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■ 高橋家の将 ■
北原 伊賀入道 鎮久
名前
北原 鎮久
読み
きたはら しげひさ
その他の
呼び名
鎮久・能登守・伊賀守(伊賀入道)・加賀守
生没年 (?) 〜 (1580)
死去=天正8年 10月2日
役職 高橋家家老
龍ヶ城城代家老
不明
不明
不明
子供進士兵衛(北原 摂津守 種興 )
補足 
検索用
キーワード
北原 鎮久 能登守 伊賀守 伊賀入道
加賀守 進士兵衛 種興 龍ヶ城

◆ 高橋家最大の功臣にして、最大の逆臣 ◆
北原 伊賀入道 鎮久
■ 高橋家再興

北原鎮久は高橋家の重臣として重きを成した人物であり、紹運に高橋家擁立をさせた第一の功臣である。高橋家の前当主である高橋鑑種が大友家に謀反を起こして敗れた為、豊前国・小倉に移される。小倉に移された鑑種は専横が激しく、鎮久をはじめとする家臣団と不和に陥る。その内、身の危険まで脅かされる様になった鎮久は他の重臣等とはかり、鑑種を見限って一族郎党を伴って白昼堂々と出奔した。一時筑後国に身を潜めた後、つてを頼って豊後国の大友宗麟に名門・高橋家の再興を嘆願する。宗麟は重臣達と協議した結果、老臣・吉弘鑑理の次男・吉弘弥七郎鎮理を鑑種の養子とし、高橋家を継承させる事とした。鎮理は高橋家の通字「種」を付けて「高橋鎮種」を名乗り、その後入道して「紹運」を号する。以後は紹運のもと累代の高橋家家臣団と共に家を守り立てる。
■ 暗転

しかし彼の人生を狂わせる事件が起こる。
高橋家の主家・大友家が「耳川の戦い」で島津氏に敗れたのである。この合戦で筑前国の情勢は一変し立花城以外はすべて敵になってしまう。以後、紹運は反乱分子の鎮圧に乗り出し戦いに奔走する様になるのだが、鎮久は当主にすえた紹運が馬鹿正直に大友家に尽くす様をみて、紹運に不信をおぼえ始める。この頃鎮久は秋月備えの為築かれた龍ヶ城を任されていたが、近頃鎮久が紹運に不信を抱き独立を臨んでいると言う事を伝え聞いた筑前国の大名・秋月種実は、天正八年八月下旬ごろ、彼に使いを出して唆した。
『筑前続風土記』には
「此の鎮久と云ひし者、勇あり共智無く、ただ貪欲無道の者の由秋月種実伝え聞き、天正八年の比、その家臣・内田善兵衛を以って語らひけるは、近日種実大宰府に発向すべし、其方居城・龍ヶ城に此方の人数を呼入置、岩屋の城の裏切せよ、ためらはハ紹運急に滅すべし、其の賞に岩屋の城を遣すべき由言遺す、鎮久元来欲深く義なき者なれば子細無く同心し相図の日を定む」
とあり、欲にかられて秋月に内通し岩屋城の秘密を漏らした。そして鎮久は数日たって岩屋城に赴き、紹運に向かって
「大友家は去る天正六年、日向国・耳川の戦いで敗れて、多くの功臣・宿将を失ったが、大友家の宗麟公は異教を信じ政務を怠り、酒色におぼれて、佞臣を寵愛し背徳をかさね、また其の子義統殿も年少暗愚であり、共に頼りになりません。そのため今では家運も傾き、諸将の離反も相次ぎ、豊後一国すら治める事もままならない有様です。しかしながら、お屋形様は宝満・岩屋両城にあって大友家の藩屏としてよく尽くしていますが、そのため四方みな敵となり、相次ぐ戦いによって家臣はもとより、領民も甚だ疲弊しております。このままでは当家の命運も窮まり、遂には城中餓死するしかなくなってしまいます。どうかその事をよくお考え願いたい。」
と申し出た。話を聞き終わった紹運は
「余は大友の一族である。高橋家の家名を継ぎ、宝満・岩屋の城を与えられたからには、その恩義を戦場で報い、たとえ山野に屍をさらす事となっても、もとより武士の本懐である。どうして二心をもちえよう。」
といって同意しない、そればかりか、逆に不審を抱いて鎮久を問い詰めた。その場はなんとか取り繕い下城した鎮久は、事ここに至って融和に話を進める事をを諦め、紹運の放逐を画策した。鎮久は
「紹運は我々の希望によって高橋家を継がせたのであって、彼の様に機変を知らない者に随従すれば、家は滅亡し家名を汚す事となる。こういう主君を頼るよりは、別に主を見出して取りたてればよいだろう。」
と思い立ち、日頃から昵懇にしている僧・林蔵主にこの計画を打ち明け、彼を使いとして種実との接触を図った。密書を受け取った種実は大いに喜び、事の成就のあかつきは、岩屋城を与えると約束した。
■ 露見

しかし不幸な事に、この密謀が洩れてしまう。何を思ったのか、林蔵主はそののち岩屋城に赴いて、知友の伊東源右衛門にこの計画を打ち明けてしまった。元々源右衛門は鎮久の嫡男・進士兵衛から引き立てられ、鎮久父子に深い恩をもつ者であったが、事が事である為、思案にふけった。しかし、覚悟を決め直ちに登城して、紹運に事の子細を隠さず打ち明けた。紹運は大いに驚いたが、先日の鎮久の言動からうすうす察していた為、早々に鎮久を誅するための策を練った。紹運は密かに、勇士として武名の高い萩尾大学と内山田下野の両名を呼んで、策を授け討手とした。
鎮久は林蔵主が事を洩らした事を知らず、日夜、林蔵主と密議をこらしていた。そして十月一日なにくわぬ顔で岩屋城に登城した。紹運は鎮久と対面して、
「当城に何用があってまいったのか。」
と問うと、鎮久は
「領地の検分のため参上しました。明朝また参上します。」
と言って、しばらくして退城した。翌十月二日の早朝、鎮久が岩屋城に登城して来ると、かねてから申し含められ、通路に潜んで待ち構えていた萩尾大学と内山田下野の両名が飛び出して、
「なんじ鎮久は大胆にも謀叛を企て、主君の廃立を図った不届きな奴、上意により誅伐を加える。覚悟・・・」
と叫ぶや彼の面を斬りつけた。不意をつかれた鎮久は、なんとか飛びのきしのいだが、萩尾大学が鎮久の持っていた槍を奪い、その槍で貫かれ絶命する。(この時鎮久の面を斬った刀は、内山田下野の子孫に伝わり「鎮久斬」と称されたという。)
■ 進士兵衛の弔い合戦

彼の嫡子・進士兵衛は、主君・紹運による父の謀殺を知ると、一族の者たちを集めて父の復讐をしようと決起に及ぼうとするが、舅である今村宗加がもたらした紹運からの書状をみて事の真相を知る事となる。進士兵衛は、父・鎮久の非を素直に認め、改めて紹運に誓書を差し出して、自らを明らかにした。その後、進士兵衛は父を唆した秋月種実を深く怨み、逆に種実を唆して軍勢を領内におびき出し、散々に打ち破って父の汚名をそそいだのである。

鎮久の死後も北原家は、嫡子・進士兵衛の活躍により、その後も変わらず高橋家の家老として重く用いられている。
初 2000/01/30
改 2005/01/22

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