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■ 高橋家の将 ■
屋山 中務少輔 種速
名前
屋山 種速
読み
ややま たねはや
その他の
呼び名
通称=屋山 中務  (屋山 三介)
三介・種速・中務少輔
生没年 (?) 〜 (1586)
誕生=?
死去=天正14年 7月27日、岩屋城にて討死
法名不明
菩提寺 
役職・ 岩屋城代家老
不明
不明
兄弟
不明
不明
子供太郎次郎 (岩屋城にて戦死)
補足
検索用
キーワード
屋山 中務少輔 屋山 中務 三介 種速
高橋 鑑種 紹運 岩屋 宝満

◆ 紹運の活躍の裏で ◆
屋山 中務少輔 種速
■ 形影伴なった主従

屋山種速は通称・屋山中務と称し、高橋家の譜代の家臣であり城代家老をつとめた人物である。高橋紹運の右腕として活躍し、最も信頼され大事にされた家臣である。彼は城代家老という立場から、主に紹運の留守居を任されたが、主力不在の中、僅かな手勢で秋月・筑紫連合の大軍を幾度と無く撃退し、敵方からは
『屋山がいる限り、岩屋城には手が出せぬ。』
と嘆かせた。紹運の活躍の影には、常に中務の働きがあり、中務が岩屋城を堅固に守ってきた為、紹運は後顧の憂いなく戦場に赴くことが出来たのである。
また、元々他家からの養子として高橋家に入った紹運をたて、紹運と譜代の家中の者達の和をはかるなど、常に裏方に徹してその屋台骨を支えた彼は、紹運最大の功臣であり、恩人といえる。
■ 統増親子を救う

天正十三年(1585)、
立花道雪が死去した事に伴い秋月・筑紫連合軍が、高橋統増の篭もる本城・宝満城を奇襲する。不意を衝かれた城兵は、なすすべなく敗退する。この時、支城・岩屋城を守っていた中務は本城の危機を察知し、直ちに軍勢を率いてなんとか統増と紹運夫人を救出することに成功する。帰城した紹運は、岩屋城の健在と家族の無事に胸を撫で下ろし、中務の機転の働きを大いに賞した。またこの功績は大友家からも賞され、感状を貰っている。
■ 主従の紐帯

天正十四年(1586)、
島津軍五万の大軍が大宰府に乱入する。この時、立花家を継いだ長男・統虎(のちの宗茂)は、岩屋城に使者を遣わして篭城の不利を説かせ、宝満城または立花城への退去を進言する。しかし紹運はこれを拒否する。その折、中務は紹運に向かって、
「殿は統虎殿のお諌めに従われて、速やかに立花城にお移りください。当城は今まで私が城代として預かって参りましたので、某一人が踏み止まって防戦し、力尽きた時は城を枕に討ち死に致します。」
と進言した。紹運は、中務の話を聞き終わると、はらはらと涙を流し、
「今に始まらぬそなたの忠勇、この紹運心魂に徹しておる。なれど、そなた一人が死んだとて島津軍は引き上げまい。またそなたのような忠臣をどうして見殺しにすることが出来ようか。」
と言ったので、使者もなすすべなく、紹運のしたためた書状を持って立花城に帰城した。
■ 壮烈岩屋城

岩屋篭城時、中務は百余人を配下に、虚空蔵台の西南の城戸を任される。
七月十四日から始まった合戦は、城兵の奮戦により数十倍の島津軍を圧倒。二十六日になってようやく外郭の砦を攻め破った島津軍は、この砦を起点として城内に攻め込んだ。かねてからの計画通り満を持して待機していた中務は、城兵を指揮して寄せ手引き付けて大石・大木を落としかけ、鉄砲・弩弓を射掛けたので、寄せ手は負傷する者、圧死する者が数百を数えた。そのためさすがの島津軍も辟易として近寄ることがなかった。甚大な被害を出した島津軍は攻撃をいったん中止し、紹運に和議を申し出る。紹運はこの和議も一蹴し決裂したため、島津軍は翌二十七日に総攻撃を決定する。

七月二十七日、
島津軍の総攻撃により城兵の奮戦もむなしく各郭も陥落する。中務も将兵を叱咤して各々が十数人の敵を相手に奮戦し、敵兵を幾人も討ち取ったが、ついに配下の者も数名になったため、いったん二の丸まで退こうとした。その刹那、彼は足を滑らせた途端、折り重なるように攻め寄せた敵兵に遂に討ち取られてしまった。中務の討ち死にを知った紹運は、膝を落として彼の死を惜しむとともに、彼亡き今、岩屋落城の時が来た事を確信させたといわれる。
■ 岩屋城悲話

彼の死には一つの悲話がある。
中務には太郎次郎という十三歳になる嫡男がいた。岩屋篭城の頃はまだ元服前だった為戦いには加えられなかったが、母に無理を言って岩屋城に留まっていた。
落城が押し迫った七月二十七日、
太郎次郎は父・中務が討ち死した事を知ると、少年ながらも父の敵を討たんと太刀を抜き放ち、母の静止を打ち払って押し寄せる薩軍に切り込んだのである。薩軍の将士は、まだ幼い少年が切り込んでくるのに驚き、囲みを開けた。頬を朱に染めて斬りかかってくる太郎次郎を、薩軍の将士は斬るに忍びずなんとか捕らえようとしたが、どうすることも出来ない。その内、手傷を負うものまで現れた為、一人の薩兵が進み出て、せめて苦しまずにと思い立ち、太郎次郎を一太刀に切り倒し止めを刺した。息子の死を目の当たりにした母は、放心状態のまま左右に支えられておちていった。彼女の手には、駆け出す太郎次郎を引きとめようとして掴んでいた片袖が握られていた。彼女は残されたこの片袖を寝ても醒めても眺めつづけ、涙のもとに月日を送ったといわれる。
この太郎次郎の名は、岩屋城戦死者名簿に城兵の一人として記されている。

ちなみに屋山家の子孫の家には、この太郎次郎の「白麻地、藍文」の遺袖がいまなお秘蔵されているという。
初 2000/02/20
改 2005/01/22

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