時期宋雲尼は、夫紹運が筑後遠征中で留守居の家中の切り盛りを高橋家の本城である宝満山城にいました。
道雪の死の翌九月十二日の夜、突如として宝満山城に火が放たれました。修験者の姿に身をやつした筑紫広門(宋雲尼の妹婿)の兵三百が、峰を登って城に潜入したのです。
宝満山城のあった留守居の城兵は、小勢であり、また放火の前に筑紫の陽動の兵を牽制する為出陣した為混乱しました。城将伊藤源右衛門と花田加右衛門は、直ちに宋雲尼と、統増兄妹を神楽堂に避難させ、僅かばかりの一隊を率いて宝満山本城へ駆け上るも、筑紫の別働隊が既に本城へ入り、そこから鉄砲を激しく放った為敗退しました。
筑紫の兵はさらに、神楽堂へ篭った宋雲尼母子を捕らえようと迫った時、本城の異変を察知した岩屋城の守将屋山中務が率いた一隊が駆けつけ、交戦しながら母子を救い出し岩屋城へ帰還しました。
紹運は、宝満山本城の失陥した十三日、北野陣中にて帰陣の支度をしていましたが、宝満山のある方角が火の手で赤く染まっているのを遠望して「さては筑紫・秋月の手によって、宝満・岩屋は既に陥ったものとみえる」といって、一隊を分け救援に赴かせた。そして本城失陥に驚きはしたものの、宋雲尼と子等の無事を知り安堵したといいます。
紹運帰陣後、高橋・立花両家は四十九日の喪に服しました。そして道雪没後の立花家は、婿養子となっていた紹運の子・統虎が継ぐ事になります。また、主家である大友家ですが、道雪の死によって、気弱になった大友宗麟は上方に上坂し豊臣秀吉に哀訴、島津征伐を要請しました。これが秀吉の九州征伐へと繋がります。
その際、宗麟は秀吉に対し
「朝(あした)には秋月氏に味方、夕(ゆうべ)には龍造寺に心を合わせるといった節操無き者の中にあって、立花道雪と高橋紹運の両名だけは、武名を惜しみ、義を尊び、恥をしる頼みになる武将であります。どうか御家人となし給わりますよう」
と語って紹運父子を推挙しました。そのため秀吉は紹運と道雪の養子統虎を直参とみなし朱印状を与えています。
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■11■ 筑紫の姫(宋雲尼の姪・加袮姫)
天正十三年(1585)
宗麟の上坂は九州緒将の噂となり、緒将は九州制覇目前の島津氏につくか、豊臣方につくか思いを巡らせていました。
いち早く行動を起こしたのは、筑前国の秋月種実でした。
秋月氏は、長年大友氏と抗争してましたが、秀吉の力を知り、また長い戦禍に膿んでいた為、高橋紹運と誼を結んでおこうと、娘を紹運の子統増に嫁がそうと話を進めたのです。
しかし、これに驚いたのが筑紫広門(宋雲尼の妹婿)でした。
秋月氏とは長年同盟関係にあり、共に戦ってきた仲でしたが、この話を伝え聞くと直ちに家臣を集めて
「もし秋月が高橋氏と合一しようなら、きっと当家は攻め滅ぼされるであろう。国家の安危はこの時であるから、皆の意見を聞きたい」
と家中一同に申し渡しますが、平伏するばかりで一向に妙策が出てきません。暫くして筑紫六左衛門という士が進み出て
「この一大事、尋常な事では敵いません。思い切った謀をとよくよく考えました所、ひとつ方法があります。大変恐縮ながら、姫君を某にお預け下さい。某が姫君を岩屋へお連れ申し、紹運殿に直談してみましょう。紹運殿は情深き人と聞いておりますれば、万に一つ巧く運ぶかもしれません。もし承知なき時はその場で姫を刺殺し、某も切腹してあの世へお供致します。この事が巧く運ばなければ、ご当家は滅亡、そうなれば姫君の運命もまた逃れられない事です。秋月は島津に誼を通じていて、紹運殿は大友氏の忠臣です。双方ともに話を進め難い縁談なれば、某が今姫君をお連れ押しかけたら、紹運殿は必ず対面される事でしょう。姫君は世に優れた御容貌ですから、よもや眼前で見殺しにはしないでしょう。とても逃げられない運命です、是非に決行して頂きたい。当家にそれ以外の道はありません。」
と言ったので、広門を始め皆賛同しました。広門は六左衛門を膝元に呼び寄せて
「『死地に入って生を取る』太公望の兵書にある秘密は、この外に手段はあるまい。よくぞ申してくれた。我が寵愛する娘なれど、国家の為、先祖の為にお前にあたえよう。良き様に取り計らってもらいたい。」
といって奥へ引きこもりました。
岩屋へ出発する当日、
供に大勢は無用と、六左衛門の他は、「織屋」という局ひとりと、「沖尾」という腰元ひとりが選ばれました。
広門夫妻が表へ出れば、姫君は父母の前で淑やかに着座しました。広門これを見て「我が子ながらこのように美しく育った娘を如何に国家の為とはいえ、敵とも味方とも判らぬ岩屋へ赴かせるこの親の冷酷さよ。さぞ無情と思うであろう」
とはらはらと涙を流すと、気丈な姫は畏まって、
「これは父上の仰せとは思えません。妾が男児であれば、戦場で先陣となり骸を山野に晒す事も武士の習わしでありますのに、女に生まれたばかりに深窓の内に養われ、十六の今日まで何のご用にも立てず残念に思っておりました。此度はからずも仰せを蒙り、国家の為に岩屋へ参る事は本懐であり大慶の事でこれに過ぎる事はありません。もし不幸にして紹運殿のご承知なければ、かねて頂いております守刀で潔く自害いたしましょう。人に掛かって恥をかくことは致しませんからどうかご安心なさってください」
と潔く言って、お暇を告げたので広門はただ泣くばかりで言葉をかける事もできなかった。姫は「時間が過ぎてはいけません。輿を…」と、織屋と沖尾に命じ岩屋へ出立しました。
岩屋に着いた六左衛門一行は、取次ぎを以って
「筑紫広門公の姫君を連れて、家臣筑紫六左衛門という者が参上致しました。お願いの筋がございます。何卒遭って下さいます様、恐れながらお願い奉ります。」
と申し入れました。伝え聞いた紹運は
「はてさて、広門の娘が来たとは合点が行かぬ事である。なれど、わざわざ姫君が来られたのであれば対面せぬ訳には行くまい。」
といって書院へ通す事としました。
年の頃十六、七の娘が、華やかに装い、恥ずかしそうに頬を染め、両手をついて、
「筑紫上野介の娘「加袮(かね)」と申す者でございます。紹運さまに於かれましては早速にご対面下さり、有難く存じます。今日は、不躾ながら妾のお願い事で参上いたしました。実は女の口から申し上げ難い事なれど・・・」 と言上しますが、その先は俯くだけで言葉が出てきません。加袮姫の頬から涙がはらはらと流れるのを見て、「御免仕ります」と、みかねた六左衛門が合間に入って事の仔細を述べました。
話を聞き終わった紹運は、「嫁にしてくれ」という前代未聞の押し掛け姫にあきれ、また当惑しました。言葉を失う紹運に、六左衛門は膝を進め
「紹運公のご当惑は御尤もです。なれど只今申し上げました通り、ご当家と秋月殿が合一されましたなら、我が筑紫家の滅亡は必死。その時討死します命をただ今捨て、姫君を刺殺し某も切腹しましょう。御承知なければ、恐れながら御縁の端を穢させて頂きます。」
と、今にも事に及ぼうとしました。紹運は、姪でもある気丈な姫と、忠義の士である六左衛門を死なせるのは不本意であると思案します。秋月氏との約を守るべきか、家を思う姫と忠義の士を救うべきか。そして時は過ぎ、六左衛門は今はこれまでと姫に目配せすると、姫もそれを察し身拵えにかかりました。
紹運、是非もなく、今はただこの者達の命を助けようと、「兎も角、こちらへ」と、自ら姫の手を取り奥の間へと導きました。そして紹運は
「話の筋は承知致しました。貴女の家を思う孝心と、主人を思う貴殿と御女中の義心に私も心を動かされました。
元々、貴家と当家は縁戚の間柄です。乱世の習いとして敵味方として戦ってきましたが、この上は貴家と御縁を結び、両家の平和を計らいましょう。」
と言ったので、一同感激のあまり泣き崩れたといいます。
この吉報はすぐに勝尾城へ知らせられ広門夫妻は嬉し涙にくれたといいます。
中でも広門夫人は、紹運夫人「宋雲尼」の実妹で斉藤氏の出であった為、喜びはひとしおであったそうです。また、家中領民にしても、元々隣国という事もあり、親戚・友人・知人が多く、両家の和は望まれていたものでした。
天正十四年(1586)二月(四月とも)の吉日を選び、
加袮姫は岩屋城へ輿入れしました。統増は15歳、加袮姫は17歳だったといいます。
この時、高橋・筑紫家の家老・中老の子を始め、証人として取り替わし両家の和睦を正式なものとし、筑紫氏の城となっていた宝満山城も両家の城という事になりました。
しかし皮肉にも、この婚姻の成立は、秋月氏に脅威を与える事となりました。秋月種実は、筑紫広門が抱いた脅威を同じく感じとり、薩摩の島津氏に筑紫攻めを要請するに至ります。
前述の大友宗麟の大坂上坂に端を発し、豊臣秀吉の九州への調停は島津氏に不利な提案であった事もあり、筑紫氏の離反を口実とした島津軍の北伐が開始される事となります。
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■12■ 薩摩国・島津氏の北上
天正十四年(1586)六月中旬、
島津氏は、島津忠長を総大将とする二万の軍勢を北上させ、筑・肥(筑前・筑後・肥前・肥後)の諸氏の参陣により軍勢は五万に達しました。
同年七月六日、島津軍はまず寝返った筑紫広門の諸城を席巻し、筑紫軍も勇戦したが、広門の嫡子・晴門(広門の弟とも)が討死にした事によって戦意を喪失し、島津軍に降伏しました。広門とその妻(宋雲尼の実妹)は幽囚の身となり、大善寺へ移送されます。
この時広門は『忍ぶれば いつか世に出ん 折りやある 奥まで照らせ 山のはの月』と落城の際、詠んだといわれます。これを聞いた人々は「昔は広門、今は狭門」と嘲笑したといいます。しかし嘲笑した者たちは、粘り強い広門の武将の矜持を後に知る事となります。
筑紫家を降した島津軍は、天正十四年七月十二日、高橋家の所領・御笠郡に侵入し岩屋城を包囲します。
紹運は島津軍の侵攻前に家中の者達を呼び集め
「自分はこの岩屋城で島津軍を迎え様と思う。島津の大軍を前にして多年住み慣れたこの城を放棄すれば『風声鶴唳を聞き、居城を遁れる』もので、武士のする事ではない。義の為に死せる事、武士の本懐である。宝満籠城の策もあるが、高橋・筑紫の寄り合いであり兵の和を保ちがたい。また、運強ければ死地にあっても生き、運弱ければ生地にあっても死す。宝満には統増に人数を添え老幼婦女子・病人を退避させよ。自分は最後までこの城に留まり、関白殿下の援軍を待つ所存である。援軍が間に合わなかった時は、それまでの運命であったと思わなければならない。また、次の者たちは籠城に加わる必要もない。一つに、籠城に賛成しかねる者。二つに、両親に男子一人の者。三つに、兄弟の内ひとりは家名を守るべし。この考えに不賛同の者は、遠慮無く城を去るがよい。」
と決意をあらわにし、家中の将士からの一人の離反者もなく衆議は決しました。
一方、立花家を継いだ統虎は、籠城の不利を語り、堅城の宝満または立花山城に退くことを提案しますが、紹運は使者の十時摂津に対し
「事ここに到り、一軍の将足る者が一所に篭もる事は良策にあらず。たとえ薩軍(薩摩島津軍)五万とはいえ、この紹運命の限り戦えば、十四・五日は支え、寄せ手を三千ほど討ち果たすは出来よう。島津勢鬼神とはいえ、ここで三千の兵を討ち果たせば、立花へ到る頃には手強き働きをすることは出来まい。また、立花城は名城であり軍勢も多く、たとえ攻められても二十日の間で落ちることはあるまい。かれこれ一月ほども防戦すれば、中国の援軍が渡海してこよう。さすれば統虎の運も開かれ、この紹運の死も無駄では無くなる。」
と言ったので、使者は返す言葉も無くうな垂れると、高橋家の老臣・屋山中務が進み出て
「殿は統虎殿のお諌めに従われて、速やかに立花城にお移りください。当城は今まで私が城代として預かって参りましたので、某一人が踏み止まって防戦し、力尽きた時は城を枕に討ち死に致します。」
と進言しました。紹運は、中務の話を聞き終わると、はらはらと涙を流し、
「今に始まらぬそなたの忠勇、この紹運心魂に徹しておる。なれど、そなた一人が死んだとて島津軍は引き上げまい。またそなたのような忠臣をどうして見殺しにすることが出来ようか。」
と言ったので、摂津は成すすべ無く、紹運のしたためた書状を持って立花城に帰城しました。紹運の決意を知った立花統虎は、立花の家督を継いだばかりで、まだ馴染みの薄い立花家の将士に懇願し、志願した吉田右京をはじめ二十余名あまりを岩屋城に派遣する事になります。
後に徳川の世になって立花宗茂と名乗っていた統虎は、この時の事を追懐して
「あの折り、自分は立花家に入って日が浅く、その家臣団は先代・道雪公の遺臣であった。死の分かった援軍に行ってくれとはなかなか言い出せなかったが、吉田右京が進み出て『国に報いるのに、義あるのみ』と言って志願してくれたので、他の者達も申しでてくれた。自分の人生の中で、この時ほど嬉しかった事は無い。だから、吉田達の忠節に対して自分は子々孫々に到るまで報いなければならない。」
と語ったといいます。また、その生涯の内、人との歓談の中で吉田右京の名が少しでも出ると、涙を流し悲しみに沈む事のが常だったといいます。
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■13■ 宝満城の動揺
先述の筑紫広門の降伏に伴い、高橋家と筑紫家の相城となっていた宝満城でひとつの騒動が起こりました。
宝満城は両家の相城という事もあり、あえて守将となりうる人物が置かない状態で、兵の多くは加袮姫に随従した筑紫氏の者が多かったといいます。
宝満城に在城していた高橋家中の吉野源内は、筑紫家中の動揺を危惧して、すぐ様、岩屋城へ急報し紹運に「筑紫家中の者を抑える為、宝満城へは統増様を登城させられて下さい。」と進言しました。紹運は吉野源内から宝満城の様子をつぶさに聞きながら、まずは筑紫家中の心底を見定める為、陣九郎兵衛という家臣を宝満城へ遣わして、統増登城に対する彼らの反応を探らせる事にしました。
筑紫家中の主だった者たちと協議の結果、
「統増公は、我らの主君広門公の娘婿であり、主君のご子息となられた方に何で二心いだきましょうか。御登城されれば統増公を主君として仰いで城を守ります」
と忠誠を誓い、九郎兵衛は岩屋城へ立ち返って、事の次第を告げました。
しかし、筑紫家は乱世の習いとはいえ、表裏定まりが無い家柄であった為、若年の統増を宝満城へ送るには危惧がありました。紹運は家中の者を集め協議しますが、事が重大なだけに、なかなか意見が定まりません。
この時、伊藤外記という者が進み出ていうには
「『百貫に買いたる鷹(たか)も鷺(さぎ)合わせ見よ』という諺(ことわざ)もあります。この際、思い切って子鷹(統増の意)を放って(手放して)みては如何でしょうか」と説いた。この至言にようやく紹運も決心をつけたといいます。
7月12日夜半、統増と加袮姫夫妻に、陣九郎兵衛、北原伝之丞、中島采女ほか、屈強の兵二十余名を添えて宝満城へ登城させました。ところが、早くも島津軍の先遣隊が宝満城へ使者を遣わして「筑紫広門は既に降伏し、その諸城もことごとく開城した。この上は当城も早々に城を明け渡されよ。さすれば城兵の命はお助け申そう。さもなくば、直ちに攻め破るが如何に」と勧告してきました。
これを聞いた筑紫家中は、たちまち心変わりする者が出てきて、この際、統増を討ち取り島津軍に内応せんとする気配が現れました。島津軍との決戦の前に、紹運の危惧が現実となりつつある中、急を要する鎮圧の任に、紹運は伊藤源右衛門という家臣を呼び出しました。
この伊藤源右衛門という人物は、その昔、高橋家中で起った謀反の芽を事前に積んだ忠孝の家臣でしたが、紹運の筑後遠征の時、宝満城の守備を命じられていましたが、筑紫氏の強襲にあい宝満城を奪われる失態を侵した人物でした。事に責任を感じた源右衛門は自害しようとするも紹運に止められ、一時は出奔も考えましたが一族の伊藤外記に諌められ、今は日々を嘆く事で過ごしていました。
源右衛門の苦悩を知る紹運は、この大事を任せられるのは彼を置いて外に無いと思い定め、伊藤源右衛門に命を下しました。雪辱の機会を得た源右衛門は、伊藤外記、高橋山城、三原右馬助、有馬伊賀、今村五郎兵衛、山中美濃ら屈強の士十余名と与力の兵を連れて宝満城へ登城しました。
源右衛門等が宝満城の神楽堂まで来ると、城門は硬く閉ざされ中に入る事ができません。一行が進退窮まった所、源右衛門が思い切って、筑紫家中で旧知の帆足善右衛門に城門の外から呼び出し、「統増殿をお迎えに来ましたので、早くこの門を開けて下さい」と言うと、帆足は門の櫓上より「自分の一存では計らいかねるので、評議した上で開門致します」と答えます。源右衛門は帆足では埒があかぬと見てとり「さては質人(人質)を捨てられるおつもりか」と鋭く問い詰めます。この時、帆足善右衛門の一子は高橋方へ人質として置いていたので、冷や汗をかきながら櫓の下へ降りてきて門を少し開けると「この場で少しお待ち下さい。今すぐ相談して参ります。決して悪いようには致しません」と言って奥へと走り出しました。この時、家中でも強力で知られる有馬伊賀が、すかさず門を押し開けると、一同どっと中へ飛び込み、そのまま神楽堂へと押し入ると、筑紫家中の評議の最中でした。
源右衛門は「統増公をお迎えに来ましたので、御一同には何の心配もありません」と安心させながするすると中に入ると、主将格の筑紫良甫(ちくしよしすけ)に飛び掛り、取り押さえ、首に刀を押し当てて問うた「貴公等は、紹運公に、統増公を登城を願い、主君として迎えておきながら、薩軍(島津軍)の脅しにたちまち屈して変心し、統増公を討って敵に降り、卑怯にも身の安全を計ろうとは、何と大逆無道の者たちであろうか」と憤怒の形相で睨みつけました。高橋家中の有馬、今村、高橋等もまた、先手を取った事もあり、それぞれ相手を取り押さえ、返答次第で首を薙ぐ気構えをみせました。
余りの出来事に筑紫家臣が戦意を喪失する中、旗崎新右衛門、田山平六之介という者が進み出て、
「我々は決して心変わりは致しません。薩軍に降るなどとは全くの誤解です。我々はあくまで統増殿を奉じて敵と戦う用意をしています。今後は何事もよく相談して参る事と致しましょう。我等に異心ない証拠として、ただいま質人を差し出しその証と致します。」
と誠意を持って説いたので、事は無事治まり、伊東源右衛門等は質人たちを宝満城の上宮という所へ留め置き、統増殿を守護して宝満城へ留まる事となります。こうして一時的ながら筑紫家中の反乱は未然に鎮圧するに至りました。
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■14■ 嗚呼壮烈岩屋城 紹運の死
五万の島津軍に対し、岩屋城には立花家からの援軍と紹運を始めとする岩屋将兵の僅か763名が篭城。
薩軍(島津軍)は岩屋城の南方にある般若寺に本陣を置き、城下の観世音寺に前線の指揮の為の陣を置きました。総大将の島津忠長はまず降伏を勧める為、二日市の僧侶・荘厳寺の快心を使者として赴かせますが、紹運はこれを一蹴し追い返しました。
また翌十三日には、豊臣家の軍監・黒田孝高(如水)の意を受けた小林新兵衛が密かに岩屋城に入城し、立花城への退陣を進言しますが、紹運は使者に対し
「(中略)事ここに到っては立花へ引くことはかないません。私はこの城を枕に討死する覚悟です。どうか関白殿下がご出馬されたら、この事をお伝え下さい。私は地下で今日のご好意に報いましょう。また黒田殿の使者である貴殿に対し饗応するべきですが、ご承知の通りの敵軍に囲まれておりますのでそれも出来ません。何卒事情を推察下さい。」
と懇切丁寧に答えました。新兵衛は紹運の志に感じ入り、供に籠城の兵に加わろうと志願しますが、紹運はこれを諭し、人を付けて間道づたいに落としました。
天正14年(1586)七月十四日、
日本の戦国史の中で最も苛烈な激戦といわれる『筑前岩屋城の戦い』は、こうした中始まりました。
五万の敵兵を相手に、城兵は紹運の采配の許で一歩も引かず奮戦、昼夜をとわず激戦を展開します。
この激戦の様子を『筑前続風土記』は
『終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地も響くばかりなり。(中略)城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし』
また『北肥戦記』には
『合戦数度に及びしかども、当城は究竟(くっきょう)の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり』
と記されています。
薩軍は猛攻を重ねたが損害が増すばかりで、十日あまりの間に砦の一つも落とす事が出来ませんでした。大将・忠長はあまりの損害の多さに作戦を変え、一旦兵を退かせて、城下の農民を捕らえて口を割らせ、兵を派遣して水の手を押さえました。それでも城兵の士気は旺盛で、怪我を負った者まで敵に立ち向かう程であったといいます。しかし数に優る薩軍は、新手を入れ替えて攻めさせたので、城兵の疲れの見えはじめた二十六日になって、遂に外郭が破られました。城兵は二の丸・三の丸に退き、追撃してくる薩軍に大木・大石を落とし鉄砲・弩弓を射かけたので、手足を折られ圧死する者が数百にも及んだそうです。これに辟易した薩軍は、暫らく近寄る者もありませんでした。
甚大な損害を蒙った薩軍は、新納蔵人を軍使として遣わし、有利な条件を提示した和睦を説かせました。
紹運はわざと本名を名乗らず麻生外記と名乗り使者と対面し、
「(中略)主人の盛んなる時、忠を励み功名を顕わす者ありといえども、主人衰えたる時にも変わらず一命を捨てる者は稀にて候。貴殿も島津家滅亡の時、主を捨て命を惜しまれるか。(中略)武士足る者、仁義を守らざるは鳥獣に異ならず候。」
と言って撥ね付け、その見事な対応に、城を取り囲む薩軍の中からも喝采が挙がったといいます。蔵人は返す言葉も見つからず引き下がるより他ありませんでした。忠長はそれでも諦めず、再び快心和尚を岩屋城に赴かせますが、紹運はこれも撥ね付けた為、忠長は翌二十七日、総攻撃を決断する事になります。
七月二十七日早朝、薩軍の最後の総攻撃が始まりました。
紹運主従の必死の防戦も空しく、屍を乗り越えて次々と押し寄せる薩軍の猛攻の前に、将兵は討ち果たされ、残った兵達は、紹運に最後の決別をし、満身創痍の体で薩兵に切り込んでいきました。本丸で指揮をとっていた紹運は、負傷者には自ら薬を与え励まし、死者には経を唱え弔っていましたが、薩兵が本丸まで侵入するに至り、自ら大長刀を持って旗本を従え薩軍に突入し、十七人まで斬り倒したといいます。この時の紹運の様子を『西藩野史』は「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」 と記しています。
紹運等の奮戦に寄せ手は怯んで後退するも、紹運も身に数ヶ所の疵を負い、僅か五十余人となった生き残りも、その多くは深手を負っていました。我が身の最後の時を悟った紹運は、敵の手にかからぬ内にと高櫓引き揚げます。最後まで付き従った旗本の吉野左京介が「館に火を放ちますか」 と問いかけると、紹運は
「その儀は無用である。首を取らせる事で、義を守って死した事がわかる。死体が見えなければ、逃げ落ちた思われるであろう。武士は屍を晒さぬものと言うが、それは死に場所による。敢えて首を取らせよ」
と言ったといいます。そして潔く腹を切って果てました。
享年39歳。法名は『天叟院殿性海紹運大居士』。
紹運の最後を見届けた将兵は、同じく腹を切り、または刺し違えて悉く後を追って殉死。紹運を介錯をした吉野左京亮は、その刀で自刃しました。紹運の首を取る為に本丸に踏み込んだ薩軍将兵は、この凄惨な総自決をまのあたりにして声を挙げる事も出来ず、ただ足をすくませたそうです。
紹運の辞世は、自決する前に扉にしたためたといわれる、
『屍(かばね)をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき』
『流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水』
の二首が伝えられています。
紹運主従の首は、島津本陣に運ばれ首実検に饗されました。
大将・島津忠長は敵ながら見事と称賛を惜しまず、最高の軍礼をもって執り行ったそうです。
またその際、忠長は、紹運の首の前に膝をつき、恭しく拝礼し
「類い稀なる勇将を殺してしまったものよ。この人を生かし生涯の友と出来たなら、いかばかり心涼しいものであったろう。弓矢を取る身ほど、恨めしいものは無い」
といって、紹運の死を惜しんだともいわれます。
紹運の死を確認した薩軍陣内では、激戦を生き残った事に、ただ悦びあったといいます。
この戦いで島津軍は、大将株二十七騎、死者三千人、負傷者千五百人という、死者が負傷者の2倍にも及ぶという予期しなかった大損害を蒙りました。岩屋城兵は一人も逃亡する者も無く、戦国史に於いても稀有な全員玉砕を果たしましたが『筑前国続風土記』にその理由として「紹運 平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人も節義うしなはさるなるへし」 と記されています。
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■15■ 捕らわれる宋雲尼母娘
岩屋城落城の翌日七月二十八日、島津軍は早くも宝満山城の攻略へ取り掛かりました。
宝満山城には紹運の二男統増を城主として、僅かな高橋・筑紫両家の兵と幼老婦女子等が共に篭もっていましが、岩屋落城の事もあり戦意は乏く、また寄り合いの共闘兵である城中は、結束力に欠けました。筑紫氏の家人は主君が島津氏の虜となっていた事もあり動揺し、高橋家中では統増を殺害して島津氏へ投稿するのではないかと、疑心暗鬼に陥っていました。
そこへ島津氏の使者がやってきて
「岩屋すでに落城し、大将紹運殿もまた自害なされた。この上は速やかに当城を明渡して降伏いたされよ。さすれば和議を行い、城主統増殿、ならびに城兵一同の一命はお助けいたそう。それがいやなら一気に攻め落とすまでです。」
と開城をせまり、更に島津軍は岩屋で捕らえた婦女子を矢面に立たせ、万余の軍勢で宝満山城に迫りました。
統増は高橋・筑紫の臣で協議を行い、高橋家の北原進士兵衛は
「紹運公を始め、岩屋で義死を遂げた者達に対し、なんで自分だけおめおめ生きて行くことができようか、どうかここで死なせて頂きたい。」
と言えば、伊藤源右衛門は
「昔、頼朝公は蛭ヶ島の流鼠から起こって、遂に平家を滅亡させられた。此度、統増公には絶え難きを偲んで頂き、天運を待って頂くのがよいでしょう。なにより統増公の前途を見届けることこそ、我等残された者の勤めではないか。」
と言ったので、開城する事に決しました。
源右衛門は使者に対して
「統増公を立花城へ帰城させて頂けるのであれば和議致し開城しましょう。もしそれが出来ないのであれば、城を枕に討ち死にするまでです。」
と返答し、島津側もこれを誓紙を持って保証しました。
八月六日、統増以下家中の者は宝満山城を下城しました。しかし島津方は統増一行を取り囲み、立花城へは送らず、天拝山の麓にある武蔵村、帆足弾正の屋敷に軟禁したのです。「約束が違う」と島津将に詰問する源右衛門に「島津の慣習として、弓矢の前では、空誓紙もあり得る。」 とうそぶき、騙された郎党は口惜しさで泣きました。
この後、囚われの身となった宋雲尼と紹運の娘達は、肥後国南関に連行され、統増と加袮姫の夫婦は同じく肥後国へ送られ、更に薩摩国へ移送される事になります。
□この時期の宋雲尼の所在について補足
さて、実は岩屋城の戦いの際、宋雲尼は何処にいたのかは、諸説あります。
岩屋城へ共に篭っていたとの説では、生前の紹運は落城の際に、妻子を介錯を家臣の高橋越前、または江渕、黒岩、三浦の三氏に、介錯を命じていたともいわれます。これらの士は、乱戦の中、夫人の居室まで達せず討ち死にしたといいます。この為、宋雲尼と四人の姫は島津氏に捕らわれてしまいます。
もう一つは、『岩屋城の戦い』の前に宝満山城へ移城とする説です。こちらでは、島津軍が押し寄せる前、紹運は老幼婦女子をはじめ、妻子を宝満山城へ避難させたとされています。
死を覚悟している紹運は、宋雲尼も先に宝満山城に篭城している二男統増と加袮姫の許へ送り出そうとしましたが、宋雲尼は、紹運と最後を共にしたい、と願ったといいます。紹運はそれを許さず「若い統増・加袮姫夫婦を助け、まだ幼い娘たちの為、生きよ」と励まし、また「我亡き後は統虎(立花宗茂)に相談せよ」と言い残し、宋雲尼を送り出しました。彼女は夫の胸中を思い、ただ慟哭したといいます。
また岩屋落城の際、焼け落ちる岩屋城と、心を通わせた夫と家中の士の最後を見。宝満山城からただ涙を流し合唱するしか無かった宋雲尼の心情はいかばかりだったでしょう。島津軍に囚われの身となった宋雲尼ですが、至誠生きた高橋紹運の妻として、毅然として取り乱した姿は決して見せなかったといわれます。
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■16■ 立花山の若武者
岩屋城と宝満山城は島津氏の手に落ち、宋雲尼とその子達も囚われの身となりました。
島津軍は筑前国で最後の城となる、立花統虎の立花山城へと軍勢を進めます。薩軍は軍使を遣わして「岩屋は落城し、宝満もまた開城し、紹運夫人と統増夫婦は我が軍が捕らえている。統虎殿に遺恨はない。速やかに開城するなら城兵は助け、和議を結んでこの地は去ります。あくまで交戦するのであれば攻め破るまでです」と開城を勧告し、また捕らわれの身の宋雲尼母娘と統増夫婦等を楯にして降伏を迫りました。
しかし、統虎は流石は紹運の子、道雪の見込んだ娘婿でした。家中を束ね一致団結して死守する事を誓い、使者に対しては「我が父紹運は秀吉公の味方をし、岩屋において義死を遂げました、我もまた父の孝養の為、死んでいった岩屋の城兵の弔いの為、更に辱めを受けた母や弟達の為、快く一戦して討ち死にする覚悟であるので、早く軍勢を当城へ差し向けられよ」と返答しました。
島津軍は、岩屋城での多大な損害が影響して、一挙に攻め込む余裕はなく、また決死の覚悟がみえる城兵に力攻めに逡巡し、寄せ集めの旅軍だった事と厭戦気味であった為、再三に渡り和議を含めた説得に終始しました。
八月半ばを過ぎ、中国地方の豊臣方の来援も考えられる中、薩軍は八月十八日に総攻撃を決めました。薩軍の動きを察知した統虎は老臣と謀り、偽降の使者を送って更なる時間を稼ぐ事となります。二十三日になって偽降の使者であった老臣内田玄叙は島津の緒将の前に出て、既に中国の毛利氏が関門海峡を渡り援軍到来の由と、自らは偽降の使者であった事を告げ「主君に忠節を尽くしたまでで、最早思い残す事もありません」と言って、従容と死を受け入れました。
謀られた島津緒将は色めき立ち、罵声を浴びせ内田玄叙に詰め寄ります。あわや手にかけようとした時、大将島津忠長は制止しました。「殺してはならぬ、謀られたこちらの負けである。一命を捨てて我陣に入り、城を救わんとするその覚悟は見事である。その忠節に免じて生かして返してやれ。」と言って、乗馬と護衛の兵までつけて立花城へ送らせたそうです。
この後、島津軍は博多の町を焼き払い撤退をしました。
統虎は城下から立ち去る薩軍を見て、兵を集めて追撃の準備をさせました。由布雪下・小野和泉等の重臣は、小勢での追撃に難色を示しましたが、統虎は
「その方共の言い分、真に最もである。しかし我が父の仇島津忠長が眼下を去ってゆく。これを黙視せんか、その心は死すとも消えぬ。父の仇を報ぜず、母と弟達の俘囚の恥辱も雪がず、どこに生を甘んじる意味があろう。お前達に無理強いはしない。我は島津のあとを追い、心ゆくまで戦おう。もし斬死せんか、その時は泉下の父上に良き挨拶となろう」
とはらはらと涙を流したといいます。重臣たちも「仰せ尤もである」といって出陣し、薩軍に少なからぬ損害を与えたとあります。更に統虎は、薩軍の前線である高鳥居城を落とし、返す刀で奪われた岩屋・宝満山両城を瞬く間に奪還し、亡父紹運の弔い合戦で多大な戦果をあげました。この統虎の働きを伝え聞いた豊臣秀吉は、有力家臣への書状の中でその働きを『誠に九州の一物(逸物)に候』と賞賛しました。
岩屋城で散った紹運、39年の生、全てを懸けた戦略がこの頃から実を結び始める事となります。
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■17■ 秀吉の九州陣と宋雲尼母子の救出
島津軍が筑前国から撤退した八月下旬、
筑後国三潴郡大善寺に軟禁されていた筑紫広門(宋雲尼の妹婿)は、薩軍の動揺の隙をついて密かに旧臣を集め脱出し、千余の軍勢をもって居城を奪還し、関白秀吉の軍勢の先兵に加わりました。
この時、宋雲尼母娘は肥後国(熊本県)南関に監禁されてましたが、立花統虎は肥前国(佐賀県)の龍造寺政家に接触し母と妹達の救出を依頼。九月上旬、島津との手切れを宣告して関白軍に鞍替えした政家は、秀吉への心証を良くする為、統虎の依頼を快諾して、家臣の堀江覚仙と大木兵部少輔に兵を与えて、南関に監禁されている宋雲尼母娘を救出して立花山城へ送り届けました。しかし統増夫婦は、広門の逃亡と宋雲尼母娘を奪還された為、警戒をして肥後国から薩摩国本国へと移送される事となります。
翌年、天正十五年(1587)三月になって、秀吉の九州親征となり二十五万の兵で九州を席巻し、筑前国の秋月氏を降します。立花統虎は兵を率いて秋月城下に陣を敷いた秀吉の許へ駆けつけると、秀吉は大いに歓び、自ら手を引いて在陣緒将の前に連れ立ち
「この若者は筑前立花城の若き主・立花左近将監統虎である。去年の春以来、九州の緒将に諭言を与えたが、下知に従う者は稀であった。しかるに大友を始め、立花・高橋は最初より味方せし事、天晴れな事と悦んでいた。その上、夏秋の間、島津が九国のうちに働き、味方の城々手脆く攻め果たされ、或いは降参せし所、左近将監城を堅固に守り、且つ高橋紹運、岩屋の城にて義死を遂げる。薩州勢帰陣の折追討し、あまつさえ高鳥居の城を攻め破り、星野兄弟を討ち取る事、比類なき働き武勇忠義の士、九州第一の者なり。余がつつがなく関門を渡り、この地へ進む事が出来たのは、ひとえに紹運・統虎父子の働きあっての事である」
そう秀吉は激賞しました。統虎はこの晴れがましい舞台の中、岩屋城で散った父と城兵の命を思い、ひとり流れ落ちる涙をとどめ得なかったといいます。
この謁見の際、秀吉は島津氏の虜となっている統虎の家族の事を尋ね、統増夫婦がまだ捕らわれている事を知ると不憫に思い、家中の才覚の者に交渉をさせよ。と言い、薦野増時を薩摩に送り、島津家中の伊集院左衛門太夫に預けられていた統増夫婦を折衝の末、身柄の引き取りに成功して、十時摂津を迎えに出して無事立花山城へ連れ戻しました。
その後、秀吉の島津攻めは、圧倒的な兵力と物量で島津氏を圧迫し、天正15年(1587)五月に降伏するに至りました。奇しくも島津氏の降伏した同月23日、高橋紹運の主君・大友宗麟が、豊後国津久見館にて、ひっそりと死去しました。享年58歳。キリシタン大名として知られ、宣教師からは「豊後王」として日本有数の領主として慕われた英傑の死は、寂しくも、最後の矜持をみせた最後だったのかもしれません。この僅か後に、秀吉による伴天連追放令が発令された事を思えば、尚更そう思わずにはおれません。
九州平定を見届けた豊臣秀吉は6月6日、大宰府に立ち寄り、菅公の廟所・安楽寺天満宮(太宰府天満宮)に参詣し、観世音寺や都府楼(大宰府政庁跡)などを巡った後、わざわざ岩屋城へも足を運んだといわれます。この日、観世音寺近くに仮殿で、高橋、立花と、島津をはじめとした岩屋攻城に参加した緒将を招き、秀吉は攻城の話をつぶさに聞き、高橋紹運とその郎党の奮戦を称え、その死を偲んだといいます。
そして紹運と家中を『乱世の華』(「戦国の花」とも)と云わしめたそうです。
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■18■ 九州戦国時代の終焉と九州国割り
豊臣秀吉の九州介入により、西国の戦乱は一応の収束を迎えました。
その後、秀吉の国割りにより、高橋家と立花家は、筑前国(福岡県北部)から筑後国(福岡県南部)に国替えとなります。
●立花統虎は、筑後国柳川 十三万二千余石(筑後国四郡)
●高橋統増は、筑後国三池郡 一万八千石
●筑紫広門も、筑後国上妻郡 一万八千石
立花統虎は、前述の通り抜群の戦功を持って、九州緒将の中で厚遇を受けました。高橋統増は、島津氏の虜となり自らの功はありませんでしたが、父紹運の岩屋城義戦の功績が評価されたものとされます。
また立花家と高橋家は、この戦役を期に、大友家臣の枠を離れて豊臣家の直臣となり、それぞれ小なりとも大名の列に加えられる事となりました。
これは、九州征伐を要請した大友宗麟が、立花・高橋家の長年の功に報い為、秀吉に要請したとも、秀吉の方から、名将の誉れ高い高橋紹運と、立花道雪の跡を継いだ統虎を引き抜いたともいわれます。
ただこの処遇の背景には、大友宗麟の政治的な駆け引きであったかとも思われます。1つが筑前国の自治権の問題で、もう1つは高橋親子の所領問題です。博多を含む筑前が大友氏に残る見込みが皆無であり、豊後国で高橋親子に報いる所領を確保ができない以上、直接秀吉の直参としておく方が大友氏にとっては都合が良かったのではないかと考えます。
因みに、親戚筋にある筑紫広門も、一旦は島津氏に降りましたが、島津氏の撤退の混乱で所領を回復して巧く立ち回り、辛うじて諸侯の列に加わる事が出来ました。広門が島津氏の虜となった際「昔は広門、今は狭門」と嘲笑した緒将は、ある者は所領を失い、あるいは減俸の憂き目にあった事を思えば、皮肉としか言い様がなかったでしょう。
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■19■ 豊臣の天下と、終わらぬ戦渦
宋雲尼は、夫紹運と家中の主だった者達も供に失うという悲劇を乗り越え、若き日、夫紹運に従い豊後国から筑前国へ移って来た時と同様に、今度は大名となった息子達に従い筑後国へと移る事になりました。
三池の大名となった息子の高橋統増(後の立花直次)は、江之浦城を居城とし、後に内山城に移りました。また、岩屋城の戦没者を弔う為、同地に紹運寺(福岡県大牟田市)を建立し霊を慰めました。同じく、柳川の大名となった立花統虎(後の立花宗茂)もまた、立花家の菩提寺として福厳寺、そして父紹運と岩屋城の戦没者慰霊の為に天叟寺を建立しています。
その後、豊臣秀吉による天下統一により、泰平の世が訪れると思われましたが、戦乱の機運はまだ燻(くす)ぶり続けました。秀吉の暴挙とも言われる、朝鮮出兵の始まりです。
宋雲尼は不安に思いながらも、二人の息子達を外征に送り出す事になります。その一方で、豊臣家への忠誠の為、各大名家は質人として、妻女や一族の者を差し出しました。記録上では定かではありませんが、宋雲尼や、立花統虎の妻ァ千代姫などは、度々大坂城などへ質として留め置かれていたと言われます。
朝鮮の地で、統虎と統増兄弟は互い助け合い、殊に文禄年間の出征では、最大の激戦と謂われる『碧蹄館の戦い』に於いて先鋒を受け持ち、10万とも号される明・朝鮮軍を撃退し勇名を馳せました。慶長年間の出征でも数々の活躍をし、同外征で名を馳せて加藤清正をして立花統虎は『日本軍第一の勇将』とさえ称えられました。
しかし目的のはっきりしない外征は国を疲弊させ、兵も国民も厭戦気分となり、緒将の軋轢を生みました。秀吉の死去によって終結を迎えた朝鮮出兵は7年にも及び、統虎と統増の兄弟は、かつての仇敵であった島津氏と共に、日本軍の殿(しんがり)として、朝鮮水軍と激戦を交えながらも辛くも降し、最後の日本軍として帰国しました。
因みに、前期の文禄年間の出征に於いて、旧主である大友家は、敵の大軍を前に「敵前逃亡した」との疑いをかけられ、秀吉に改易されてしまいました。(但し、当時、大友義統は所用で陣を居なかったといわれ、大友軍は家臣の判断で陣を下げたともいわれます。また、渡海軍の崩壊の元々の原因を作った小西行長の讒言だったともいわれる)
(注)以下の文章から煩雑を避ける為「立花統虎」の名は「立花宗茂」に統一させて頂きます。
(注)但し、正確には「宗茂」と名乗ったのは晩年です。
(注)立花宗茂が一般的ですが、宗茂は名を改名しています。以下は改名例です。
(注)千熊丸・弥七郎・統虎・宗虎・正成・鎮虎・信正・親成・尚政・俊政・経正・宗茂・政高
(注)晩年の剃髪後に立斎の号も使っています。
(注)何故たびたび改名をしたのかは不明ですが、『立花 左近将監』と言う様に
(注)普段は官名を使う為、問題は少なかったのかもしれません。
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■20■ 関ヶ原の戦い
秀吉の没後、慶長5年(1600)『関ヶ原の戦い』が起ります。
西軍と東軍とに分かれたこの戦いは、名目上、どちらも豊臣家の意向を奉じていました。しかし徳川家康による政権簒奪の疑いが濃いものでしたので、東軍は親徳川派、西軍は親豊臣派の抗争だったといえます。
立花宗茂は、家康からの誘いや、友誼のある加藤清正の忠告を退け、豊臣秀吉から恩を受けた経緯もあり、迷う事なく西軍につきました。実弟の高橋統増も宗茂に従いますが、共に行動をせんとする所を留められ、不穏の動きがある九州での守備をまかせました。
この関ヶ原役に於いて宗茂は、大津城の攻城戦に参加し、苛烈な銃撃を加え緒軍を驚かせたと云われます。そして9月15日、大津城は陥落しますが、奇しくもその日は、関ヶ原で両軍主力の決戦が行われた日でした。主力敗戦の報を伝え聞いた宗茂は、大坂城へ引き返し、西軍総大将の毛利輝元や豊臣親族等に、大坂城籠城を主張したといいます。しかし敗戦に怯えた毛利一族と豊臣家の親族は、家康による後難を恐れるばかりで埒があかず、宗茂は九州に帰国する事になります。
この関ヶ原役の際、宋雲尼は、大坂城へ人質として在城していました。この時、城内には多くの西軍諸氏の妻子が集められていましたが、宋雲尼は痘瘡の跡が残る顔を憚るようにしていたと云われます。
先述の通り、九州へ帰国する事を決めた宗茂は、混乱する大坂城から母宋雲尼を取り返して、一所にいた仇敵・島津義弘夫人をも連れ出し帰国の途につきました。後に九州までの道程で、関ヶ原本戦を的中突破の離れ技で脱脂た島津義弘と合流し、共に九州へと帰国したといいます。
この時の話で、一挿話があります。
海路で瀬戸内海を進んでいる時、ある家臣が宗茂の許へ近づき、こう囁きました。
「島津家中は殊の外、手薄と見受けられます。島津殿は父君紹運公の仇、討ち果たす好機ではないでしょうか」
宗茂は諭すように
「父紹運が岩屋に於いて義死を遂げた事は、故太閤殿下の取り成しで水に流した事。我等は朝鮮以来、此度の戦にても共に戦った間柄である。小勢をみて私怨を晴らし、まして友軍を討つなど薄汚い事ぞ。その様な事で討ったとて父上は喜ぶまい。」
と言って退けたといいます。更に警戒する島津陣に自ら赴き、共に九州へ帰らん事を告げて島津家中を安心させたといいます。
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■21■ 筑後国八之院の戦い
九州へ帰国した宗茂でしたが、関ケ原の西軍主力敗戦によって、東軍に寝返った肥前国の鍋島直茂(龍造寺家)が、三万五千の大軍を引き連れ柳河に侵攻してきました。
重臣・小野和泉をはじめ主だった者達は、今は家康に謝罪の使者を出している為に宗茂自身の出馬を留意させ、和泉を総大将とした家臣団のみで合戦に臨みました。『八之院の戦い』と呼ばれるこの合戦は、当初の作戦を無視した和泉の与力・松隈小源が勝手に戦闘を始めた為、立花軍は混乱し和泉も銃弾を受けるなど苦戦に陥ります。しかし、十倍の鍋島軍十二段の陣を九段まで切り崩し、なんとか退却に追い込んみました。
この戦いの最中の事で、宋雲尼の話が少し残っています。
乱戦の最中、柳河城内にいた宗茂は、味方が苦戦している事を聞き、じっとしておれず城外へ出て戦況を窺っていました。そんな中、宗茂は、傷を負って退却中の小野七郎と出会い、宗茂に気づいた七郎は馬から下りようとしました所、宗茂は
「よいよい、手負いに礼などいらぬ。そのまま乗り通せ。そなたは大津城で負った傷も治らぬ内に、また傷を負ったのか。手負いの者に言いつけるのは気の毒ではあるが、これから宋雲院の許へ行き、味方は勝槍ですから、少しも御心配なさらぬように、と申し上げよ」と命じました。
七郎は、急ぎ三池郡の内山城へ駆けて行って、その通りに宋雲尼に言上すると、宋雲尼は七郎の労をねぎらい、長儀三(ちょうぎぞう)という者を復命として柳河城へ遣わしました。
「今日の戦は御勝利だそうで、大変喜ばしく思います。しかし、勝敗にこだわる必要はありません。立花の御苗字に塵をつけないよう、それを第一義に心掛けなさい」
と伝えたので、宗茂は苦笑しながらも「いつながら、流石に気丈な母である」と感心したといいます。
慶長5年(1600)末、
東軍に降伏した宗茂ですが、柳河城を開城した際、こんな話があります。
宗茂が城を加藤清正に明け渡す為、柳河城から城外に出ようとした時です、領内の庄屋や百姓たちが行く手をふさぎ
「如何なる事がありましょうとも、下城は思いなおして下さい。筑後四郡の百姓共は、殿様に一命を捧げる覚悟です。どうか御留まり下さい」
と声を揃えて哀願しました。皆の言葉に胸を打たれた宗茂は、馬から降りて
「皆の言葉は有難い。しかし、此度の下城は領内の領民の為でもある。皆これからも従来通り、生業に励めよ」
と言ったので、尚の事、百姓共は声をはらして泣き出してしまった。更に
「皆の言うとおりにしていては、わしも皆の為にもよくない。さぁ皆帰ってくれ」
と諭すように言うと、皆は泣き泣き道を開いたという。
また、加藤清正と会談した際も、加藤家中の者は
「流石は大明・高麗まで名を轟かせた立花殿である。どんな豪気な人物であれ、城を明け渡す時は気後れするものであるが、平常よりも見事な態度である」
と皆感嘆したといいます。
その後、徳川家から改易を受けるも助命された立花宗茂と高橋統増は、肥後一国を得た加藤清正の庇護を受ける事になります。宗茂は高瀬(熊本県玉名市)の千間寺に仮寓し、妻のァ千代姫は同地の腹赤村(はらか)に住みました。高橋統増と宋雲尼母子は、肥後国八代(熊本県八代市)に寓居する事になります。また家中の主だった者は加藤清正の計らいで扶持を得る事となりました。
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■22■ 奇跡の再封
慶長6年(1601)秋、
立花宗茂は、加藤清正の許しを得て、徳川家康へ談判する為、恩顧の家中二十名ほどを連れて京都へと出立しました。宗茂は、京都では徳川家と接触する機会を得られず、更に江戸へと下向する事となります。
九州から京、そして江戸の旅路は、大人数の事もあり大変困窮したといいます。家中の者は、宗茂に内緒で虚無僧や人夫などをして生活を支えました。そんな逆境の中でも宗茂は恬淡として落ち着き、世俗の生業には無頓着であったといいます。しかし普段と変わる事の無い宗茂の様は、仕える者達に勇気を与え『流石は大名の器』と言って、日頃の苦労も忘れ喜んだといいます。
また、この頃の話として、多くの大名が武名の高い宗茂を家臣に迎えようとしたといいます。
京都に居た頃、加賀国の大名・前田利長の使いが訪ねてきました。前田家は豊臣政権下で五大老の地位にありましたが、秀吉の死後、家康の勢威が増すと、母親を差し出して徳川へ屈し、関ヶ原でも東軍となった家柄です。
宗茂は、前田家の使いを座敷には通さず、庭先に案内させ、自らは書読をして家臣に対応させました。使者は「立花殿が加賀前田家に仕官されるならば、十万石で召抱えましょう」と言上すると、宗茂は書に目を通すばかりで返事をしませんでしたが、ただ「憎い奴めは、日頃は腰が抜けておきながら、色々な事を申してくるものだ」と、ひとり事の様に呟いたといいます。その場にいた家臣は困惑し、意味を察した前田の使者も怒るより恥入るばかりだったそうです。
慶長8年(1603)冬、
宗茂一行は江戸に着くと、江戸高田の宝祥寺に寓居しました。
そして翌慶長9年(1604)、
徳川家の臣・本多忠勝(もしくは本多佐渡守正信とも)の仲立ちを得て、征夷大将軍となった徳川家康と対面する機会をえました。江戸城に登城した宗茂に対し、家康は
「貴公は、先年、関ヶ原の戦いのでは石田方に味方したけれども、心から出たものではなく、大津攻めへの参加も、その場合として止むを得なかったであろう。その後、貴公は鍋島から攻められ、多くの部下を失い、開城して恭順の意を示して殊勝であった。この後は、堪忍分として五千石を与えるゆえ、御書院番頭(ごしょいんばんがしら)として仕えよ」
との沙汰を得て、宗茂はこれを受けて復権する事になります。
またそれに伴い、弟の高橋統増も許され、常陸国・柿岡(茨城県石岡市柿岡)の地に五千石に封じられました。(後に常陸国・筑波郡に五千石)
慶長11年(1606)、立花宗茂は、奥州は磐城国棚倉の地に一万石を賜り、小なりといえ大名に復帰し、慶長15年(1610)には同地赤館に二万石を加増され三万石の大名となりました。宗茂と統増の兄弟は、大友家、豊臣家の時と同様に徳川家に誠忠を持って尽くした為、次第に将軍家に信任される様になります。
慶長19年(1614)と元和元年(1615)に起った、大坂冬・夏の両陣にも兄弟揃って将軍家の旗本として出陣し功がありました。
そして、元和6年(1620)11月、
宗茂・統増兄弟の旧領である筑後国一国を領していた田中氏の改易を受けて、立花宗茂は柳河11万石の大名として復権します。時は、徳川将軍家が幕藩体制を敷き、大名の改易も相次ぐ中でした。長い江戸徳川政権の時代を通し、敵対しながらも旧領地に再封されたのは立花宗茂のみで、奇跡ともいえる稀有な例でした。(旧領地では無いですが、復活した例で、丹羽長重はあります)
関ヶ原敗戦で柳河城で別れを惜しみ泣いた領民達も、今度は歓喜の涙で宗茂を受け入れたと伝わります。また、再封にあたり、筑後一国を領した田中家の遺臣は一切雇用せず、長く不遇を囲った立花・高橋の旧臣を呼び集め、その旧恩に報いたといいます。
再封を受けた時の事で、こんな話があります。
時の徳川二代将軍秀忠は、再封に際して
「(中略)此度、柳河(柳川)の旧領を与えようと思ったが、以前より領地が減っているので、伊予松山(愛媛県松山市)に18万石を与えよう」
というと、宗茂は恭しく意を受けたが
「度重なる上様のご配慮には、全く感激の外御座いません。四国渤海に身を投じても、その御恩に報ずる事は出来ない事と存じます。なれど、私はこよなく愛した柳河の地をこそ望みます。もし柳河の地を賜りますれば、子々孫々に至るまで弓矢の名利としてお仕え致す所存で御座います」
と感泣しつつ言上し、欲の無い宗茂の望みを叶えたといいます。
立花家の再封と共に、高橋家(この時は、高橋姓を立花姓に改姓)し、同じく旧領三池の地に1万石として再封される事となりました。高橋家の立花姓改姓の理由は、徳川家の臣・本多佐渡守正信より「貴公も、有名な立花殿の弟であるから、姓を立花と改められた方がよろしかろう」との提言を受けた為といわれます。依って徳川家に仕えて以降は、高橋統増は『立花直次』となります。
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■23■ 一族のその後
話が前後しますが、
立花直次(高橋統増)は、元和3年(1617)7月19日、病により江戸下谷の館に於いて死去しました。
享年46歳、法名は『大通院殿玉峯道白大居士』
遺骸は下谷広徳寺に葬られました。菩提寺は三池の紹運寺(福岡県大牟田市)にあります。
この為、三池立花家は、叔父である宗茂の後見の許、直次の嫡子である立花種次が家督を継ぎ、元和7年(1621)の再封は、種次を以って旧領に服しました。その為、徳川幕政下での三池藩は、立花直次を藩祖とします。
『立花直次』の記録は、三池藩が小藩であった事もあり、兄宗茂に比べて余り多くはありませんでした。しかし、岩屋城で父を失い、自らは島津氏の虜となった事を生涯の恥辱とし、己を律し、父高橋紹運が立花道雪に対して礼を尽くした事に倣い、兄宗茂に対するに師父に対する態度であったといいます。また、戦に出ては鬼気迫る程であったと云い『浅川聞書』に残る宗茂の言葉として「世間に大剛なる者、主膳(高橋主膳正統増の事)程の者、之あるまじく候」 と評した程、武勇の人であったそうです。
更に、立花宗茂の柳河藩ですが、宗茂には正室ァ千代姫(1602年に肥後にて死去)、及び側室との間にも子供をもうける事ができず、五男一女の子福者であった実弟立花直次の四男を、生後間もなく養子として貰い受け、この子に自らの幼名『千熊丸』を名乗らせ養育しました。この子が後に柳河藩二代藩主となる『立花忠茂』となります。
その後、立花宗茂は、三代将軍家光の御世、寛永14年(1637)に起きた肥前国『島原の乱』にも出陣し、乱の鎮定に貢献して『武神再来』と称えられたといいます。
そして、寛永19年(1642)11月25日、江戸下谷の藩邸でその生涯を閉じました。
享年76歳。法名は『大円院殿松陰宗茂大居士』。
遺骸は下谷広徳寺に葬られ、後の関東大震災を経て、領国・柳河の福厳寺に改葬されています。
その後、柳河(柳川)と三池の両立花家は、兄弟藩として明治の廃藩置県まで続きました。三池立花藩は、六代種周の時、将軍家の権力闘争に巻き込まれ、陸奥伊達郡・下手渡藩へ転封されましたが、幕末期の十代種恭の時、再び三池藩へと再封され明治を迎える事となります。
最後に、宋雲尼の晩年の事を記したいと思います。
宋雲尼は、二人の息子が徳川家の扶持を得て、高橋から立花へと改姓した立花直次の許、江戸の藩邸で平穏な余生を過ごしたといいます。そして、慶長16年(1611)4月27日、推定で60歳を過ぎたばかりの歳でこの世を去りました。法名は『宋雲院殿花獄紹春大姉』
乱世の弊で、若くして父を失い、主家の衰運で兄を失い、望まれて嫁いでは夫を助けそして失いましたが、二人の大名の母として叱咤激励して盛り立て、変転する時代を家族と一族郎党で逞しくも誠実に生き抜き、最後は小さいながらも幸福に感謝する、そんな生涯だったのではないでしょうか。
宋雲尼の遺骸は、江戸下谷広徳寺に葬られていましたが、後の関東大震災を経て、今は長男立花宗茂の柳川藩に建立された、夫高橋紹運の眠る天叟寺(柳川市)に於いて合祀されています。
尚、三池立花家のあった福岡県大牟田市にある三笠神社は、父高橋紹運と母宋雲尼、そして立花直次(高橋統増)を祭神として祀っています。社名は、高橋紹運の太宰府のある御笠郡(みかさぐん)から取ったと云われます。
同じく、柳川立花家のあった福岡県柳川市にある三柱神社は、立花道雪、立花宗茂とァ千代姫を祭神として祀っています。また、柳川市にある料亭『御花』は、柳川立花家の別邸でしたが、今尚、柳川観光の中核として、紹運と宋雲尼の御子孫である立花家の方々運営されています。
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現在の原稿は、『宋雲院』様への寄稿文を元にした暫定版です。
その点、ご了承下さい。 |
初 2001/05/21
改 2011/04/27 |