■ 薦野一族
吉右衛門成家は立花道雪にその才を愛された薦野増時の嫡男で、本姓を「薦野」、後に立花姓を称する。
主・立花宗茂が「正成」を名乗っていた時期に「成」の一字を賜り「成家」を名乗るようになる。妻は高橋紹運の娘である為、主・宗茂の義理の弟という事になる。
父・増時と共に忠功多く、柳河移封後には海津城を任される(?)。
朝鮮の役に従軍し、二万の敵軍と合戦に及び自ら刃を交えて奮戦した折り、左の膝に疵を蒙り一生拐脚となった(?)。宗茂はこの奮戦に対し、金の軍扇をあたえ即座の賞とした。
1600年の大津城攻めでも功を上げ、「如意の甲」と「筑紫月毛」という筑紫広門が宗茂に贈った名馬を賜っている。 |
■ 勇戦・八の院の戦い
関ヶ原で西軍主力敗戦後、柳河に戻った立花宗茂は、九州北部を席巻する黒田・加藤氏、更に東軍に寝返った肥前の鍋島氏と対峙する。
俗にいう『八の院の戦い』である。
成家はこの戦いで、黒田如水の備えとして水田口の守備についていた。
しかし主力苦戦の報を伝え聞いた成家は、独断で八の院に転進、鉄砲・弓をを乱射させて鍋島軍の横合に押し入った。突如の新手の出現に鍋島軍は混乱をきたした為、その間に主力の小野和泉等は軍勢をまとめ無事に退却することが出来たという。
成家はなおも鍋島勢を追撃し、十分に押し返した後に反転し退却にかかった。その時鍋島軍の放った銃弾が成家の頬を射抜き成家は落馬したが、従者・安部惣右衛門がすぐさま駆け寄り彼を担いで退却した為事無きを得た。
戦後この合戦の顛末を小野和泉に聞いた宗茂は、的確な判断で立花軍の崩壊を防いだ成家の活躍が随一であるとし、感状をもって賞した。 |
■ 筑前へ
立花家の改易後は、筑前国に封じられた黒田家に父・三河守増時が招かれた為これに従い四千石を給される。成家は筑前の地で死去するが、彼の子・雅楽助も二十四歳で死去していた為、家督は彼の弟達にそれぞれ分与された。 |
初 2000/05/10
改 2005/01/22 |