近現代史概要
**幕末編
幕末と開国
18−19世紀の国際情勢
欧米で16−17世紀に成立した絶対主義王政(封建諸侯と勃興する商業資本家との勢力均衡のもとに成立)が市民革命で崩壊、近代市民社会が形成、産業革命で資本主義的生産が発展
資本主義は本質的に原材料供給と製品市場を求めて外部に進出する
イギリスはインド・中国(アヘン戦争)、フランスはインドシナを支配下におく
一方インドでのセポイの乱、中国の太平天国の乱等民族主義的反乱も惹起せしめたことで
植民地経営が存外高く付くことを経験、対日政策が比較的柔軟になった事は
日本が植民地化を免れた大きな要因である
1792年 ロシア・ラクスマン、1804年 ロシア・レザノフ来航、1808年イギリス・フェートン号事件
1811年 国後島に上陸したゴローニン官庁を捕縛
1825年 頻発する外国船の接近・上陸(通商が目的だったが、北方領土問題にも繋がった)に
無二念打払令
1842年 アヘン戦争の脅威を見て 打払令撤回軟化、逆に洋式軍隊訓練・砲術等学ばんとする
一方 すでに 洋学(蘭学)の翻訳・研究も進んでいた
1811年 蕃書和解御用設置。1823年 シーボルト鳴滝塾→高野長英、
1838年 緒方洪庵・適塾→橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、佐野常民
蘭学は自然科学や軍事技術等の実学として幕府も保護したが、
その合理的精神が幕府批判につながると、直ちに弾圧した(モリソン号事件、蛮社の獄)
1853年 ペリー来航(砲艦外交で開国を迫る) ロシア・プチャーチン長崎来航
1854 日米和親条約(勅許を待たず、下田・函館港に限り薪水・食糧を供与)
老中・阿部正弘の“安政の改革”(水戸・徳川斉昭、越前・松平慶永、薩摩・島津斉彬等雄藩と積極的に提携、人材登用、蕃書調所・海軍伝習所等西洋技術導入)
将軍継嗣(一橋慶喜・紀州徳川慶福)問題も絡んで、
雄藩連合と幕閣(譜代大名等)との派閥争い高まる
1858 大老・井伊直弼は徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に決定、勅許なしに日米修好通商条約締結
(英・露・蘭・仏を併せ5カ国条約、横浜・長崎・函館で自由貿易・領事裁判権承認
・関税自主権喪失・片務的最恵国待遇等不平等な条約、総領事・ハリス)
孝明天皇、雄藩の反対を押し切っての調印→尊皇攘夷運動の隆盛
→老中・安藤政信は公武合体運動
幕府や西南雄藩は洋式工業の移植に注力(長崎製鉄所・横須賀製鉄所・伊豆韮山反射炉・薩摩集成館・佐賀造船所等や幕府の洋学所(開成所)海軍伝習所等)
輸出増大で製糸業等にマニュファクチュア的経営も発展したが特権商人・農村に打撃、
金の大量流出で物価騰貴→下級武士の尊皇攘夷運動過激化、外国人殺傷事件(ヒュースケン暗殺、水戸藩士の英公使館襲撃、生麦事件、長州藩士の英公使館焼き討ち等)
庶民層の“ええじゃないか”運動や“打ち壊し”等“世直し一揆”も頻発
平田篤胤一派(国学)
→尊皇は攘夷と一体になって幕府批判→安政の大獄(徳川斉昭、一橋慶喜等の処罰、橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎らの処刑)→桜田門外の変(水戸藩士の井伊大老暗殺)
1862 公武合体派・島津久光(寺田屋事件で尊皇攘夷派弾圧)の圧力で“文久の改革”
(慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職、松平容保を京都守護職に、大名統制緩和、
攘夷決行日の公約)
1863 8・18政変(攘夷の急先鋒として朝廷内にも勢力を蓄えてきた長州が
下関戦争等で攘夷の不可能性を悟り、倒幕を主目的に転換
しかし孝明天皇は堅固な攘夷家、そのズレを利用した薩摩・会津が朝廷から尊王攘夷派を一掃せしめた)
尊皇攘夷派挙兵の失敗(大和・天誅組、但馬・生野の変、水戸・天狗党の変、長州藩・禁門の変)
第1次長州征討、長州藩では高杉晋作ら反幕過激派が65年クーデターで主導権、奇兵隊結成
1866 第二次長州征討令に
すでに土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎の周旋で“薩長同盟”
(坂野潤治先生は西郷の攘夷を棚上げにした倒幕合従連衡策とする)を結んでいた西郷は出兵拒否、倒幕の意を鮮明にした
坂本龍馬:人の出会いを組み立て、市場の求めるものを創造するのが“近代経営”の要諦。
司馬遼太郎先生は、この勃興期資本主義の”申し子”のような若者・坂本龍馬をこよなく愛でた。
総合商社の先駆け土佐“海援隊”を創設した龍馬は、長州と薩摩を結びつけ“船中八策”で新政府“公議政体”の骨組みを企画、
閣僚名簿まで作成したが、自らの名は書き連ねることはなかった
龍馬には官位よりも、交易の旗を掲げ海外に雄飛する熱い夢があった
しかし程なく幕府・見回隊?の手で暗殺、
もし彼が凶刃に倒れること無ければ、後の西郷・大久保の離反を調停、西南戦争が無く西郷が生きて居れば
アジア侵略の無謀な冒険を阻むことが出来たかも知れない?
歴史にIFを言っても始まらないが、一つの無分別な”殺人”が”暗黒の歴史”を生んだ可能性もあると思うと”肌寒い”
攘夷は棚上げされ、ついに朝廷は条約勅許、
薩摩の仲介で英国から入手した新式武器を装備した長州軍が圧勝
歴史の歯車は倒幕に向かって大きく転回した
英公使・バークス(薩英戦争(生麦事件)は反って薩英を親密にしていた)は倒幕軍を支援
仏公使・ロッシュは英に対抗して幕軍支援、
1867 公議政体論の土佐・山内豊信の建白で幕府は大政奉還、公議政体での筆頭勢力保持を狙う
しかし西郷は慶喜を許さず(倒幕の密勅は偽勅?)
王政復古(江戸幕府滅亡)の大号令
新政府発足(総裁・有栖川宮熾仁、議定・三条実美・親王・公家・薩摩等5藩主、
参与・岩倉具視・大久保・西郷・木戸・後藤象二郎・大隈・副島)
小御所会議(公議政体論に基づく諸藩代表者会議)で慶喜に辞官納地を要請して排除
資金面は三井・小野等豪商に頼る
1868 明治元年(明治維新)
鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争
江戸城無血開城(勝・西郷の活躍、しかしここに至るまでの西郷の挑発戦術は頂けない)
上野・彰義隊の戦い
会津戦争(奥羽越列藩同盟軍)
五稜郭の戦い(榎本武揚、土方歳三)
幕末期 虎視眈々と日本を狙う国際情勢
NHKスペシャル 下記の詳しい”まとめ記事”が重宝
新・幕末史 第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機 新・幕末史 第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機 - NHKスペシャル - NHK
新・幕末史 第2集 戊辰戦争 狙われた日本 新・幕末史 第2集 戊辰戦争 狙われた日本 - NHKスペシャル -
NHK
**** 維新の逸材
吉田松陰(長州)門下
四天王 久坂玄瑞 禁門の変で没
高杉晋作 奇兵隊組織 病没
吉田稔麿 池田屋事件で没
入江九一 禁門の変で没
伊藤博文
晋作の腰巾着?となって”イギリス公館焼き討ち”参加、22歳のイギリス遊学で開眼、44歳で初代内閣総理に、
与党・立憲政友会を創設、板垣憲政党も吸収、天皇中心の大日本帝国憲法を実質起草、明治第一等の人材、元老となって西園寺公望を後援
山県有朋
内務大臣・陸軍大臣・総理大臣・元老を歴任、晩年日清戦争では司令官として自ら朝鮮に渡る
1909年の伊藤博文の死後には軍の巨頭として元老内の最有力者、政党政治に対抗する官僚政治の親玉として、桂太郎・清浦清吾・寺内正毅内閣等の生みの親
前原一誠 萩の乱で処刑
岩倉具視 勤王公家
三条実美 勤王公家 維新で右大臣
勝海舟 幕臣
西郷隆盛―桐野利秋 薩摩
大久保利通―黒田清隆 薩摩
木戸孝允 長州
板垣退助―後藤象二郎 土佐
江藤新平 肥前佐賀 佐賀の乱に散る
松方正義 薩摩(財政家) 総理、松方財政
大隈重信 佐賀(大蔵郷として大隈財政、外務大臣、内務大臣、早稲田大創設)
明治14年政変で伊藤に追い出されたが、立憲改進党を組織、板垣・憲政党と連合して初の政党内閣組閣
大隈死後ではあるが、反政友会諸派連合した立憲民政党が立憲政友会と並ぶ二大政党時代(1925−31年)となる
桂太郎 長州 山県の腹心、日露戦争勃発時の総理
西園寺公望 公家の出、伊藤の腹心、政友会総裁を継ぎ内閣総理、
老いては“最後の元老”として天皇を補弼、首相選定に関わる
井上馨 長州 伊藤の朋友 維新政府の閣僚を歴任したが、第4次伊藤内閣崩壊で大命降下したが謝辞
井上毅 肥後熊本 明治政府・伊藤派官僚として大日本憲法、皇室典範。教育勅語、軍人勅諭等
起草に参画
原敬 盛岡出身のメディア言論人