■ 立花四天王
道雪が最も信頼し頼りとした腹心中の腹心。彼の「雪下」という号も道雪に因んで付けたものと思われる。道雪の立花城入りに際し、家督を嫡子・惟定に譲り、次男・惟次、三男・惟紀と共に付き従い家老職となる。立花城では十時摂津(連貞)・安東紀伊介家忠・高野大膳亮と共に四天王と称され、雪下はその筆頭を勤めた。
戦場に赴く事六十五回、傷を蒙ける事六十五ヶ所、受けた感状は七十通、一番乗り、一番槍、一番首は数知れずという強者であり、戦場では小野和泉と共に立花軍の両翼を成し、合戦する度に立花家を勝利に導いた。また、博多の統括を任され辣腕を振るうなど軍事・行政に重きを成している。 |
■ 雪下と和泉
立花軍団の片翼を担った小野和泉を道雪に推挙したのは、この雪下であったといわれる。元亀のはじめ頃、大友家の軍目付として戸次軍(当時、戸次鑑連)に仕わされていた小野弾介(和泉)の人となりに感じ入った雪下は、道雪に向かって
「殿が九州に於いて勢力を伸ばし、大友の勢威を振起しようと思われるなら、是非、和泉殿を重用されて下さい。彼のような知勇兼備の者を私はかって見た事がありません。」 |
と言って和泉を推挙した。しかし道雪は
「召し抱えたいのはやまやまだが、彼に与える闕所(けっしょ)がない」 |
といってかぶりをふる。それに聞いた雪下は
「ならば、それがしの受封地千五百石の内、五百石を返上しましょう。これと闕所とを合わせて、彼の知行に当てられて下さい」 |
と申し出たので、道雪は宗麟に願って和泉を貰い受け、禄高千石で召し抱える事が出来たのである。更に、雪下以下の者で家臣投票をして、和泉を家老職に就けるように道雪に進言し許されている。 |
■ 奇・正の軍
ある日、道雪は雪下と和泉を招いて曰く
「軍勢を用いるには、先ず戦法を定め、勇武の勢と共に奇・正の変化をさせるがよい。お前達両名が替わる替わる奇・正の将となって自分を補佐せよ。凡そ戦というものは正法を以って引き分けとし、奇法を以って勝ちとする。それで、正法を行う者は江河のように渇れることがなく、奇法をよく行う者は天地にように無窮である。故に、奇・正両法を用いる者は戦って勝たないという事が無い。それで、今日から両名には正・奇の戦法を取って貰いたい。今日雪下が正軍の将であるなら、和泉が奇軍の将となり、明日はそれを替えるという様にせよ。副将には、薦野三河、米多比丹波をそれぞれ当てよう。」 |
彼が見込んだ通り、和泉は雪下等と心を合わせ軍事・政治にその辣腕を振るい立花家の危難を救うのである。 |
■ 千熊丸 対 雪下
立花家を実質的に束ねる雪下は、たとえ盟友・高橋紹運の嫡子であろうとまったく容赦しなかった様である。
宗茂が「千熊丸」と名乗っていた幼き頃、道雪は立花城に遊びにやってきた千熊丸を伴いある山道を歩いていた。その折、前を歩いていた宗茂の足に栗のイガがささってしまった。と 供の者に言うや、わけしり顔で駆け寄ってきた者がいた。雪下である。彼は千熊丸の足をむんずと掴むや、刺さったイガを抜くどころか、逆に思いっきりねじ込んだのである。驚いた千熊丸は声を出そうと思ったが、後ろに控える道雪がこちらを睨みつけている為、声を出す事ができない。と、道雪と雪下を懐かしんだという。 |
■ 我が一門にて・・・
天正十三年(1585)道雪が筑後の陣中で死去する。死に際し道雪は
「わが遺骸は、甲冑を着せ柳河の方に向けこの地に埋めよ。もし遺言に背くようなら子々孫々まで呪い殺すぞ」 |
と遺言する。雪下をはじめ主だった重臣たちは
「道雪公をひとりこの地に葬れば、名も無き雑兵の馬蹄にかけられる恐れがある。我らも腹を切って供をせん。」 |
と殉死を唱えた。しかし原尻宮内の諌言により思いとどまる。そして雪下は皆に対し
「大殿のご遺骸は立花へお運びもうそう。もしご遺言のごとく祟らせ給うのであれば、わが一門にて引き受けもうす。」 |
と、語ったといわれる。 以後は、道雪の後を継いだ宗茂の傅役とも、後見役ともいえる立場にたって宗茂を助ける。 |
■ 再興。雪降る地にて・・・
秀吉の九州征伐の後、宗茂が筑後国・柳河十三万石の大名になると、雪下は酒見城番家老となり三千五百石を賜る。秀吉による朝鮮出兵の折は、高齢の為留守居を任されていたようである。
「関ケ原の戦い」による立花家改易以後も浪人となった宗茂に従い、他の二十数人の家臣と共に虚無僧や人夫などをして宗茂を養った。
後に、徳川家に許された宗茂は、奥州棚倉の地に大名として返り咲く。最後の奉公をおえた雪下は、立花家再興を見届けた後、棚倉の地にて数年後死去している。 |
初 2000/01/20
改 2005/01/22 |