■ 統虎股肱の臣
世戸口十兵衛は弓術・水練の達人で、その実直な人柄を買われて紹運より、嫡男・統虎(宗茂)の立花家への養子縁組に際し、大田久作と共に随従を申しつけられる。
紹運は統虎との別れの宴を行い、統虎に教訓をたれた後、十兵衛に親しく語りかけ
「いにしえより、「勇将の元に弱卒なし」と云われておる。彼の道雪公は、天下無双の剛将で義理堅固のお方である。麾下に義烈の士はなはだ多い。その方、幼少の統虎と共に立花に行くからには、よく輔け導き、忠言を呈して、勇将の嗣子として恥ずかしくない立派な武人にしてもらいたい。もし、統虎の言動に立花家の信をかくような事があれば、その方はこの刀で自害し、道雪公にお詫びすると共に、統虎に忠諌し悔悟の念をおこさせよ」 |
と言って、その時の為にと九寸五分の短刀を与えた。またこの時、紹運より「紹}の字を頂き「紹兵衛」を名乗ることを許される。統虎に随従して立花家士になった十兵衛は、以後統虎の後見または監視役として仕え、統虎と立花家の家臣団との折衝にあたる。また、長男の身で養子に出された統虎の心情をよく理解しつつ、厳しく接していたようである。 |
■ 関ヶ原役 大津城
慶長五年(1600)
「関ヶ原の戦い」の前哨戦、京極高次の篭もる「大津城攻め」に参戦する。
九月十四日、
落城が目に見えはじめた為、攻城の大将・毛利元康は、高野山の木食上人を遣わして降伏を進めたが、高次はこれに従わない。その時、宗茂は家老の十時摂津に向かって
「この度の一戦は京極殿に対しての遺恨ではない。ただ、故太閤殿下への御恩報いる為である。京極殿が降参されれば、一命は助け様と思う。」 |
と言うと、摂津はと答えたので、宗茂は自筆を認めて、弓の名人である十兵衛に射させる事にした。十兵衛は、
「諸将の兵が注視している中で射損じるなら、自分の恥だけでなく立花家の恥になる。」 |
と固持したが、主君から厳命された為、止む無く引き受ける事となった。十兵衛は宗茂から書状を受け取ると、鏑矢を抜いて、これに堅く結びつけた。丁度、数町離れた城中に、四つ目の旗が一段と高く風になびいていた。宗茂はそれを指差して、と命じたので、十兵衛は静かにねらいを定めて、矢を放った。矢は城中に入って、見事にその旗竿を射切り落下した。この状況を見ていた両軍の将兵は、どっと喝采を上げて暫らく鳴りが止まなかった。そして
「那須与一の扇の的も、きっとこのようであったろう」 |
と、十兵衛を称賛せぬ者はなかったという。この十兵衛の放った矢文を受け取った高次は、遂に九月十四日降参した。きしくも、関ヶ原の合戦の前日であった為、人々は「あと一日守っていれば大国の主と成れたものを」と、揶揄した。 |
■ 自決、宗茂の嘆き
十兵衛の最後は、あまりにも呆気ない。
関ヶ原で主力の敗戦により、西軍は空中分解し、宗茂も領国・柳河に引き上げる事となった。船で長門国・壇ノ浦に差し掛かった頃に、嵐に襲われ、弓組・三十余人が乗っていた小船が風に煽られて転覆してしまった。辛うじて、近くの海岸に泳ぎ着いたのは、組頭の十兵衛と従者一人だけであった。十兵衛は生き残った従者に
「殿の頼みとする屈強の勇士達を悉く死なせてしまった。自分一人、なんの面目があって帰ることが出来よう。自分は腹を切ってお詫びする故、そなたはその事を殿に伝えよ」 |
と言って、従容として切腹し果てた。
無事に柳河に帰りついた従者に、股肱の臣・十兵衛の最後を聞いた宗茂は、深く悲しみに沈んだという。 |
初 2000/03/01
改 2005/01/22 |