日本近現代史

  
 まことに物騒な世の中、”戦争はどのようにして起こるのか?”をテーマーに日本の近現代史”を
   纏めてみたくなりました
   こんな事を考える事自体、昔”非国民”今”反日”の誹りを受けそうですが
   日本を愛する事、人後に落ちないつもりです
   愛すればこそ、”今生のなごり”に素人爺さんが恥を省みず、書き記して見ました
      
   割愛した文化・精神史を引き続き纏める積もりです
     ”戦争”が起こる歴史を振り返る事で、一旦戦争に踏み込めば、
   如何程平和を求めても(天皇でさえ)その勢いを止めがたいことを明らかにした積もりです
   しかし、それだけでは問題は解決できないようです
   向こう見ずの国から、かっての中国のように攻め込まれたらどうするか?
   そこから”丸腰では駄目だ、軍備を拡大せよ、先制攻撃も有り”の意見が専らです
   (防御と攻撃は、それほど明瞭に区別できません、ロシアのウクライナ侵略もロシア側からすれば
   防衛戦争なのでしょう、”台湾有事”となれば、日本の防衛のため台湾出兵?そうなれば否応なく”平和のための戦争”
   に巻き込まれます。
   ”もっと軍備を拡張すれば、相手は攻めてこない”という戦略は、これだけ国土の狭い国に成り立つでしょうか?
   ”絶対使わない核兵器”と国民には約束しても、対外的には”使うぞ!使うぞ”と脅さなければ意味が無い
   相手が先制攻撃してきても、持てる兵器で報復しなければ、国民も納得しなかろう。
   どうすれば戦争を阻止出来るか?”軍事戦略・技術に全くの素人ですが
   稿を改めて考えてみたいと思います    (2023/2)

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幕末
西暦 出来事 解説
1842 清国・アヘン戦争
1853 ペリー来航 ペリーの目的は中国交易船や捕鯨船の寄港地を日本に求めた
ロシア・プチャーチン来航
1854 ペリー再来して、日米和親条約調印 キリスト教流布を恐れて鎖国体制にあった幕府は開港を拒んで打ち払い等と慌てたが、結局ペリー砲艦の脅しに負け、下田・函館開港、総領事ハリス設置
吉田松陰が密航に失敗、萩の野山獄に投獄
1855 堀田正睦・老中首座に 斉昭から”蘭癖”と言われたほどの開国派、将軍継嗣問題で家茂支持から慶喜に乗り換え、井伊の大老就任で罷免された
安政の大地震で藤田東湖圧死 東湖:会沢正志斎と並ぶ水戸学の大家、藩主・徳川斉昭の腹心、国学を取り入れ尊皇を絶対化、松陰等尊皇攘夷派の思想的基盤
1856 蕃書調書設立
アメリカ総領事ハリス着任
吉田松陰松下村塾開設 門人から高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、伊藤博文、山県有朋、前原一誠等の逸材を輩出
将軍継嗣問題表面化 病弱な13代将軍・徳川家定の跡継ぎ問題
南紀派(井伊直弼はじめ多くの幕臣・大奥が推挙した紀州・徳川慶福、後の家茂
一橋派(徳川斉昭・松平慶永、島津斉彬、山内豊信、伊達宗城等雄藩藩主が押した水戸の一橋慶喜
1857 下田条約調印
老中・阿部正弘死去 1945年27歳で水野忠邦に代わって老中首座、島津斉彬・徳川斉昭・松平慶永ら諸大名とよく交わって意見を聞き、勝海舟、川路聖謨、ジョン万次郎、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆ら新進の幕臣を登用
講武所(後の陸軍)長崎海軍伝習所(後の海軍)洋学所(後の東大)設置
西洋砲術推進、大船建造の禁緩和等幕政改革(井伊直弼には嫌われたが)
ただ自分の意見を言うより聞き上手
ペリーの邂逅要求にも朝廷・諸大名を招集意見を求めたが
結果的に幕府の権威を弱め、雄藩の発言力、朝廷の権威強化につながり
衆議を求めることが裏目になった
1858 井伊直弼・大老就任
日米修好通商条約調印
次期将軍は徳川家茂(慶福)に決定
 
安政の大獄
 
大老・井伊直弼、勅許を待たずに、米の有利な不平等条約締結
外国嫌いの孝明天皇強硬な反対に島津斉彬(西郷の師)・松平春嶽ら幕閣や水戸藩士等が”尊皇攘夷”に立ち上がる(家茂対慶喜の将軍後継問題も絡んで)
井伊の反撃・安政の大獄、西郷隆盛、徳川春嶽、一橋慶喜、橋本左内、吉田松陰(門弟に高杉晋作・桂小五郎)らが処刑や謹慎刑に
慶喜派にして西郷の後ろ盾・英明な島津斉彬没 斉彬のもと慶喜擁立で奔走してきた西郷にとって衝撃だった、近衛家と親しい勤王の僧・月照と入水心中を図る
1859 薩摩実質藩主・久光に嫌われた西郷隆盛 奄美島に流される 西郷・久光不仲の遠因はお由羅騒動(先代斉興の嫡子・斉彬と側室お由羅の子・久光との後継争い、勿論西郷は斉彬派、斉彬は久光に殺されたと思って久光を憎む
1860 水戸浪士による井伊暗殺(桜田門外の変)
皇女和宮・新将軍家茂に降嫁
1862 和宮降嫁をすすめた”公武合体派”老中・安藤信正暗殺未遂(坂下門外の変)
京都市内に”天誅”(白昼テロ)横行
寺田屋事件(久光が同藩勤王志士を粛正)
西郷、一旦戻されたが再度徳之島・沖永良部島の配流
島津久光・公武調停の意見書    
島津久光(挙藩勤王論)率兵上京  幕府に攘夷を迫り、慶喜を将軍後見職・松平慶永(開国派)を政事総裁職に
坂本龍馬、久光の上京を勤王義挙と誤解(実は幕政改革が目的)
自身も勤王に立ち上がるべく脱藩
久坂玄瑞、高杉晋作らと交流、松平春嶽に拝謁、勝海舟を紹介され、勝の神戸海軍操練所建設計画に賛同して奔走
勝の取りなしで脱藩の罪は赦免された
土佐藩は、一橋派の容堂が安政の大獄で隠居、吉田東洋(公武合体派)を中心に幕政改革中
龍馬の朋友・武市半平太が上京、久坂玄瑞ら血気の勤王志士と交わり帰藩、土佐勤王党を結成、龍馬も参じていた
久光帰途・生麦事件(行列に立ち塞がった英人を殺傷)幕府が損害賠償に応じたが薩摩に謝罪の意思なし、薩英戦争の因となる
会津藩主・松平蓉保、京都守護職に
長州藩士の英公使館焼き討ち(高杉晋作・久坂玄瑞・井上薫・
伊藤博文等)
長州藩は実権者の開国派(航海遠路策)長井雅楽が失脚、吉田松陰門下の攘夷派久坂玄瑞らが実権を握り、藩論が攘夷に大転換
1863 薩英戦争(以後 薩英は接近)
8.18の政変(会津・鳥取・岡山・徳島・米沢藩等の諸藩が宮廷クーデター、攘夷派公家と長州を追い出す)
家茂上洛、孝明・攘夷派公家を前に攘夷の期限を約束させられる 攘夷派の言う”攘夷”とは
条約の破条約の破棄、外国船の無差別攻撃、外国人の殺害
長州藩、外国船打ち払い断行  高杉晋作”奇兵隊”結成
京都守護に”新撰組”誕生
大久保達の嘆願で、西郷赦免帰藩
天狗党の乱 水戸の尊皇攘夷派、慶喜を頼って京に出ようとしたが壊滅、水戸藩は人材の大半を失い、維新の恩恵に浴せなかった
1864 池田屋騒動(京都を守護する慶喜配下の新撰組が長州藩士を襲撃)→長州の反撃・禁門の変に長州敗北→
第一次長州征伐
(薩摩は幕府軍、薩長関係は行き詰まった)  
禁門の変で長州は朝敵の冤罪を着せられる、幕府軍の両頭、薩摩と会津は長州軍を猛攻、
帰藩の西郷も前線指揮官として長州を大いに責め立てた、長州が薩摩を恨むのも当然か?
佐久間象山、過激派に斬殺さる 儒学・洋学・兵学・砲術にすぐれた松代藩士、私塾”五月塾”には勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬などが入門
又老中・阿部正弘に”急務十条”を奏上して海防を説く、思想は公武合体・開国論
四国連合の下関砲撃に長州大敗 圧倒的な戦力差を見せつけられて、長州は攘夷の不可能な現実を悟ることになる
西郷・勝海舟会談 幕府内開明派の勝は大久保一翁・横井小南及び政事総裁職松平春嶽、
薩摩家老小松帯刀らと信頼関係にあった
お互いの誠意と非凡をぶつけることで、西郷は薩長関係打開の糸口を見つける事が出来た、また土佐の偉材・坂本龍馬を紹介された
1865 土佐勤王党・武市半平太処刑さる
坂本龍馬、薩摩の支援で亀山社中設立
1866 坂本龍馬の仲介で薩長同盟成立(倒幕を目指す志士間の横断的結合がなった)
長州征伐は薩摩が応じず中止
薩長同盟は維新成功の最大のキーポイントだった
坂野潤治先生は
佐幕開国論→公武合体派(体制内改革派)対 攘夷論→尊皇攘夷派(長州を中心とする体制外改革派)の対立を
西郷隆盛の”合従連衡論”(久光の嫌う他藩有志との横断的結合)が、開国・攘夷の対立を棚上げにしての”倒幕”への”合従連衡”を切り開いたと絶賛する
ただ 長州・桂小五郎もすでに4艦隊下関砲撃で、”攘夷”が不可能だと思い知らされていた
西郷も龍馬も”攘夷”の非現実を知り抜いていた
だから同盟締結への難局を切り開かせたのは、理屈・戦略眼よりも、桂小五郎をして”禁門の変”での恨み辛みを水に流して薩摩に手を差し伸べるに至らせた、西郷の人格と実行力によるところが大きい
また龍馬の同盟締結への情熱と現実的提案も大きい
その辺りの分析は司馬遼太郎先生の描写が素晴らしい
また西郷の人格と行動力は島津斉彬とともに広げた人脈によって培われた
(越前松平春嶽・土佐山内容堂・宇和島伊達宗城・肥前鍋島閑叟・尾張徳川慶勝ら先見の雄藩の藩主
及び岩瀬忠震・川路聖謨・大久保忠寛・江川太郎左衛門・高島秋帆・勝海舟ら海外事情に詳しい幕臣や藤田東湖・佐久間象山ら知の巨人達)
その意味でも封建制のもと藩の独立経営に携わった雄藩藩主や開かれた知性が維新を成立させた大きな要因だったと言えよう
坂本龍馬、寺田屋で幕吏らに襲撃される
幕府は第2次長州征伐を宣言するが、薩摩が応じず中止
徳川家茂病没して慶喜14代将軍
攘夷佐幕派の孝明天皇崩御
1867 亀山社中、土佐藩の支援で海援隊に改称
龍馬の”船中八策” 明治政府綱領と酷似、実質的原本と見なされていたが、近年では”出来すぎた”創作話と言われている
中岡慎太郎、土佐藩の支援で陸援隊結成
慶喜、朝廷に大政奉還奏上 四候会議(薩・越・土・宇)薩土盟約→慶喜は 大政奉還を申し出たが、西郷ら強硬派は更に”辞官納地”を迫って王政復古のクーデター(慶喜としては将軍職を辞しても公会議議長として実権を握り得るとふんだのだろうが)
朝廷から倒幕の密勅(偽勅?)
坂本龍馬・中岡慎太郎が見廻組に襲撃され暗殺される
1868 王政復古の大号令 
三職(総裁・議定・参与)設置
五箇条ご誓文 
戊辰戦争(鳥羽伏見の戦いに至るには些か西郷らしからぬ挑発があった)
江戸城無血開城(勝・西郷)
奥羽越列藩同盟結成
上野戦争(官軍対彰義隊)
会津戦争(官軍対会津藩)
明治改元