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■ 紹運と一族 ■
高橋 主膳入道 紹運
名前
高橋 紹運
読み
たかはし しょううん
その他の
呼び名
本姓=吉弘 鎮理
     高橋 鎮種
千寿丸・弥七郎・吉弘 鎮理(しげまさ)・高橋 鎮種(しげたね)
三河守(三河入道)・主膳兵衛尉(主膳兵衛)・主膳入道
号=紹運(紹雲)
(太宰府ではしょううん、他方ではじょううん)
生没年 (1548) 〜 (1586)
誕生=天文17年 9月24日
     豊後国・東国東郡(ひがしくにさきぐん)
     都甲荘・長岩屋の筧城にて誕生
死去=天正14年 7月27日
     筑前国・岩屋城にて自害・39歳
法名天叟院殿性海紹運大居士
辞世 ■ 「屍(かばね)をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名を留むべき」
「流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」
菩提寺 天叟寺 (柳川市)
紹運寺 (大牟田市)
西正寺 (太宰府市)
神社
三笠神社 (大牟田市)
祭神 (紹運・宋雲尼・統増)
持ち城 本城=筑前国・宝満城
支城=岩屋・龍ヶ城・升形・米の山
役職 筑前国・宝満・岩屋城督
吉弘 鑑理
 大友家・三家老
 (豊州三老)の一人
大友義鑑の娘(?)
兄弟
兄=吉弘 加兵衛 鎮信
他に二女あり、内一人は大友義統の妻(菊子)
宋雲尼 斉藤長実の娘
子供 ★ 二男四女 ★
長男=統虎(立花宗茂)
次男=統増(立花直次)
女  =大友宗五郎能乗の室(大友義統の嫡子)
女  =立花吉右衛門成家の室(薦野増時の嫡子)
女  =小田部土佐守統房の室
     (筑前・荒平城城主・小田部鎮元(紹叱)の次男)
女  =立花織部助の室、のち細川玄蕃頭興元の室
補足 大友家・三家老(豊州三老)、吉弘鑑理の次男
高橋鑑種の謀反後、高橋家を継ぐ
筑前国・御笠郡=宝満・岩屋城主
天正十四年・岩屋城にて玉砕
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◆ 乱世の華 ◆
高橋 主膳入道 紹運
■ 出自と人となり

豊後国の戦国大名・大友家の加判衆 吉弘鑑理の次男として生まれた紹運は、幼名・千寿丸、長じて弥七郎、主・大友義鎮(宗麟)から「鎮」の字を貰い吉弘弥七郎鎮理を名乗る。

その人柄は若き日より声望があり、沈着冷静で思慮深く、度量が人に優れて寛大で、義に篤い高義真実の人であった。。また紹運は日頃から饒舌は好まなかったが、一度口を開けば聞く者皆納得する至言を吐いたといわれる。
次男の身ではあったが大友家中の人々は
「この人物こそ将来の英雄となるであろう」
と噂されていたそうである。

『高橋紹運記』には
「賢徳の相有りて、衆に異る。器量の仁にてましませば」
とあるそうである。
■ 心ありて・・・

上記に重複するが紹運の人柄を最も物語っている一挿話がある。

紹運がまだ弥七郎を名乗っていた頃の話である。
大友家中で侍大将を勤める斉藤鎮実という武勇の士がいた。鎮実の父は大友家で家老職にあったが、先代大友義鑑の家督相続で末子相続を強行しようとした主を諌め謀殺された。その後『二階崩れ』というお家騒動が起こったが、乱の鎮定後、家督を継いだ大友義鎮(宗麟)は、惨死した斉藤長実を不憫に思い、子の鎮実に跡を継がせ重用した。

弥七郎(紹運)の父鑑理(一説では兄鎮信)と、斉藤鎮実と馬が合ったらしく友誼を持っていた。鎮実には豊後一とも言われる華のような妹(一説では娘)がいて、鑑理と鎮実の間で、鑑理の子弥七郎と鎮実の妹御の婚姻の約束が交わされていた。
弥七郎も鎮実の妹の温和な人柄に惹かれ、この婚姻を承諾していた。

しかし時は戦国の世。当時大友氏は、中国に台頭した毛利氏と度々交戦し、弥七郎も父と兄に従い各地を転戦する日々が続いていた。ある時、弥七郎は所用で鎮実に会う機会があった。弥七郎は戦陣の合間に婚儀が延びたのを詫び、必ず妹御を妻に迎える事を伝えた。しかし鎮実は苦渋の表情を浮かべ婚約の破棄を申しでたのである。
『常山紀談』には、
「げにげに申し交わせしは忘るべくも候はねど、その後、妹は痘瘡を煩いて、以ての外みぐるしくなりぬ。中々かれが有様にて見届けらるべきにあらず。今にては参らせん事叶い難し。」
とある。つまり痘瘡(天然痘)にかかり、命は取り留めたが、容貌が一変してしまい、とても嫁に出す事は出来ないと鎮実はいうのである。
それを聞いた弥七郎は、うな垂れる鎮実をみて
「これは思いもよらぬお言葉を聞くものです。斉藤家といえば代々武勇誉れ高き武人の流れであればこそ、拙者の嫁にと望み申し入れた事です。私が妹御を妻にと所望したのは、その心根であって容色ではありません。不幸容貌一変したとて心根まで変わるものでしょうか。拙者といたしましても、少しも色好みの浮いた気持ちで妻にと望んでいるのではありません。どうして武士の約束を違える事ができましょう。」
と心の内を披瀝し、程なくして約束どおり彼女を妻に迎え入れたのである。

弥七郎の見込んだ通り、彼女はその心根で人々に接した為、家中からは母の如く慕われたといわれる。また子宝にも恵まれ武将の妻そして母として内助の功多く賢母の名を高めた。
彼女の名は伝わっていないが、その法号から「宋雲尼」と呼ばれている。
■ 大蔵一門=高橋氏への養子入り

中国の大名・毛利氏に組して謀反を起こした筑前の高橋鑑種は豊前・小倉に追放されていたが、鑑種に対する家中の不信が募り、豊後の大友宗麟に直訴して、名族・高橋家の再興を望み大友の一族からの後嗣を望んだ。
大友宗麟は重臣と評議の結果
「高橋家の居城 宝満・岩屋両城は、当家にとって重要な城でありめったな者を配する事は出来ない。鎮理は若年なれど人物に不足はない。また、鑑種の実家一万田と、鎮理の実家吉弘家は縁戚の間柄なので、名跡を継いでもおかしくあるまい。」
という事になり、元亀元年(1570)五月(永禄十二年説もある)彼に鑑種の旧領・御笠郡(現在の太宰府市周辺)一円を与え宝満・岩屋両城主とした。そのため彼は吉弘鎮理を改め、高橋家の通字「種}をつけて高橋鎮種を名乗り、後に剃髪して紹運と号した。
■ 大友氏の筑前五城

紹運が妻と生まれたばかりの千熊丸(後の立花宗茂)を伴って宝満・岩屋城に入城したのに前後して、筑前国最大の要衝・立花城に、大友家の最強武将・戸次鑑連が入城し立花道雪を名乗るようになる。
(大友宗麟は、立花家は不忠の家であるとして、立花姓を名乗らせなかったともいわれる。)
当初、立花城には紹運の父吉弘鑑理が赴任する予定であったが、毛利家との合戦の頃より発病し体調を崩していた為、急遽、筑後に詰めていた戸次鑑連を立花城城督の任に就かせた。
以後は、年長の道雪のもとで大友家の筑前支配の要として貢献し、領内の城砦などの整備や、城下の大宰府天満宮などの神社仏閣を保護するなど民政に意を注いでいる。また、兄・吉弘鎮信が博多の豪商・島井宗室らと折衝していた関係から、彼らとも何らかの関わりを持っていたのでは無いかと思われる。

大友氏の筑前国支配の最重要軍事拠点として以下の五城が挙げられる。

城名所在地城主
立花山城糟屋郡立花道雪
宝満山城御笠郡高橋紹運
柑子岳城志摩郡臼杵新介鎮氏
鷲ヶ岳城那珂郡大鶴宗雲
安楽平城(荒平城)早良郡小田部紹叱

東に立花山城、南の太宰府付近の宝満山城、そして西部に柑子岳城と南西部に鷲ヶ岳城、安楽平城を添え、西国最大の商都博多を囲むように配されているのが分かる。
更にいえば、この図をみて、当時の大友氏豊州三老及び、その一族が東西と南部の最重要拠点を占めている事に気付かれると思う。
■ 「耳川の戦い」と筑前騒乱

天正六年(1578)
主家大友家が、日向国「耳川の戦い」で島津氏に大敗した事に伴って、筑前の諸豪族が反乱を起こす。以後、紹運は道雪と共にその鎮圧に奔走する事となる。紹運は道雪と共に小勢を以って数で勝るそれらの諸勢力を幾度も撃退し勇名を馳せたが、肝心の主家・大友家は、一族の中からの反乱を起こすなど本国である豊後一国すら治める事も出来ないしまつであった。筑前の大友諸城は立花・宝満・岩屋城のほか数城を除き手もろく落城して、紹運の周囲は立花城を除き皆敵になり孤立状態に陥った。九州の情勢は一変し、これより薩摩の島津・肥前の龍造寺・豊後の大友という三国鼎立時代に入る。

この「耳川の戦い」敗戦以後より、「紹運ある所、道雪あり」と敵側から言われる程、紹運は立花道雪と一致団結して軍事行動を共にする様になる。紹運は、東国までその名を轟かす名将・道雪を師父として敬い、彼の戦術・戦略を見聞きし実践する事によって、高橋家の軍勢は立花家の軍勢と共に大友家の双璧とまで謳われるほどの強兵に成長をする。
■ 武門の道 嫡子統虎の立花入り

天正九年(1581)、
嫡子・統虎が立花家へ婿養子として道雪の一人娘・ァ千代姫と結婚する事となった。
紹運は当初、嫡男を他家に出すことに難色を示していたが、生い先短い道雪の家を思う心情と両家の更なる結束を固める為、この養子縁組を承諾した。
紹運は統虎に別れの杯を交すと
「今日より後は、この紹運を親とは思わぬよう努めよ、道雪殿がお前の父である。武門の習いとして明日にも道雪殿と敵味方になるやもしれぬ。その時お前は、立花家の先鋒なって間違い無くこの紹運を討ち取れ。道雪殿は未練がましい事を嫌われる生れつき故、もしお前がわしを前に不覚の行跡あれば、必ずや義絶されよう。その時おめおめと当城へ帰ってくる事は許さぬ。自らの足らざるを悔やみ、腹を切って道雪殿にお詫びせよ。」
そう言うと、その時の為にと備前長光の刀を手ずから与えた。更に
「とはいえ、今日明日も覚つかぬ命である。不幸にしてこの紹運がお前より先に討死にする日が来るやもしれぬ。その時はその刀を我が形見と思い肌身離さず持っているがよい。そして、その刀を見・触れる度に養家に対し、主家に対して尽くす義理を思い、かねてからわしが言っている様に、武士たる者がたどるべき道を確かめよ。」
こうして立花家に婿入りした統虎は立花統虎を名乗り、左近将監を名乗る事となる。
統虎はこの時渡された備前長光をその生涯片時も放さなかったといわれ、父の形見、そして父の遺命の重さを噛み締め名将への道を歩んで行く事になるのである。
■ 鼎立崩壊と大友氏の筑後遠征

天正十二年(1584)三月二十四日、
島原半島で龍造寺家と島津家が合戦に及び、龍造寺隆信が討死した事で三国鼎立が崩れると、大友家は島津家の正面攻撃にさらされる事となる。当時の大友家の当主・大友義統は島津家の本格的な北上に備える為、蚕食されていた筑後の奪還を企図し、弟の親家・親盛に七千の兵を預け筑後に攻め込ませた。しかし、「耳川の戦い」で多くの勇将・知将を失った大友家の軍勢は戦に不慣れな若者が多く、二千人で篭もる黒木の猫尾城を一月の間攻めあぐねていた。それに業を煮やした義統は、今や切り札といえる道雪・紹運に出陣を要請する。両将は直ちにそれに応え、五千の兵を以って筑後に出陣する。紹運はこの遠征の間に宝満・岩屋の内どちらかの城は、敵に奪われるであろう事を覚悟しての出陣であったといわれる。

両将は敵地のど真ん中を走破して早々に着陣し大友の将士を驚かせている。両将は豊後勢を叱咤激励して瞬く間に猫尾城を落とし、筑後の大半を切り従えたが、筑後国最大の堅城・柳河城を落とす事が出来ないでいた。そんな中、豊後勢の大将格 親家・親盛兄弟が突然豊後に帰えってしまう。その訳を
「我らは今日まで粉骨して戦ったが、そのすべての武功は道雪・紹運に帰した。この上如何に豊後勢が働こうとも何の役にも立たず、ただ人のためになるばかりである。」
といった事らしい。両将は「豊後勢もここまで落ちぶれたか」と、嘆息するほか無かった。
(ただし実際には、親家・親盛が豊後に戻ったのは、秋月氏が豊後侵入の気配を見せていた為ともいわれる)
■ 盟友道雪の死

天正十三年(1585)
柳河城に篭もっていた龍造寺家晴は城を出て大友軍と対峙した。三万もの大軍を擁する家晴を野戦にて翻弄し散々に討ち果たし肥前勢を敗走させている。しかし、決定的な打撃を与える事が出来ず、以後も幾度か野戦で駆逐するも遂には柳河城を落とす事が出来なかった。

そして同年九月十一日、
大友家の柱石・立花道雪が北野の陣中で死去してしまう。この偉大な老将の死に際した紹運の様子を『筑前治乱記』は
「亡者の杖を失い闇夜に灯の消えたる心地なれ、中でも紹運の嘆きは大業ならず、生きては行を同じくし死しては屍を列ねんとの思いしことの空しく、心中いかばかりか思われなむ。」
と記している。
彼の死によって大友家の筑後奪還は頓挫し、紹運は殿軍となって道雪の遺骸を守り筑前に兵を返す。この時龍造寺を始めとする敵軍は、偉大な老将の喪に服し一切の攻撃を控え、大友軍を襲う者はなかったという。
■ 宗麟上坂

最も頼りとした道雪の死によって、隠居していた大友宗麟は焦燥感かられ、本州で強大な勢力を築きつつある豊臣秀吉に直訴し島津征伐を企図する。その折、宗麟は秀吉に対し
「朝(あした)には秋月氏に味方、夕(ゆうべ)には龍造寺に心を合わせるといった節操無き者の中にあって、立花道雪と高橋紹運の両名だけは、武名を惜しみ、義を尊び、恥をしる頼みになる武将であります。どうか御家人となしたまわりますよう」
と語って紹運父子を推挙した。そのため秀吉は紹運と道雪の養子統虎を直参とみなし朱印状を与えている。

史家の方達には、「秀吉が紹運・統虎親子を欲しがっていた」とか言われる所ですが、実際の所は宗麟の政治的な駆け引きであったかと思われます。
1つが筑前国の自治権の問題で、もう1つは高橋親子の所領問題です。
博多を含む筑前が大友氏に残る見込みが皆無であり、豊後で高橋親子に報いる所領を確保ができない以上、直接秀吉の直参としておく方が大友氏にとっては都合が良かったのではないでしょうか。
■ 戦国の燗馬 筑紫広門

九州の殆どが島津氏になびく中、ひとり奇特な行動をとった武将がいる。
肥前・勝尾城主 筑紫広門である。
彼は道雪の死というドサクサに紛れて手薄の宝満城を攻め取っていたが、その後、紹運の元に娘を遣わして紹運の次男・統増との婚姻を結ぶ事に成功し、大友家すなわち豊臣方に寝返りをうったのである。
紹運としても宝満城が敵の手にある事は不便である事と、元々紹運の妻・宋雲院と広門の妻は姉妹であり、領地が隣接する両家は家臣団も顔見知りや血縁者が多かった為、この縁談は家臣団からも望まれていた。また、筑後回復が頓挫した今、一人でも味方が欲しかったのである。

しかし、この縁組みを望まない人物がいた。筑前最大の大名・秋月種実である。
種実も広門同様、紹運との接触を図っていたが、広門に先を越されていたのである。しかも、高橋・筑紫・立花の三家が結託する事は秋月家にとって脅威であった。そこで種実は薩摩の島津家に事の急を告げ、早々に筑前の大友諸城を攻め落とし豊臣家が九州に介入してくる前に豊前を押さえ関門海峡を封鎖し、その上で大友家を叩く事を進言する。
■ 島津北上と紹運の決意

島津家の当主・島津義久は逡巡してなかなか決断を下せなかったが、天正十四年六月中旬、島津忠長を総大将とする二万の軍勢を北上させた。筑・肥の諸氏の参陣によりその軍勢は五万にも達していた。同年七月六日、島津軍はまず寝返った筑紫広門の諸城を数にまかせて席巻、筑紫軍も勇戦したが、広門の嫡子・晴門が討死にした事によって、戦意を喪失し島津軍に降伏する。

筑紫家を降した島津軍は、天正十四年7月十二日、高橋家の所領・御笠郡に侵入し岩屋城を包囲した。紹運は島津軍の侵攻前に家中の者達を呼び集め
「自分はこの岩屋城で島津軍を迎え様と思う。島津の大軍を前にして多年住み慣れたこの城を放棄すれば
「風声鶴唳を聞き、居城を遁れる」
ものであり武士のする事ではない。義の為に死せる事、武士の本懐である。宝満籠城の策もあるが、高橋・筑紫の寄り合いであり兵の和を保ちがたい。また、運強ければ死地にあっても生き、運弱ければ生地にあっても死す。宝満には統増に人数を添え老幼婦女子・病人を退避させよ。自分は最後までこの城に留まり、関白殿下の援軍を待つ所存である。援軍が間に合わなかった時は、それまでの運命であったと思わなければならない。また、次の者たちは籠城に加わる必要もない。一つに、籠城に賛成しかねる者。二つに、両親に男子一人の者。三つに、兄弟の内ひとりは家名を守るべし。この考えに不賛同の者は、遠慮無く城を去るがよい。」
と決意をあらわにした。家中の将士からの一人の離反者もなく衆議は決した。

道雪の死後、立花家を継いだ統虎は父と岩屋の将士の見を案じ、老臣・十時摂津を遣わして籠城の不利を語り、堅城の宝満または立花山城に退くことを進言する。これに対し紹運は
「事ここに到り、一軍の将足る者が一所に篭もる事は良策にあらず。たとえ薩軍五万とはいえ、この紹運命の限り戦えば、十四・五日は支え、寄せ手を三千ほど討ち果たすは出来よう。島津勢鬼神とはいえ、ここで三千の兵を討ち果たせば、立花へ到る頃には手強き働きをすることは出来まい。また、立花城は名城であり軍勢も多く、たとえ攻められても二十日の間で落ちることはあるまい。かれこれ一月ほども防戦すれば、中国の援軍が渡海してこよう。さすれば統虎の運も開かれ、この紹運の死も無駄では無くなる。」
摂津は返す言葉も無くうな垂れていると、高橋家の老臣・屋山中務が進み出て、
「殿は統虎殿のお諌めに従われて、速やかに立花城にお移りください。当城は今まで私が城代として預かって参りましたので、某一人が踏み止まって防戦し、力尽きた時は城を枕に討ち死に致します。」
と進言した。紹運は、中務の話を聞き終わると、はらはらと涙を流し、
「今に始まらぬそなたの忠勇、この紹運心魂に徹しておる。なれど、そなた一人が死んだとて島津軍は引き上げまい。またそなたのような忠臣をどうして見殺しにすることが出来ようか。」
と言ったので、摂津はなすすべなく紹運のしたためた書状を持って立花城に帰城した。統虎はこれに対しまだ馴染みの薄い立花家の将士に懇願し、志願した吉田右京をはじめ二十余名あまりを岩屋城に派遣した。

後に徳川の世になって立花宗茂と名乗っていた統虎は、この時の事を追懐して
「あの折り、自分は立花家に入って日が浅く、その家臣団は先代・道雪公の遺臣であった。死の分かった援軍に行ってくれとはなかなか言い出せなかったが、吉田右京が進み出て
「国に報いるのに、義あるのみ」
と言って志願してくれたので、他の者達も申しでてくれた。自分はこの時ほど嬉しかったことは無い。だから、吉田達の忠節に対して自分は子々孫々に到るまで報いなければならない。」
と語ったといわれる。
■ 筑前 岩屋城の戦い

岩屋城には、五万の島津軍に対し、立花の援軍と紹運を始めとする岩屋将兵の僅か763名が篭城。薩軍は岩屋城の南方の般若寺に本陣を置き、城下の観世音寺に前線の指揮の為の陣を置いた。総大将の島津忠長はまず降伏を勧める為、二日市の僧侶・荘厳寺の快心を使者として赴かせたが、紹運はこれを一蹴し追い返した。

また、翌十三日には豊臣家の軍監・黒田孝高(如水)の意を受けた小林新兵衛が岩屋城に入城し、立花城への退陣を進言するが、これに対しても、
「(中略)事ここに到っては立花へ引くことはかないません。自分はこの城を枕に討死する覚悟です。どうか関白殿下がご出馬されたら、この事をお伝え下さい。私は地下で今日のご好意に報いましょう。また、黒田殿の使者である貴殿に対し饗応するべきですが、ご承知の通りの敵軍に囲まれておりますのでそれも出来ません。何卒事情を推察下さい。」
と答えた。新兵衛は武人として紹運の志に感じ入り、供に籠城の兵に加わろうと志願したが、紹運はこれを諭し主への義務を果たさせるべく、数人を付けて間道づたいに落とした。
■ 壮烈岩屋城

薩軍は七月十四日に攻撃開始した。
日本の戦国史の中で最も苛烈な激戦といわれた「岩屋城の戦い」はこうして始まった。五十倍の敵兵を相手に、城兵は紹運の采配の許で一歩も引かず奮戦、昼夜をとわず激戦を展開した。
この激戦の様子を「筑前続風土記」は
「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり。
(中略)城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし。」
また、「北肥戦記」には
「合戦数度に及びしかども、当城は究意(くっきょう)の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり。」
と記されている。

薩軍は猛攻に猛攻を重ねたが損害が増すばかりで、十日あまりの間に砦の一つも落とす事が出来なかった。大将・忠長はあまりの損害の多さに作戦を変え、一旦兵を退かせて、城下の農民を捕らえて口を割らせた。兵を派遣して水の手を押さえた。それでも城兵の士気は旺盛で、怪我を負った者まで敵に立ち向かう程であったという。しかし数に優る薩軍は、新手を入れ替えて攻めさせたので、城兵の疲れの見えはじめた二十六日になって、遂に外郭が破られた。城兵は二の丸・三の丸に退き、追撃してくる薩軍に大木・大石を落とし鉄砲・弩弓を射かけたので、手足を折られ圧死する者が数百にも及んだ。これに辟易した薩軍は、暫らく近寄る者も無かった。

甚大な損害を蒙った薩軍は、新納蔵人を軍使として遣わし、有利な条件を提示した和睦を説かせた。紹運はわざと本名を名乗らず麻生外記と名乗り使者と対面し、
「(中略)主人の盛んなる時、忠を励み功名を顕わす者ありといえども、主人衰えたる時にも変わらず一命を捨てる者は稀にて候。貴殿も島津家滅亡の時、主を捨て命を惜しまれるか。
(中略)武士足る者、仁義を守らざるは鳥獣に異ならず候。」
と言ってはねつけ、城を取り囲む薩軍の中からも喝采があがったという。蔵人は返す言葉も見つからず引き下がるより他なかった。
忠長はそれでも諦めず、快心を再び岩屋城に赴かせるが、紹運はこれもはねつけた為、大将・忠長は翌二十七日、総攻撃を決断する。
■ 紹運無双

七月二十七日早朝(4〜6時頃)薩軍の最後の総攻撃が始まった。

紹運主従の必死の防戦もむなしく、屍を乗り越えて次々と押し寄せる薩軍の猛攻の前に、そこここに討ち果たされていく。残った兵達は、紹運に最後の決別をして満身創痍の体で薩兵と切り込んでいった。本丸で指揮をとっていた紹運は、負傷者には自ら薬を与え励まし、死者には経を唱え弔っていたが、薩兵が本丸まで侵入して来た為、自ら大長刀を持って旗本を従え薩軍に突入し、十七人まで斬り倒した。
この時の紹運の様子を「西藩野史」は
「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」
と記している。

紹運等の奮戦に寄せ手は怯んで後退したが、紹運も身に数ヶ所の疵を負い、僅か五十余人となった生き残りも、その多くは深手を負っていた。我が身の最後の時を悟った紹運は、敵の手にかからぬ内にと引き上げ高櫓に登った。
最後まで付き従った旗本の吉野左京介が紹運に
「館に火を放ちますか」
と問いかけると紹運は
「その儀は無用である。首を取らせる事で、義を守って死した事がわかる。死体が見えなければ、紹運が逃げ落ちた思われるであろう。武士は屍を晒さぬものと言うが、それは死に場所による。敢えて首を取らせよ。」
と言ったという。
そして潔く腹を切って果てた。享年39歳、
時刻は午後五時頃であったという。

紹運の最後を見届けた将兵は、同じく腹を切り、または刺し違えてことごとく後を追って殉死し、紹運を介錯をした吉野左京亮は同じ刀で自刃した。
紹運の首を取る為に本丸に踏み込んだ薩軍将兵は、凄惨なこの総自決を眼のあたりにして声をあげることも出来ず、ただ足をすくませたという。

紹運の辞世は、自決する前に扉にしたためたといわれる、
「屍(かばね)をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき」
というものと、現在・四王寺山の岩屋城本丸跡にある碑面に記されている、
「流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」
の二首が伝えられている。

紹運主従の首は、島津本陣に運ばれ首実検に饗された。大将・島津忠長は敵ながら見事と称賛をおしまず、最高の軍礼をもって執り行った。また忠長は、紹運の首の前に膝をおり、恭しく拝礼して
「たぐい稀なる勇将を殺してしまったものよ。
この人と友であったなら、いかばかり心涼しかったろう。
弓矢を取る身ほど、恨めしいものは無い。」
といって、紹運の死を惜しんだともいわれる。紹運の死を確認した薩軍陣内では、勝ち鬨が陣所に打ち返り、生き残った事に悦びあったという。

この戦いで島津軍は、大将株・二十七騎、死者・三千人、負傷者千五百人という、死者が負傷者の2倍にも及ぶという予期しなかった大損害を蒙った。日向国から駆け付けた上井覚兼の援軍などは壊滅的打撃を受け、「耳川の戦い」で大友軍を高城で翻弄し、島津家の興隆の貢献した勇将・山田有信なども一時、意識不明になる程危険な状態に追いこまれた。

島津側の強行的な正面攻撃に固執した作戦の失敗ともいえるが、島津に従った諸豪族の出足が鈍く五万の軍勢といっても、一枚岩とはいえなかった。そして紹運自身が最前線の小城に篭もった事で島津軍に対し、攻めなければ為らない状況を作り上げ、岩屋城に誘い込んだのである。

岩屋城兵は一人も逃亡する者も無く全員玉砕して果てたが、
『筑前国続風土記』には
「紹運 平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人も節義うしなわざるべし」
と記されている。
■ 乱世の華

島津軍は紹運を討ち果たした後、宝満城を開城させ立花山城まで攻め寄せたが、岩屋城での損害が大きく攻めこむ事に逡巡し、それにつけ込んだ紹運の長男・統虎(立花宗茂)と立花家中の機略に阻まれて更に時を失い、秀吉の軍勢に豊前国上陸を許してしまう。
勝機を失った島津軍は博多の町を焼き払って撤退する。統虎は島津軍を追撃し損害を与え、時を置かずに奪われた宝満・岩屋両城を奪還し、紹運の弔い合戦で多大な戦果をあげた。
岩屋城で散った紹運、39年の生、全てを駆けた戦略がこの頃から実を結び始める。

翌年、大軍を以って島津家を降伏させた秀吉は、大宰府に立ち寄り紹運主従の忠孝を称え、
紹運を
『乱世の華』
と称えて深く彼の死を惜しんだという。

紹運の死後、長男の統虎は秀吉に
「その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一。
上方にもこれ程の若者があろうとは思われぬ」
と激賞され以後、子飼いの家臣以上の恩寵を受ける。
そして、九州征伐第一の殊勲者として、筑後国・柳河十三万余石を賜り、大友家から独立して大名に取り立てられた。
島津軍の捕虜となっていた次男の統増(後の立花直次)も、無事に救出され筑後国・三池一万八千石を賜り、同じく独立して大名に取り立てられた。
関ヶ原の合戦で兄弟揃って領国を失うも、紹運・道雪に薫陶され武士として一貫した行動は衆人知るところであり、先人を辱める事無かった。それが為に、後に許されて筑後の領国を回復している。
因みに、紹運の跡を継いだ高橋統増は、徳川家に仕える様になってから、本多正信の勧めにより、高橋の名を立花に改めている。

紹運の墓は、岩屋城二の丸に家臣団に囲まれるように葬られている。
紹運の法名は
『天叟院殿性海紹運大居士』
菩提寺には、柳河に封じられた統虎が天叟寺をたて、三池に封じられた統増が紹運寺を建立していて、紹運の家臣であった「藤内左衛門尉重勝」がたてた太宰府にある西正寺も、紹運と岩屋城兵の菩提を弔っている。
また福岡県大牟田市にある御笠神社は
紹運公と妻・宋雲尼、そして統増公を祭神として奉っている。
紹運公
語る
紹運公談
長々とした文章をココまで読んで頂き
有り難き幸せ。m(_ _)m
少しでも九州戦国史を知り
興味を持って頂く切っ掛けになって貰えれば
望外の幸せに御座る。

しらべ
管理人しらべ の 一言

一言
ああああああああああ〜
5年近く振りの修正で御座る。
前より小分けにして読み易くなった
・・・と思いたいですが。(=ω=)
少しだけ加筆も加えました。

毎度ながら、文字が小さくて
『読みづらかバイ!ばかチンが〜!』
って方は、素直にブラウザ側で
文字サイズ調節して下さいませ。

紹運公の話はこれで終らせるつもりはありません。
まだ逸話なんかも入れておきたいので、
気長にまって下さい。

・・・
ホント気の長いサイトになってるよね(笑)

最後に、
紹運公と岩屋篭城兵、
そして相対した島津将兵
己の意地と未来を賭けた先人たちに捧げます。
m(_ _)m
初 2000/06/15
改 2005/01/22

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