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■ 立花家の将 ■
立花 次郎兵衛 統春
名前
立花 統春
読み
たちばな むねはる
その他の
呼び名
次郎兵衛・統春
生没年 (1564)〜(1590?)
誕生=永禄7年
死去=天正18年(?) 27歳?
戸次親行(立花道雪の弟)
兄弟
清田氏の女(?)
子供 子供=
養子=立花 三太夫 統次(森下釣雲の三男)
補足 戸次親行の死後、叔父の道雪に養われる。
加藤清正家中の罪人を匿った為、自刃。
検索用
キーワード
立花 次郎兵衛 統春 戸次 親行 三太夫 統次 高鳥居城

◆ 華の武者・立花武士道 ◆
立花 次郎兵衛 統春
■ 勇将道雪の甥

立花統春、通称・立花次郎兵衛。
次郎兵衛の父・親行は、戸次鑑連(道雪)の弟であったという。
親行が死んだ時、次郎兵衛は僅か2歳であった為、後見として道雪に引き取られ、厳しく育てられる事になる。その人となりは、
『沈勇かつ剛毅で、礼節を重んじる高義の人』
だったと伝わり、道雪・宗茂2代に仕えて多く戦功をあげた。
■ 高鳥居攻城戦と十時伝右衛門

天正14年(1586)8月24日、
立花城攻略に失敗した島津軍は肥後に撤退を開始し、立花軍は追い討ちをかける。翌25日には、返す刀で立花城の抑えとして高鳥居城に篭る筑後の星野吉実・吉兼を攻めた。

僅か300余の小勢ながら、激烈な抵抗をみせる城兵により、立花家の将・小野和泉も鉄砲で両足を撃たれ地に伏し、当主・統虎(宗茂)の兜に銃弾が当たるなど苦戦している。しかし数で勝る立花軍は、徐々に星野方を追い詰めて場内に侵入した。

いち早く城将・星野吉実と相対した次郎兵衛は、大将を討つ礼として、恭しく太刀を額に押し頂いてがら一刀を浴びせ、吉実の鎧の上帯を切った。奥に引こうとする吉実を立花家の十時伝右衛門が突き倒しその首を挙げた。
別の説では
「吉実は今は逃れぬところと悟り、数歩退き、石の上に腰掛けて動かず、従容として統春・伝右衛門の白刃を受けて絶命した」
とある。

戦後に戦功を記す為、武者奉行の池辺龍右衛門が首を改めたが、首をあげた伝右衛門は
「統春殿の功である」
と言い張り、次郎兵衛も
「某は討ち損じたのであって、功は首を取った伝右衛門のものです」
と言い放つ。伝右衛門は更に
「戦場は狩場と同じで初手をもって手柄とすべきです」
と互いに譲らず、困りはてた武者奉行の池辺龍右衛門は、主・統虎にそのまま報告した。互いに功を譲りあう奇妙な二人の志を高く賞賛した統虎は、二人に感状を与え功を賞した。

この後日の話しとして、
十時伝右衛門は、次郎兵衛が敵将・吉実を討つ時、まず軍礼をして斬ったのを疑問に思い、谷川立心(大膳)に問うた。そこで谷川は軍礼としての作法を一通り説き聞かせた為、伝右衛門は大いに軍礼を学ぶようになったそうである。
■ 加藤家騒動と士道

秀吉の九州征伐後に大名に取り立てられた統虎に従い、次郎兵衛も筑後国・柳河に移住する事となる。柳河入り後、隣国肥後に移封してきた佐々成政の不手際により、肥後国人による一揆が勃発し、立花家も鎮圧に駆り出された。一揆鎮圧後、秀吉の股肱の臣・加藤清正と小西行長が肥後を分割する領主となる。

天正18年(1590)頃の事である。
加藤清正の家臣で、宮本・山口と他数名が罪を犯して柳河に逐電した。何かしらの縁があったのか、彼等は次郎兵衛の元へやって来て、不憫に思った次郎兵衛は彼等を匿った。その事を知った清正は、使者として吉田帯刀という者を立花家に派遣して身柄の引き渡しを迫った。宮本・山口等は事ここに至り観念し、恩を受けた次郎兵衛に罪が及んではいけないと考えて、大人しく吉田に捕まって肥後に連行される事となる。
次郎兵衛は吉田帯刀に対して
「武士の情けで、肥後への帰路、彼等に縄目の恥だけは与えないでやって欲しい」
と頼んで、吉田帯刀に承諾させた。こうして宮本・山口等は次郎兵衛に厚く礼を言って肥後へ連行されていった。

しかし柳河城下を出ると吉田は舌も乾かぬ内に、彼等を直ちに縛りあげ護送したのである。たまたま次郎兵衛の家人が瀬高からの帰路にこの一行に出会い、その憐れな姿を次郎兵衛に告げた。話しを聞いた次郎兵衛は怒気をはらませて
「武士の約束は千金より重いもの。それを破るとは無礼である」
というや弓矢を取り、はだか馬にまたがって吉田等を追った。吉田等に追いついた次郎兵衛は
「約束を破った無頼漢め!」
と叫ぶや弓を放つ。矢は見事に吉田の髻を射抜いて落ちた。ざんばら髪になった吉田は顔面蒼白になって、宮本・山口達を置いて、肥後に遁走してしまった。

次郎兵衛は宮本達の縄をほどき
「やむを得ずこの様な仕儀になりました。この上はかならず清正公がお怒りになり、我が主君に迷惑を掛ける事になりましょう。その時は、それがしが腹を切り謝罪しなければなりません。貴公等は早々にこの地を去り、お逃げなさい。」
宮本達はかぶりを振って
「貴殿のおかげで今日まで生きる事ができました。その恩人を見捨てて去ることはできません。」
といって、再び頼んで次郎兵衛の邸に行くことにした。
■ 高義を貫き、華として散る

幾日かたって、怒り心頭の清正は事の詳細を調べもせず、主君・統虎に使いをだして談判に及んできた。この当時の清正は、先の領主・佐々成政の失策もあり、豊臣政権の威信回復の為、九州の緒人に強い態度で望んでいた。例え秀吉に憶えめでたい統虎でも抗しきれず、断腸の思いで切腹を命じるより他なかった。

検使役として、次郎兵衛の旧知の仲である十時伝右衛門が派遣された。
一説では伝右衛門は次郎兵衛に逐電の復命を伝えたともいわれる。
しかし次郎兵衛は自らの行いになんら悔やむことなく、ただ主君統虎への詫びを言った後、従容として割腹して果てる事となる。

彼の妻は清田氏の出であったが、検使役の伝右衛門を睨み
「懐に入った窮鳥は殺さないと言います、まして人であれば助けるものでしょう。使者は武士の約束を破り、夫を侮蔑したばかりではなく、統虎公の威信をも傷つけた事になりましょう。それなのに夫は切腹させられました。私ひとり、なんの面目があって生きておられましょう。」
と言って、夫の傍へ行き自害して果てた。
また次郎兵衛の家の家人たちも、
「高義の主人に切腹を命ぜられ、いま又、夫人も自害なされた。統虎公には何もいう事はない、せめて冥土までお供しよう」
と、その場で殉死する者が11人にもおよんだ。

武士として清廉に生きた勇将・道雪の甥・次郎兵衛統春の早過ぎる死は、立花家中の誰もが惜しんだという。
■ 華のあと・・・

立花次郎兵衛の死後、その家名が絶えることをうれいた統虎の命で、森下釣雲の三男・統次がその家名を継ぎ、通称・立花三太夫を称した。
三太夫は次郎兵衛の名を辱めることなく、主君・統虎に従い多くの功を挙げ勇将として知られる事になるが、惜しくも、関が原の役の対鍋島戦「八の院の戦い」で壮絶な戦死を遂げている。
初 2002/03/28
改 2005/01/22

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