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■ 立花家の将 ■
薦野 三河守 増時
名前
薦野 増時
読み
こもの ますとき
その他の
呼び名
増時・三河守(三河入道)
号は賢賀(三河入道賢賀・玄賀とも)
天正14年、立花姓を賜り「立花三河」を名乗る。
生没年 (1543) 〜 (1623)
誕生=天文12
死去=元和9年 2月10日 81歳
法名円珠院来翁玄賀
菩提寺 ・ 養徳山の小松ヶ岡
・ 養孝院 梅岳寺
持ち城 ・ 筑後国・柳河入国時=城島城・四千石
・ 立花家改易後=黒田家・二百人扶持
           (子・吉右衛門・四千石)
役職立花家・家老 四千石
薦野 河内守 宗鎮 (?)
不明
兄弟
弟=丹 半左衛門
不明
子供 ・ 吉右衛門 成家 (室・高橋紹運の娘)
・ 増利
・ 甚兵衛重時
・ 弥兵衛増重
補足 ・ 戸次鑑連の立花城入り以来、優遇される
・ 一時 道雪の養子候補に挙げられる。
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キーワード
薦野 増時 三河 三河守 三河入道
賢賀 玄賀 立花 立花三河
道雪 統虎 宗茂 黒田 如水 長政
筑前 筑後 柳河 鑑載 丹 米多比
立花城 柳河城 城島城 吉右衛門 成家

◆ 鬼道雪に認められた沈着の将 ◆
薦野 三河守 増時
■ 出自

薦野増時の祖は米多比氏と同じくし、始め「丹冶」と称しその後、筑前国・糟屋郡薦野に住するようになり「薦野」氏を称した。

永禄11年(1568)
主筋の立花城主・立花鑑載が毛利氏に通じた為、大友宗麟に攻め殺される。その後、立花城城督として戸次鑑連(立花道雪)が赴任してくると、増時はその才覚を認められ、米多比三左衛門と共に優遇される様になる。以後道雪に従い、その沈着・冷静な判断力と勇猛・果断な実行力で、数多くの合戦で功を立てる。
■ 死せし後は・・・

ある時、増時の数多い功に報いようと、主・道雪が彼を召し出して望むものが無いか問うた事があった。増時はかしこまって、
「恐れ多き事ながら、
自分の死せし後、殿の墓の傍らに葬られることをお許し下されたく。」
と、死した後、道雪の傍に葬られる事を望み、道雪もそれを承諾したといわれる。
■ 道雪の望み

またある時期、
自らの跡を継ぐ男児に恵まれなかった道雪は、増時に妻・仁志姫の連れ子・政千代姫を娶らせて、立花家の名跡を継がせようと思い立ち、増時にその由を伝えた。
しかし、彼は
「何卒、大友家の御一族から選ばれます様・・」
と言って固持して受けず、その内に政千代姫が十二歳で死去してしまった為、遂には沙汰やみとなった。

増時はこの一件以来、立花家の跡継ぎ候補を捜す事となる。
そして数年後、一人の少年を道雪に推挙した。その少年の名は「千熊丸」、道雪の盟友・高橋紹運の長男であった。この推挙に道雪はさすがに驚いたが、千熊丸の器量は認めていた道雪は改めて得心し、後に紹運に掛け合い、遂に一人娘・ァ千代姫の婿養子として立花家に迎える事となる。千熊丸(立花統虎)は後に「西国一の勇将」と謳われる程の人物に成長する名将・「立花宗茂」である。

道雪の嗣子となった統虎の器量は、増時の予想を遥かに越えていた様である。
天正13年(1585)
道雪が紹運と共に筑後へ遠征すると、増時は十時摂津と共に統虎の後見として立花城の留守居を任される。道雪・紹運のいない隙を衝き、筑前の大名・秋月種実が八千の兵を差し向け立花城に攻めかかって来た。増時は、堅城である立花城に篭もって戦うことを主張するが、統虎は笑って取り合わず自ら出陣して夜襲をかける事を提案して譲らない。しかたなく増時が五百の兵を率いて夜襲を仕掛けることになったが、この夜襲は大成功を収め秋月軍を敗走に追い込む。以後も、度々秋月の兵が立花城を襲ったが、その度に統虎の機略で追い散らされている。
■ 立花三河

道雪の死後、統虎が立花家の当主となってもその忠孝は変わらず、若い統虎を支え信頼される。秀吉の九州征伐の折は、統虎から「立花」の姓を賜って「立花三河」を名乗り、秀吉の許へ使者として赴く。秋月種実の岩石城を攻めていた秀吉は、増時をそば近くに召し寄せ
「その方、西国では武勇の者と聞いておる。然れども東国武者の城攻めは見た事があるまい、ここにてその様を見物せよ。」
とそのそばで見物させた。そうこうする内に蒲生氏郷の家臣らしき武者が、城に乗り込んだのを見て取ると、
「あれを見たか三河、東国武者は欠くの如しじゃ」
といって上機嫌であったという。

九州征伐も大詰めになると、秀吉は統虎の弟・統増夫妻が島津に捕らわれている事を不憫に思い秀吉は、統虎に対し薩摩に増時を使者として赴かせ交渉にあたらせる様に指示している。その後、十時摂津が夫妻を受け取りに赴き無事に立花城に連れ戻すことが出来た。その報告を聞いた秀吉は、
「三河は、知勇の武士である。」
といって褒め称え、そば近くに召して多くの賞を与えたという。
■ 新生立花家の両翼、和泉と増時

その後、統虎が筑後国・柳河城主となると、城島城を任され四千石を給された。これは、立花家中で小野和泉に次ぐ石高で、彼が当時の立花家中の中核として無くてはならない存在であった事を物語っている。

文禄の役の時は、肥前名護屋城で本営詰めとなり、慶長の役では柳河城番となり、内地での行政を任される。

注) 増時の石高が、小野和泉の次席となっている事について
その理由として、当時立花氏の中で薦野一族の権力が強くなり過ぎていた為、小野和泉を増時の上位に配して家中のバランスを計ったと、最近の研究ではいわれているそうです。
■ 義戦か、安泰か・・・

関ヶ原合戦の折は、他の重臣が豊臣方を賛するところ、増時はただ一人徳川方につく事を表明する。
「此度の合戦は必ずや徳川の勝利になりましょう。家康公は、若年の頃から強敵と戦い今だ敗れることを知りません。兵法に詳しく、事前に芽を摘む知将でありますから、此度の上杉攻めに出陣する前から上方の大乱を覚悟しておられたでしょう。上杉攻めを止めて軍を返し、歴戦の諸将を従えて上方へ出発されるなら、宇喜田・毛利をはじめ、その他、五奉行の面々が、たとえ秀頼公の御名で諸大名を下知されても、その志が一定せず勝利することは出来ますまい。幸い九州に残っている黒田如水・加藤清正の両名は、必ず家康公につかれるでしょう。そこで、殿はこの地に留まり両将と協議して行動を起こされて下さい。されば、お家は安泰でありましょう。」
と言ったという。
それまで、だまって重臣等の意見を聞いていた宗茂(統虎)は、
「皆が話される事は、それぞれ国を思っての事であろう。有難く思う。しかし、自分は勝敗には拘らない。武士足る者は義を尊ばねばならない。皆が知る通り、故太閤殿下には深い御恩がある。その為、自分は秀頼公について一方を受け持ち、忠義をあらわそうと思う。」
そういって増時の言を退け、彼に柳河城の留守居を任せ、軍勢を上方に送った。
合戦は増時の予想通りに進み、宗茂の活躍をよそに西軍は崩壊した。ほぼ無傷で柳河に帰りついた宗茂は、休む間も無くと東軍に寝返った鍋島の軍勢と激戦を展開し、これを撃退する。
■ 筑前へ

宗茂が清正の仲裁によって降伏すると、増時は黒田如水の許に赴き戦後処理に奔走した。立花家が改易になるとその家臣団は、大国を拝領された黒田・加藤の許へ引き取られることとなり、増時は、戦後処理における見事な対応に感嘆した黒田如水に見とめられ、その一族と共に黒田家に召される。
増時は高齢の為に隠居して賢賀を号し、二百人扶持を賜り、嫡子・吉右衛門(宗茂の妹婿)が四千石、弟の半左衛門が千石を給された。
■ 道雪の遺臣として

元和六年(1620)、
大坂の陣で戦功をたてた宗茂が、柳河城主として返り咲くと、他家に預けられていた家臣団を呼び集めたが、増時はこれに応じていない。増時自身は高齢の為であった事と、元々筑前国の地侍であった事などが絡んでいるのでは無いだろうか。

それともう一つ、
増時は元和九年(1623)二月十日、死去している。
享年八十一歳。
彼の墓は生前の約束どおり、梅岳寺に眠る前立花城城督・立花道雪の傍らに葬られている。
初 2000/03/11
改 2005/01/22

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