近現代史概要

**明治編まとめ

明治編まとめ 目次
明治史年表
明治維新
明治維新をめぐる論争
太政官制
大久保利通の有司専制による中央集権統一国家構想
近代化
廃藩置県 1871年
岩倉欧米使節団 1871年
明治6年政変 1872年
参考図:初期“政党の変遷”
”台湾出兵” 1874年
西南戦争 1877年
大久保→伊藤博文・大隈重信・井上馨 1878年
明治14年政変 1881年
松方デフレ  大隈に代わった松方正義のインフレ退治 1882年
伊藤博文=山県有朋の政治帝国憲法・内閣制・帝国議会・天皇の軍隊
*伊藤制定内閣制度の欠陥:内閣がくるくる替わり、弱体政府になった理由
大日本帝国憲法 1889年
政党政治 1890年 第1回衆議院議員選挙(制限選挙)
対外折衝
日清戦争 1894年勃発
日清戦争勝利の余波
日清戦争から日英同盟、日露戦争への流れ
桂園時代
満州経営と韓国併合
参考:明治維新 18581881 坂野潤治+大野健一 抜粋
参考:明治維新という過ち 原田伊織 抜粋
参考:司馬史観という過ち 原田伊織  抜粋
参考:未完の明治維新 坂野潤治 抜粋

明治維新 1868              目次に戻る

兎にも角にも日本は”明治維新”を成し遂げる事で、欧米列強による植民地化の危機を乗り切り独立国家を維持、アジアの先頭を切っての”近代化”に成功した

維新成功の要因は何か

@江戸時代すでに貨幣経済・商品経済が発達

a.封建的身分制的分権国家の矛盾が露呈

b.特に西南雄藩は藩内の殖産興業・富国強兵に成功、維新後政府の殖産強兵策の基礎を形作っていた

又幕末商品経済のめばえの中で頭角を現した”豪商・豪農”は維新後の”資本家”に育っていった

A江戸時代の高い識字率・文化教育水準は国学・蘭学の発展と結びつき

維新の主体になった下層武士の識見・能力・高い志を育て、彼らをいち早く自閉的”攘夷”から開かれた”独立国家”に方針転換せした(敵は外圧よりも封建的身分制国家と認識して倒幕)

又維新後は実学的欧米文化を拒絶反応する事無く素直に受け入れ、良質の労働者を確保する事が出来た

B維新期、日本に対する欧米列強の外圧は”植民地化政策”と言うより”貿易主義”であった

世界の工場として地位を揺るぎなきものとしていた英国はインドではセポイの乱、対中国では

アヘン戦争、アロー号事件更には太平天国の乱による民族抵抗に手を焼き、植民地経営より貿易主義への自省を余儀なくされており、一方ドイツ・イタリアも民族独立、日本の“革命”にとって非常に恵まれたタイミングだった。イギリス対長州の“下関戦争”、薩摩の“薩英戦争”さえ、藩士達の国際認識を深め、“攘夷”から自立した“開国”へ変換の切っ掛けの“肥やし”となった。

C維新の志士たち(長州の桂小五郎・高杉晋作、薩摩の大久保利通・西郷隆盛、土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎ら)は元々藩をスピン・オフした人物だったが、彼らの能力が藩を動かし、個人の力量を雄藩に生かし切る事で倒幕革命を成し遂げることが出来た

D  列強外圧による危機感が維新政府による中央集権国家建設を急がせた

 

a武士階級を自己否定し天皇を頂点とする中央集権官僚国家

@五箇条の御誓文A五榜の掲示B政体書

第一に公議世論の尊重(万機公論に決すべし)が説かれ、政体も一応三権分立である

三谷太一郎先生は日本では伝統的に“議論による統治”を重視してきたと言う(日本の近代とは何であったか)

確かに聖徳太子17条憲法以来の事であり、幕府も北条執権政治も合議政体、三権分立どころか様々な役職も二頭体制となっていて、権力の均衡統制が図られてきた

しかし“議論による統治”には当然問題がある

一つに衆議に図っていては物事が決まらない(例えば増税できなくて財政破綻)

一つに責任が不明確になる

結果 過激な”大口”だけが咆哮、下から上まで無責任な”忖度合戦”、”空気”が支配、最高責任者”天皇”までが無限抱擁の”空”になった
日本版ファシズムの”無責任体制”形成の仕組みを丸山真男先生が見事に論証した
    現代政治の思想と行動  丸山真男  未来社


b.廃藩置県

c.徴兵制による国家の軍隊創設

d.殖産興業と富国強兵

 

明治維新の性格をめぐる論争          目次に戻る 

私の学生の頃は未だ昭和初期に論争された“日本資本主義論争”は残存していた、

 “講座派”の“半封建”論をなぞって、“半従属”論は、日共系の反米安保戦略の一部を形成していた

講座派  野呂栄太郎をはじめとして、日本共産党系、コミンテルン

半封建主義的な絶対主義天皇制の支配を強調して、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化を主張(マルクスの「原始社会→奴隷制→封建主義→資本主義→社会主義」という歴史発展五段階の法則に基づき、先ずは天皇制打倒による“二段階革命”を戦略とする

労農派  社会党系

明治維新を不徹底ながらブルジョア革命と見なし、維新後の日本を封建遺制が残るものの近代資本主義国家であると規定し、したがって社会主義革命を行うことが可能と主張

更に封建論争、地代論争、新地主論争、マニュファクチュア論争、民法典論争本質論論争等に発展

要は先ずはブルジョア革命からか(講座派=共産党)一挙に社会主義革命を行うか(労農派=非共産党)の革命戦略に関わる論争

講座派の重鎮、井上清先生

“廃藩置県とそれにつづく統治制度の大改革により、天皇を唯一最高の権力者として、また神的権威としていただき、中央・地方を一貫する完 全な中央集権の官僚制と、国民徴兵による常備兵制とをもって、全日本をすみからすみまで統一的に支配する新しい国家のしくみ、すなわち近代天皇制が確立さ れた”

確かに維新政府による中央集権は確立されたが、天皇の立場は“絶対王”と称されるほど強かったか?

例えば後に見る征韓論争について、“西郷の朝鮮派遣”を一旦認可しながら、大久保が帰国して反対すると唯々として撤回(“綸言汗のごとし“じゃないの?)

太平洋戦争開戦の詔を発していながら、“朕は開戦に反対だった”(天皇にして意思を通せなかったのか?)

確かに明治維新をブルジョア革命と言うほど、ブルジョアジーに力が有った筈が無い

しかし維新政府によって庇護育成されたブルジョアジーが維新政府を倒すはずが無い、期待しても無駄

では明治はどの様な“レッテル”がお似合いか?“国家資本主義”とでも呼ぼうか?

資本主義は多様(特に後進資本主義国家では)、今の中国だって立派な?“資本主義”国家だ

弾圧によって論争が打ち切られたのは気の毒だが、

素人目にも“講座派”理論は、“民族統一戦線”の幅を広げるための戦略っぽい

戦後の“維新論争”は

維新成立要因として、外圧の”ゆるみ”を重視するか、国内の資本主義的成熟を重視するかで下記の論争がある

明治維新 歴史論争

維新期の世界環境をめぐって2つの論争が闘われた

遠山・井上論争

遠山氏は維新期外圧の性格が”貿易第一主義”であった事を強調した、一方井上氏は”植民地化の危機”ととらえ国家意識・民族意識の高揚を評価した

(その後遠山氏は井上氏よりに修正)

遠山・芝原論争

遠山氏は資本主義化した日本、列強の半植民地化した中国を比較

その岐路は1850−60年代(維新期)ではなく日清日露戦争期、世界が帝国主義段階に入ろうとした時点とした

維新期には外圧に”若干のゆるみ”が見られ、民族国家創出と資本主義化の可能性は失われていなかった(中国・洋務派と大久保の政策は本質的に同一)

対して芝原は維新期の日本が独立への道を歩めるに足るだけのブルジョア的意味での民族的力量を中国やインド以上に備えていた事を評価した(中国洋務派=買弁的、大久保=国権的と区別)

いずれにしろ日本は幸いにも”植民地化競争”の間隙をぬって、資本主義と帝国主義のモデルを欧米から導入する事で近代化の遅れを取り戻す事が出来た

内的要因と外的要因の交錯の中で日本の栄光と苦悩の歴史が始まった

太政官制  目次に戻る

大まかな流れは 大久保専制での近代化→西南戦争等士族の反乱→伊藤博文、大隈財政、松方財政

→民権運動、政党形成、財閥の成長→太政官制から内閣制へ、大日本憲法、帝国議会

 いっきに学び直す日本史  安藤達朗  など参照

81306024002024.jpg (810×747) (kotobank.jp)より 

維新の新政府の政体・太政官制は古代律令国家の統治体制への復帰で有ったが、

(天皇親政を補佐するものとして有栖川総裁、議定として三条実美他親王・公卿・薩摩他5藩主、参与として岩倉具視・大久保部・西郷・木戸・後藤・大隈・副島らが任命された)

1868年版籍奉還とともに上記のごとく整備された

太政官は左右大臣・大納言・参議で構成され、その下に民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の6省を置く

(太政官に並立されていた神祇官は格下げ、太政官特に倒幕に貢献した下級武士・参議に権力が集中、実質藩閥政府)

旧藩主は知藩事に任命(封建領主から天皇親政を補佐する官僚へ)されたが家禄は1/10に、中央政府の要職からも退けられた)

更に1871年には薩長土3藩の藩兵をもって、御親兵に改変、廃藩置県が断行され、一挙に中央集権体制が作り上げられた

欧米列強の圧力のもとで国家を維持するには中央集権と、基盤となる忠実な国民の育成が急務で有った

目指すは“殖産興業”と“富国強兵”による“近代化”

近代化の模範を求めて

1871年  岩倉具視を全権大使として木戸・大久保・伊藤博文達政府の主要メンバーとする岩倉遣欧使節団派遣

1873年  西郷ら留守政府によるの“征韓論”の高まりに急遽帰日を余儀なくされたが

“土産”は封建的諸制度撤廃・封建的身分制度改廃等“開明政策”の推進

1872年  国民皆学をめざした学制改革

1873年  国民皆兵への徴兵制導入(山県有朋が主導)

1873年  地租改正(土地売買の解禁、土地所有権確立で地主の地位が保証されたが金納による租税負担)等  近代的諸制度採用

鉄道・電信・鉱山・造船等に官営事業創設、富岡製糸場など紡績・製糸の模範工場で殖産興業推進

(上からの資本主義であったが、やがて官営工場払い下げを受けた三井・三菱等豪商が財閥に成長していく)

主導したのは盟友・西郷隆盛と明治維新を成就しながら、明治6年政変(征韓論争)で西郷を追いやり、1873年殖産興業と民政を総括する内務省を新設、自ら内務郷におさまり大久保独裁とまで称された大久保利通だった

(常に戦場にあった西郷に比べ、大久保は岩倉具視等に密着、朝廷工作にすぐれ、常に天皇を奉り神格化、王政復古大号令も主導した、薩摩人には余りウケが良くないが、近代化主導のみならず“天皇の補佐人”としての日本の政治家・官僚の筋道を作った人でも有る)

しかし 大久保は 1877西南戦争で西郷を葬った後、翌年紀尾井坂で暗殺さる

財政面で殖産興業を主導したのは佐賀藩出身の大隈重信だった

(西郷らが下野した1873年大蔵郷に、大隈財政=インフレ志向)

1871年 新貨条例(金・銀複本位制)

1872年 国立銀行条例制定 翌年、大蔵官僚から実業界に転身した渋沢栄一が中心になって第一国立銀行設立

1876年 不換紙幣発行が認められる、折しも西南戦争の出費需要で不換紙幣を乱発する国立銀行(国法に基づく銀行の意で民間資本)が乱立した→インフレ

財閥は政府財政や要人の懐をサポートし、政府は財閥を儲けさせる、ウィン・ウィンの関係は

今に始まったことでは無い

ただ個人的な贈収賄は時に致命的政争の具とされる

1881年大隈が罷免された明治14年政変は、

薩長閥に対抗して国会早期開設・議院内閣制を主張する大隈とドイツ流専制的立憲制を考える岩倉・伊藤らとの対立が主因で有るが

薩摩閥・北海道開拓使長官黒田清隆が初期投資1400万円の官有物を薩摩の政商五代友厚に39万円で払い下げた事件を大隈が告発した事に端を発する。

背後に大隈の金づる三菱閥(岩崎弥太郎)と 薩長閥、伊藤博文らに密着する三井閥や渋沢栄一らとの熾烈な戦いがあった(資本間の競合こそが近代化のエネルギーだから仕方ないことじゃなかろうか)

大隈下野の後を受けたのが薩摩・松方正義(松方財政=デフレ志向)

インフレの収拾が松方の課題だった

緊縮予算と物品税新設等で歳入を増加、不換紙幣の回収整理、1883年国立銀行の紙幣発行権を取り上げ、1882年に設立した日本銀行に兌換銀行券発行を独占させた

通貨が安定、輸出増大、日本鉄道会社・大阪紡績会社等、投資ブームが再来した

政商も財閥に成長した

三井  1876年  三井銀行・三井物産設立

三菱  土佐藩に密着して主に海運従事、1877年西南戦争では兵員・物資の輸送で巨利を得

三井系郵便汽船会社も吸収、1885年日本郵船に、又官業払い下げでは長崎造船・高島炭坑なども獲得

***

渋沢栄一


http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/shokai.html より 

近代日本経済の父といわれる渋沢栄一は天保11年(1840)深谷市の血洗島の農家の家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けました。7歳になると隣村のいとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。

 20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取り・横浜外国人商館焼き討ちを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました。

 一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れることができました。明治維新となって帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府に仕官します。栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業に関わりました。また約600もの社会公共事業、福祉・教育機関の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。

***

一方松方デフレで農民達は窮迫、土地を手放した農民は寄生地主の小作農に

どちらに廻ってもツケを払うのは下層民と言う事か?

"大久保利通の有司専制による中央集権統一国家構想

明治6年
大久保が内務省を設立、自ら内務郷になって、日本近代化司令塔に君臨
明治6年 立憲政体詔書、行政を担当する太政官・正院、立法を担当する元老院・地方官会議、司法を担当する大審院をもって三権分立制の基礎作り

有司専制:明治初期,自由民権派が藩閥専制政府を非難した呼び名

「有司」とは官僚のこと。維新政府は公議輿論を標榜しながら実体は

薩摩・長州・土佐・肥前4藩出身者による藩閥専制政府であることを民権派は攻撃した。"

しかし大久保利通が主導した“中央集権化”と“殖産興業”の断行が無ければ、日本の“近代化”は無かった。彼の事跡を垣間見たが、全くもって超人的な行動力だった、現代に至るまで大久保ほど仕事をした人を知らない
@廃藩置県 分権的封建制から統一国家官僚制へ(太政官制)  実権は藩主から実務官僚へ

A封建的身分制の撤廃(壬申戸籍での統一支配)

 大名公家は華族に、武士には秩禄支給

 被差別階級は温存

B全国徴兵制(薩長御親兵に代わる国家兵力、武士解体)

C学制公布・風俗改良、淫祠邪教は弾圧

 天皇を神格化するため国家神道推進

 (“近代天皇制”  片山杜秀、島薗進

D地租改正→農民は寄生地主と賃労働者に分解

E殖産興業

F新貨発行、国立銀行創設

G北海道開拓使、屯田兵制 札幌農学校(ケプロン・クラーク)

 琉球処分でアイヌ・琉球を支配下に

 

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遅れてきた近代化

欧米列強に対抗するため、対外侵略と戦争によって切り抜けようとする必死の努力が始まる

経済の近代化

1880年代の官業払い下げ財閥資本と賃労働の創出、日清戦争(1894年)前後の軽工業隆盛、日露戦争(1904年)前後の重工業化で日本の産業革命が進行

@地租改正条例(1873年)

  地券所有者(地主・自作農)は地価の3%を金納

    小作農は地主に物納

  石高制・作付け制限・田畑永代売買禁止を廃止して

 土地私有権を確立

 収穫基準から地価基準に変更する事で政府の財政基礎の確立

 金納化で農業が商品経済と直結

 しかし農民の高い税負担は変わらず、農民層分解

 (寄生地主と小作人 更に賃金労働者を創出)を促進

 (”講座派”は高い農民収奪を封建制残存の根拠と見るらしいが、

 残存された封建的収奪を利用しての日本特殊型資本制が促進された?)

A通貨制度

 新貨条例(1871年)

  貧乏政府は太政官札、民部省札など紙幣を乱発したが失敗

  通貨単位を 円・銭・厘の10進法に統一、

 金銀複本位制で兌換紙幣を発行

 国立銀行条例(1872年)

 正貨(金・銀)の不足から、

 アメリカの制度を参考に伊藤博文・渋沢栄一が中心に推進

 国の法律で設立を認めた民間銀行に兌換券発行を委ねる

   第一国立銀行(三井・小野組が出資)他

 国立銀行条例改正(1876年)

  兌換義務を外す(不換紙幣)

  国立銀行の乱立と紙幣乱発→インフレ→国家財政難

B交通・通信の革新でインフラ整備

 横浜・新橋に鉄道(1872年)

 東海道線全通(1889年、大日本帝国憲法発布の年) 

 官営→民営(1881年日本鉄道会社設立)

 蒸気船導入

  岩崎弥太郎(郵便汽船三菱会社←九十九商会) 

  大隈重信の資金源

  政府は対抗馬として、三井などの出資で共同運輸会社設立

  競争激化から合併、日本郵船会社(1885年設立)

 郵便制度  前島密が建議

C殖産興業

 工部省 1870年設置 鉱工業・鉄道・港湾関係直営

 内務省 1873年設置 

  国内の民間産業、在来産業近代化のために設置、後に経済関係を農商務省に委ね、中央集権的全国支配のための治安関係をもっぱらとする最大官庁になる

 お雇い外国人招聘

 内国勧業博覧会  臥雲辰致のガラ紡が注目される

 東京・大阪の砲兵工廠(軍事産業)

 富岡製糸場(1872年)等で輸出型産業を育成

 官業で民間の資本不足を補い

 やがて官業払い下げや軍資金・軍需品の調達、軍事輸送等で財閥が成長

 三井 三池炭坑・富岡製糸

 三菱 高島炭坑・長崎造船所

 古河 足尾銅山

 住友 別子銅山・紡織 

** ヴェーバー学者が見る日本の近代化

  日本の近代化と社会変動   富永健一

 

廃藩置県 1871               目次に戻る

封建制度と武士の解体を意味する”廃藩置県”が維新改革の最大重要事項だった

”廃藩置県”は政府軍の威力のもとに行わねばならなかった

維新最大の功臣・西郷は戊辰戦争終結後、維新新政府の腐敗を憂慮、新政府への出仕を拒み帰郷していたが、懸命に呼び戻し

薩長土・御親兵と東西鎮台を設置、”廃藩置県”を実行

ほぼ前後して司法省と文部省が設置、次いで正院(中央政府)・左院(諮問機関)・右院(調整機関)が設置
神祇官が神祇省に格下げされるなどの改革が断行
同時に人事面で改革が進められ、太政大臣に三条、参議に西郷・木戸・大隈・板垣が就任して、これに岩倉と万里小路博房が政府内に留まったものの他の公家・諸侯は悉く職を免ぜらる

 

岩倉欧米使節団 1871            目次に戻る

条約改正交渉と殖産興業を目的に、欧米視察のための欧米派遣使節団派遣

岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文

維新政府主要メンバーこぞっての欧米視察は大英断だった

彼らは近代国家運営のノウハウ、そして今列強と闘えば必ず負ける事をその目で学んで帰国

 

明治6年政変 1872          目次に戻る

征韓論

明治維新を成功させ、西欧の植民地化を免れた日本政府が意気揚々と海外マーケットを求めて、韓国に対し通商を求めたが、清を宗主国と仰ぐ韓国は当然拒絶
近代化の手本・欧米のやり口の踏襲・名分としては”アジアの連盟”(”大東亜共栄圏”)目的だが、日清戦争・日露戦争のすえ結局”韓国併合”に至る、日本の本音を韓国が察知しないはずが無かった
韓国の対応に怒っての”征韓論”
韓国に対し誠に失礼な”言い草”だが、太古の古事記・日本書紀神功皇后の”三韓征伐”にあやかったらしい
”古事記・日本書記”による古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたとの記述が、江戸時代後期の国学や水戸学で広められた事で、
幕末尊王攘夷運動で対外進出の一環として朝鮮進出が唱えられた。
吉田松陰:欧米列強に対抗するため又日本独立のため「取易き朝鮮・満州・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」と勇ましい。

橋本左内、勝海舟、吉野作造等も同様に“弱いところから取り返せ”
朝鮮半島進出少なくとも他国の影響下に有ることだけは避けたいのは攘夷論のキモだった(後に山縣などの”利益線”理論となり、日本を戦争に駆り立てる根因となる)

坂野潤治先生は明治初年西郷隆盛・板垣退助らの“征韓論”を棚上げされた攘夷の再燃とみる
片山杜秀先生の“近代天皇論”は“日本は太古の神々を直系する天皇を戴く特別な国=皇国史観”は“小中華思想”であり、本質的に“攘夷”と結びつく“と説く
(成程そういう事か!でも“特別な国”との思いは日本だけでない、だから戦争は避けられない?)
坂野先生は、初期明治政府を
岩倉使節団 殖産興業派(大久保利通)憲法派(木戸孝允)
留守政府   強兵派(西郷隆盛)公議世論派(板垣退助)    の対立として描きました
(坂野潤治 日本近代史)

”征韓論”は岩倉使節団派遣の前から持ち上がって居たが、それを棚上げしての外遊、その留守中に”西郷の訪韓使節”を決定
西郷は征韓を唱えたのではなく、はやる”征韓出兵”を抑えるべく、自ら訪韓使節に立とうとした、自らの命と引き換えに征韓出兵への一致団結を引き起こそうとしたのか、知るよしもないが
いずれにしろ、弱体化した中国の属国である韓国との経済利権を今のうちに当方に向けようとしたのであろう
(勿論 秩禄処分・廃刀令等で武士階級の根絶を目指す大久保専制、一方で、さげすまれ命の危険を冒して漸く掴んだ権力の”うまみ”に溺れ腐敗する志士たちへの怒りもあった)

”征韓論争”  ”征韓論”対”内治優先論” 大久保・西郷の対立
司馬先生は両雄の対立を息詰まる様な迫力で描写されました
大久保と西郷の息詰まるような論争を司馬先生が描いています大久保は、今は内政重視と留守政府が決議した使節派遣を破棄、西郷・板垣・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎の5名が下野、西郷以外の4名は民選議院設立建白、西郷は帰郷して私学校設立して私兵を養成、大久保と反大久保、政府と反政府が袂を分った明治6年の政変である
大久保も”強兵””朝鮮侵略”に反対ではなかった。翌1874年には台湾に出兵(対清開戦論ー黒田清隆・川村純義)、自ら日清戦争・韓国併合への道を開く
野に下った板垣退助・江藤・後藤象二郎らは没落士族や地租への不満をつのらせる豪農達を背景に、愛国公党を結成、民撰議院建白書を提出(1874年)民権運動・政党の創始である
唐突な建白ではなかった、民撰議院も後に見る憲法もそして征韓論も、政府の構想になかった訳ではない
時期尚早、そして何よりも下からの要求として掲げられる事を嫌った
有司専制による”上から改革”として、今やるべき事は殖産興業に限定された
政府は讒謗律・新聞紙条例を発布、民権運動を弾圧
政府に挑発されたかの如く
西南戦争に行き着く熊本・神風連の乱、秋月の乱・萩の乱・思案橋事件等士族の反乱が続発、鎮圧された(1876年)
これらの反乱の原因は”征韓論”に根ざすより、有司専制政府に対する不満、没落を余儀なくされる士族階級の最後の足掻きであったろう
しかし いずれにしろ明治六年政変(征韓論)は大正昭和そして太平洋戦争に行き着く日本近代史の原点だった
征韓・韓国統合を不可欠とする拡張主義(国土防衛上必然だったかも知れないが)も板垣退助を祖とする民党・民権運動も政府に取り込まれ、挙国一致して戦争そして敗戦への道をひた走る事になる

付表  初期“政党の変遷

***
”利益線拡張主義”余談


経済利権のみならず、防衛上も日本に取って朝鮮は最重要
現在流行の“地政学”を持ち出すまでも無く、日清・日露戦争の動因となった山県有朋の“朝鮮は日本の利益線”は正直である
山縣は国家の自衛には「主権線」の安全だけでなく「利益線」の安全が必要と考えた。「主権線」とは国土のこと。そして「利益線」とは国土の防衛に密接に関係する場所のことであり、山縣が具体的にあげたのは朝鮮半島である。山縣は、その防衛なしに日本の自衛は全うできないとした。
確かにその通りであろう。この宿命的“地政学”が明治から太平洋戦争に至るまでの政府の対外戦略を主導し、国民を納得しての戦争に駆り立てた。そして今は逆にロシア・中国・朝鮮半島等の拡張主義(彼らにとって日本列島は“利益線”)を支え、日本も対応を迫られている
現代日本の軍備拡張は”防衛のため”という論は無意味、当たり前である。山県の”利益線”も国土防衛のためであったし、現代ロシア・中国の対外進出も国土防衛の為という
攻撃は最大の防御、当時の日本も国土防衛のため先手必勝を期して罠に填まった。三谷先生の言う様に天皇は勿論、松岡洋右も東条も近衛も平和を心底のぞんでいたろう
しかし一旦回り出した歯車は誰も止めようが無かった
(現下、ロシア・中国等の”利益線拡張”攻勢に日本の軍備拡張・憲法改定が急務と言われている。非常に難しい問題だから、改めて考えたいが、”太平洋戦争の大嘘”の藤井厳喜氏さえ”戦争前夜、中国韓国等が米ソの参戦を切望・工作する中で、日本は軍備拡張・先制攻撃以外何もしなかった”とぼやいている)
***

”台湾出兵” 1874             目次に戻る

”富国”と”強兵”の合体

@  “征韓論争では内治優先で協調した大久保と木戸が離反(薩長対立)

台湾出兵に反対して下野した長州憲政派の木戸・井上馨が民選議院派の板垣と接近

A  対清開戦強硬論(黒田清隆等)薩摩派からも孤立した大久保

B  大久保の対清交渉で戦争は回避されると木戸と板垣が接近して、大阪会議に結実(弾圧立法と引き替えに立憲制樹立第一歩)

しかし早晩この提携は崩れた

C  ”江華島事件”勃発

"台湾をめぐる日中対立に一応の終止符を打った明治政府は、一転韓国に強きに出る、砲艦外交で通商条約(江華島条約)を成立せしめて一応終止、

”征韓論””台湾出兵”に反対した木戸も対韓強硬論に転換(ここら当たり木戸にはやはり神経症的部分が有ったのでしょうか?)"

35年後、韓国併合に繋がる韓国進出第1歩

清国・韓国を沈静化した大久保の全盛が始まる(開発独裁、薩摩・外征派及び長州・憲法派は目標を失う)

大久保利通、恐らく日本史最高の宰相、謹言無比・冷血剛胆かつ清廉

”内務省 に集められて新政府の国務をこなす気鋭の若い官僚たちが、大久保利通のコツコツと廊下を歩く 靴音が聞こえると、一同、開いていた口を固く閉じ、顔面を蒼白にさせて机上の職務に集中した と言う(司馬遼太郎)

大久保利通と西郷隆盛 

西南戦争 1877        目次に戻る

そして最後の士族の反乱西南戦争

征韓論敗れ参議を辞して鹿児島に帰郷、私学校を創設していた西郷隆盛は、大久保ら政府の最大の脅威だった

政府の徴発に、西郷崇拝者達が、西郷をむりやり奉戴して蜂起

”征韓論”が西南戦争直接の原因とも思えません

では何が西郷を立ち上がらせたのでしょうか?

維新に於いて”合従連衡論”を説き、あれほど知略に富んだ英雄西郷は西南戦争では、殆ど戦略も立てず配下のなすがまま、大久保の挑発に易々乗って兵を挙げたのは何故か?

@命をかけて、やっと手に入れた権力だから、そのうまみに溺れ、腐敗していく政府に対する失望

A革命の主体であった”武士”を自己否定する政府に対する鬱屈の情

B西郷は武人であり思想家だが官僚でも政治家でもない、維新という維新という大業を成し遂げた後、もはや生涯の目標を見失ってしまったのか、目的喪失と焦燥(西郷ほどの人で有る。大久保の専制も没落する武士の悲しみも十分理解していたのであろう、だから反乱武士の神輿に乗りながら、尚且つ自らの動きを一切止めてしまったのかも知れない)

C勝海舟によれば”弟子のために情死した”

D始末の悪いことに、この英雄には師・斉彬死別以来、自殺願望があった、(朋友大久保のため)命の道連れに血気の不平武士を一掃しようとしたのかも

いずれも正しいでしょう"

西郷の心情をもっとも理解していたのは大久保だろう

同じ夢を追い、幾たびか命も救ってきた維新最高貢献者・無二の親友・西郷の自らの手で殺すに至った大久保、その慟哭の激しさ、察して余り有る

しかし西郷一派が壊滅しても、膨張的攘夷主義の復活は止まらなかった

やがて”殖産興業”と”強兵”は”富国強兵”に合体され日本の進路を決定していきます

一方後に自由党を創設する板垣は結構”ご都合主義”が目立つようです(党利党略に流れやすい民権派の特徴が早くも伺われます)

政府は欧米視察でアジア”未開・野蛮観を強め”脱亜入欧”によるアジアのリーダー化を目指す

西欧に”富国強兵”のモデルを求め、自由民権派は”自由と民主主義”のモデルを求めた

歴史的必然とはいえ、ともに欧米から進歩史観に立った”侵略主義””優越主義”をも学ぶ結果になった(欧米近代文明信仰)

西南戦争の勝利により大久保を中心とする政府は”議会派””憲法派”に続いて”強兵派”の鎮圧にも成功した

大久保の”開発独裁”、”富国派”全盛の時代が到来したが、”富国”を掲げる政府に思わぬ陥穽(財政と国際収支の赤字)が待っていた

大久保→伊藤博文・大隈重信・井上馨 1878    目次に戻る

西郷の死の直前木戸も死に、翌年には大久保も凶弾に倒れる

大久保の後を受けたのは伊藤博文を筆頭に井上馨・大隈重信(太政官制は原則合議制)

福沢諭吉・加藤弘之・森有礼の明六社は啓蒙運動

西南戦争の余波は猛烈なインフレ

@西南戦争中からの政府の財政方針は不換紙幣の発行や起業公債の発行などインフレ志向、ところが税収は”地租”金納固定制(好景気でかえって税収が目減りする制度)、当然の結果として”財政赤字”

A対外的信用失墜から円の信用低下、輸入品価格の急騰

国会期成同盟は板垣らの士族民権と河野広中を中心とする農民民権に勢力2分

(士族民権の理論武装”行政権は今の政府が握り、政党が議会を握る拒否権型議会”、政策立案での官僚主体と政党の党利党略主義を用意した)

大隈・福沢(インフレを維持しながら上からの国会開設、議院内閣制)対伊藤博文・松方正義(松方のデフレ策、井上毅の憲法論)

井上の憲法論はデフレ下の農民民権運動を抑制するため、内閣を政党の外に置き、内閣を議会の上に置き(超然主義、国務大臣単独責任制)更に貴族院(非選の華族・元勲で構成)に予算否決権を与える事で減税要求に対抗しようとした、すでに大日本憲法(1889年公布)の骨子を明示していた)

伊藤・井上ら保守派は板垣ら士族急進派との間に行政権強化、立法権強化の棲み分けを成立させ、大隈・福沢らのリバラル派が追い落とされたのが明治14年政変

明治14年政変 1881       目次に戻る

1874年征韓論で破れた土佐の板垣・後藤象二郎は愛国公党結成して民選議院建白書を提出
→立志社→愛国社→国会期成同盟)
板垣退助大隈重信松方正義
伊藤は明治23年に国会開設を約束する一方、大隈を解任、福沢門下生を官職から追放
松方正義を大蔵卿としてインフレに立ち向かうデフレ政策に政策転換(米価下落)
板垣は自由党(豪農が支持基盤)、大隈は立憲改進党(スポンサーは三菱)を結党
政府は三井閥を後ろ盾に自由党を切り崩す
板垣は外遊を引き替えに戦線離脱、板垣の裏切りに中江兆民・馬場竜緒が自民党脱党
1881年下野した大隈は 1882年立憲改進党→進歩党結成、なおも伊藤・松方内閣の外務大臣を歴任した後、
板垣自由党と合同して憲政党を結成、1898年本邦
初の“政党内閣”成立せしめた
(伊藤Bは藩閥から政党政治への脱皮を図って、政党を作ろうとしたが、山縣に阻まれ、敢えて大隈・板垣を後継推挙)

しかし隈板連合は4ヶ月しか続かず、大隈内閣は崩壊、大隈は憲政本党に分離
山縣A内閣の後、伊藤は念願通り政府与党・立憲政友会を結成(伊藤C内閣)、しかも板垣憲政党を飲み込んでしまう
後の大正時代には紆余曲折ありながら大隈亡き後・憲政本党の血をひく立憲民政党が伊藤の血をひく立憲政友会と二大政党時代を演出することになる

自由民権運動は鹿鳴館外交の軟弱ぶりへの反発を主攻撃目標として1887年頃、後藤象二郎らが大同団結運動を転回、壮士・書生・資産家・国粋主義者を中心に最後の全国的盛り上がりを見せたが、政府は1887年“保安条例”を発布して対抗する一方
1889年大日本帝国憲法を発布、1890年には第1回帝国議会を開催、政党の党首層を政府に取り込む“アメとムチ”で民権運動を抑制
伊藤らのデフレ政策と保守的憲法論は結果的に”富国派”を退場せしめ、”強兵派”を復権せしめた
参謀本部長・山県有朋の”清国脅威論”

政府(ドイツ流立憲君主制)
自由党(フランス流急進的改革志向)
立憲改進党(イギリス流穏健的議会制民主主義)

政党名 中心人物 主張の特徴 主張 支持層
自由党 1881-84 板垣退助・後藤象二郎等 フランス流急進的自由主義、一院制 一院制・普通選挙地租軽減・
条約改正
士族・地主・豪商・豪農農民・商工業者
立憲改進党 1882-96 大隈重信・河野敏鎌・犬養・尾崎等 イギリス流漸進的立憲主義、二院制 二院制・制限選挙地方自治・
国権拡張
資本家(特に三菱)地主・知識層
立憲帝政党 1882-83 福地源一郎 御用政党 欽定憲法・二院制 保守層

松方デフレ  大隈に代わった松方正義のインフレ退治 1882     目次に戻る

貨幣流通量減少→地主層は物価下落で地租軽減要求

福島県令・三島通庸の抑圧政策に侠客・田代栄助が秩父困民党を結成

農民を率いて蜂起、加波山に立てこもって監察を襲撃

板垣は”革命軍”を名乗る民衆運動に恐れをなして自由党解党

(松方デフレで支持基盤である地主層の財布が窮迫、資金難も有ったのでは?)

兎に角 不況と農民蜂起の中で自由民権運動は停止状態

山県有朋を起用して民権激派を鎮圧した伊藤は内閣制度を設置

大規模な行政整理で官僚支配を強める

民権派は三大事件建白運動(言論の自由・地租軽減・外交回復)

政府は保安条例公布・新聞紙条例・出版条例改悪、中江兆民等を左派を弾圧

一方、改進党・大隈や自由党・後藤象二郎を内閣に取り込み、民権運動は分裂壊滅状態

文人:北村透谷・二葉亭四迷・徳富蘇峰・森鴎外

伊藤博文、山縣有朋 大日本帝国憲法制定に向けて      目次に戻る

伊藤博文山県有朋
民権運動の高まりは、憲法制定と立憲君主制の確立を政府に急がせた

1882年 プロシャ流立憲君主制を学ぶべく伊藤博文らが渡欧(独グナイスト・モッセ、墺シュタインらに師事)

1884年 制度取調局開設、帰国した伊藤を筆頭として井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らが憲法起草開始

1888年 憲法審議のための枢密院設置 天皇の最高諮問機関、“憲法の番人”として、政党政治の時代にあっても、藩閥・官僚制政治の牙城をなした、初代議長は伊藤博文

憲法実施に備えて諸制度整備
@ 華族令 1884年 世襲制の公・侯・伯・子・男の爵位を定め、議会開設後の貴族院要員とする

A内閣制度 1885年  伊藤博文自ら内閣総理大臣に就任(黒田を後継)

(1) 太政大臣、左右大臣、参議及び各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くこと

(2) 内閣総理大臣及び各大臣(宮内大臣を除く。)をもって内閣を組織すること

太政官制では各省の責任者が居なかったと言われるが参議が各省の郷を兼務することが多かった、
でも原則参議による合議制だった、
太政官(参議)を外し各国務大臣の権限を強めたので有ろう

しかし内閣における国務大臣は(天皇に対する)単独輔弼責任制で有り、内閣総理大臣も各国務大臣と横並び、
大臣の任命権も解任権も無かった

枢密院の決めたことの執行機関に過ぎなかった(枢密院議長を兼務したカリスマ総理・伊藤は兎も角)

しかも閣議は全会一致を求められ、内閣不一致は即倒閣の口実となった

この制度的欠陥が大日本帝国憲法下で、内閣がくるくる替わり、弱体政府になった理由で有る

後には 軍部の台頭ともに、天皇の名を僭称する者は藩閥元老・枢密院から軍部へ、
統帥権・軍務大臣現役武官制(1900年山県有朋制定)を楯に、軍の賛同無ければ倒閣どころか組閣さえ出来なくなった

例えば 1912年西園寺公望から桂太郎へ)

***
余談

誰が軍の実権者だったのか?天皇の名に隠れて名がない、しかしその天皇は“立憲君主”として、何故か政治への直接介入を遠慮する(王は君臨すれども統治せず)

立憲君主制:君主の権力が憲法によって規制されている政体、しかし大日本帝国憲法は形式上天皇が国民に下したものだから、論理的には天皇を規制するものは“自己規制”しか無い?

自ら“統治発言”を避けた天皇は軍とその依存者に利用され尽くし、結局は“遅すぎた職権行使?”

“私は戦争に反対だったが、でも勢いを止められなかった”と仰られているが、憲法上戦争の始めるのも止めるのも天皇お一人の覚悟が必要だった、最終的には自らの身命を賭して戦争を止めていただいたじゃ無いですか?
***

B軍制改革参謀本部長として山県有朋が力を発揮した

1878年陸軍参謀本部1893年軍令部が設置、軍政から切り離され、統帥権が天皇に直属する形を整える

1882軍人勅諭“、1883年徴兵令を発布して”天皇の軍隊“としての精神的基盤とする

C地方制度  1888年 市制・町村制 1890年府県制・郡県制 地方自治体が確立するも官選知事・郡長


そして1889年 大日本帝国憲法公布   欽定憲法として天皇自ら制定国民に与えられた

民権派の要求に押されたと言うより、民権抑圧のための憲法

内閣は天皇が任命、天皇にのみ責任を持つ、陸海軍は天皇に直属

かようなプロシャ型欽定大日本憲法発布

神聖不可侵な天皇が統治権を総攬、立法・行政・司法三権は天皇の統治下

議会は天皇を協賛、法律案は枢密院を通して天皇が裁可(議会に予算案審議権はあったが、否決した場合、政府は前年度予算を執行できた)

“法律の範囲内での国民の権利”を明記
刑法(ドイツ流)民法(大幅に戸主権を明記、江戸武家の家族制度を制度化)制定

さらに “帝国議会”設置

1890年第1回帝国議会 貴族院は学識経験者・高官・多額納税者から官選

衆議院は制限選挙(直接国税15円以上納入する主に地主、25歳以上男子)

第1回議会では民党(旧自由党の立憲自由党と立憲改進党)が吏党(政府党)を上回ったが

天皇(実質は元勲仲間内)にのみ責任を持つ政府は議会を考慮する必要もなく黒田総理は”超然主義”を表明

天皇神格化のため軍人勅諭、教育勅語制定
条約改正を目的とした”鹿鳴館文化”も効なく、改正交渉は難航

伊藤から後継した黒田総理の時代に実現したもの、軍関係では山縣の考案したものも多いが、
多くは伊藤博文の力業に負う
伊藤博文は、ヨーロッパでキリスト教がはたしている役割に代替しうるものとして、皇室を国民統合の要とみなし、国家の枠組みに天皇を精緻な制度体としてとりこむことに全能力をかたむけた。

列強を前にして、神に繋がる皇統一系の天皇を支柱に戴くことでしか日本の近代国民国家形成は不可能とする信念に基づき、
天皇制に基づく大日本帝国憲法を誕生せしめた

その精神を国民に確かなものにすべく“軍人勅諭”や“教育勅語”もつくられた

いわゆる“天皇教”、“天皇神話”は“大いなる幻想“であろう、しかし当時の日本民族を統合して国民国家を形成するに、之ほど強いエネルギー源、精神基盤があったろうか?

封建遺制を遺した“半封建資本主義“と言うより、”封建遺制“の”天皇制“を利用した”日本型資本主義“の創成。伊藤博文は矢張り凄い人だ

大久保が資本主義の“下部構造”を建設したとすれば、伊藤は“上部構造”を作り上げた

明治歴代内閣(イクヤマイマイオヤイカサカサカ)

伊藤1885・黒田1888・山県1889・松方1891・伊藤A1892・松方A1896・伊藤B1898・大隈1898・山県A1898・伊藤C1900・桂1901・西園寺1906・桂A1908・西園寺A1911・桂B1912

大隈政党内閣が短命に終わり
1898年山県内閣A 保守藩閥、産業資本家・軍を代弁、反政党内閣
 意見書”利益線””清国脅威論”***wikiより
1888年(明治21年)1月、山県は主権線と
利益線という観念を提起している。当時のアジア情勢においてイギリスの進出とシベリア鉄道を経由するロシア帝国の脅威による不安定化が生じるという判断を示している。この情勢に対して日本はロシアと清国との危機を管理するためには朝鮮半島に注目する必要があることを論じた。山県は独自の用語法を提起し、「主権線」は国家を規定する国境を意味し、また「利益線」はこの国境から離れた地域においても国家の利益と関係する境界線を意味した。山県はこの枠組みを地政学的な分析に適用することで、日本にとっての利益線は朝鮮半島に位置づけることで、軍備拡張の必要を論じている[2]。
そして朝鮮半島を諸外国の影響力から離脱させた上で日本の影響下に置くために、1890年(明治23年)3月、イギリスやドイツを媒介とした清国と日本による共同の統治構想を提起している[3]。しかしこの構想は4年後、1894年(明治27年)11月、李氏朝鮮を清国から独立させて日本の影響下に置く方針へと修正されている[4]。さらにロシアが義和団事件により満州に兵力を配置して撤退しなかった事態に関しては、1901年(明治34年)4月、山県はイギリスやドイツとの同盟により南下政策を阻止する強制外交を論じている
***
@産業資本家の要求で地租増徴
A文官任用令改正(勅任官も高文試験合格者から、政党を排除)
B治安警察法(労働・社会運動弾圧へ)
C衆議院議員選挙法改正
D軍部大臣現役武官制(政党の軍への介入排除)
E北清事変 出兵
     
伊藤流”天皇の名”による国政と山縣流”利益線”確保外政、ついに昭和に至る日本のレールが敷かれた

ロシアの南下を恐れる英国との間に通商航海条約締結の目処が立つや
山県は朝鮮を”利益線”として干渉、朝鮮への帝国主義的進出を目論む
朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)を奇貨として、日・清が軍事進出
英国の暗黙の了解を得て清国軍艦に奇襲攻撃
1894年 日清戦争の勃発である
1900年伊藤博文C内閣
伊藤博文  政府与党・立憲政友会結成(藩閥脱却か、藩閥が政党を飲み込んだのか?板垣憲政党も解党して合同)
伊藤・山縣元老に退き桂園時代を演出。1901年より 桂園時代へ  桂太郎(山縣派)、西園寺公望(伊藤派) 

絶対天皇制のカラクリ    伊藤博文と山県有朋 

大日本帝国憲法 1889      目次に戻る

 1876年〜80年 元老院の日本国憲按は廃案に

 民間の私案

  私擬憲法案(交詢社)日本憲法見込案(立志社)東洋大日本国国憲按(榎木枝盛)

 1882年  伊藤博文、憲法調査のためドイツにわたる

   ドイツ流欽定憲法

   ベルリン大グナイスト、ウイーン大シュタインに学ぶ

  帰国後制度取調局を設け井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治らを集める

  お雇いドイツ人 ロエスレル、モッセ

  皇室の藩屏、華族令  公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵→貴族院の母体に

 1885年 内閣制度(太政官制の廃止)

  天皇の宮中(私)と府中(公)を分ける

   宮内省を内閣から分離独立

   宮中に内大臣府を設置

   天皇の諮問機関・枢密院

   工部省廃止

 1889年 大日本帝国憲法発布

   万世一系の天皇、天皇は神・国家元首・立憲君主

   天皇は緊急勅令権(立法権)を持つ

   天皇は陸海軍を統帥する 統帥機関・参謀本部(後に海軍は軍令部)が代行

   (内閣に軍事指揮権はない)

   天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む(内閣が輔弼)

   天皇は宣戦布告、条約締結の決定権を持つ

   臣民の義務に背かざる限り信教の自由、法律の範囲内で

    思想・信条の自由、出版・結社の自由を有する

   帝国議会は貴族院(天皇が任命)・衆議院の二院制

   国務各大臣は個別に天皇に対して責任を負う

   天皇の名による司法権

   予算は先に衆議院に提出するが、貴族院に拒否権

 

政党政治 1890年 第1回衆議院議員選挙(制限選挙)     目次に戻る

1889年 衆議院議員選挙法(勿論選挙権は富裕者のみに制限された制限選挙)制定

藩閥政治から政党政治へ脱皮を企てたのも伊藤博文だった

政府の戦費拡張政策と民党(自由党・改進党)の”政費節減・民力休養”が激しく対立

議会は膠着状態で、両者は天皇に仲裁を求める

1889年 第3次伊藤内閣は地租増徴案の議会反対で総辞職、初の藩閥で無い政党内閣・(憲政党)大隈を後継に推挙

自らは第1回衆議院銀選挙に備えて、板垣自由党に接近、立憲政友会に改組して総裁となり、1900年第4次伊藤内閣を組閣

明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた(逆に言えば政党が政府に取り込まれた)
後の話であるが、政友会は伊藤・西園寺から平民宰相・原敬が後を継ぎ

保守系の山県・桂太郎の後を継いだ立憲民政党・浜口雄幸より保守的な政党となるのは皮肉である

 

対外折衝                  目次に戻る

条約改正の目標

 領事裁判権撤廃

 関税自主権獲得

 片務的最恵国待遇解消

*70年代 岩倉具視・寺島宗則、

1871年 岩倉遣外使節団の予備交渉  米欧回覧実記(久米邦武)

寺島宗則外務卿 税権回復交渉

*80年代 井上馨・大蔵重信

井上馨外務卿  鹿鳴館外交(コンドルの設計・欧化主義の象徴)で一括交渉

外国からの要求

 内地雑居

 外国人判事任用 政府は容認するが、反政府運動(大同団結運動、三大事件建白運動)誘発、

  ノルマントン事件、井上馨辞任

大隈重信外相

 大審院に限って外国人判事を認めようとするが反撃をくう、玄洋社・来島恒喜の襲撃で失脚

*90年代 青木周蔵・陸奥宗光、1911年 小村寿太郎

青木周蔵外相

 外国人判事任用を退けたが、大津事件勃発 大審院長・児島惟謙が”司法権独立”を固守して辞任

榎本武揚外相

1894年 青木周蔵の働きで陸奥宗光外相 日英通商航海条約締結

 領事裁判権撤廃、内地雑居容認

 国民協会・立憲改進党など対外硬派が反対

1911年 小村寿太郎がアメリカ以下第2次改正 関税自主権回復 

 

日清戦争 1894年勃発            目次に戻る

 以下 中国等諸国の動きは日本史世界史対照年表もご参照ください

1871年(M4) 日清修好条約(伊達宗城・李鴻章)琉球漁民台湾漂着事件

1872年(M5) 琉球藩誕生(藩主尚泰) 

1873年(M6) 西郷隆盛他の征韓論(李氏朝鮮の海禁政策に開国を迫る)

1874年(M7) 西郷従道の台湾出兵(琉球漁民台湾漂着事件が口実、独立王国琉球を日本に組み込む琉球処分)

1875年(M8) 江華島事件を口実に朝鮮に攻め入る
明治初年以来、朝鮮侵略を企図していた日本政府は、朝鮮近海にしばしば日本軍艦を出動させ、威嚇と挑発を試みていた。75920日、井上良馨(よしか)を艦長とする雲揚号は、朝鮮の首都ソウルの表玄関に位置する江華島近海に侵入、江華島砲台の砲撃を受けた。飲料水を探すのが目的だったというのが雲揚号侵入の口実であるが、朝鮮側への計画的挑発を図ったものであった。雲揚号にはなんら損害はなかったが、艦砲で応戦、江華島砲台を破壊、さらに南の永宗島に上陸し、民家を焼き、朝鮮人35人を殺害、大砲38門を戦利品として奪った

南下を意図するロシアに対しては  樺太(ザハリン)・千島(クリル諸島)交換条約(黒田清隆・榎本武揚)

1876年(M9) 江華島条約(日朝修好条規)で不平等条約を押しつける(清の宗主権を否定させ無関税特権、領事裁判権を認めさす)
 勿論 清国は認めず李氏朝鮮の経済混乱
高宗 1323 (18762 27),朝鮮の江華府錬武堂において江華島事件の処理について,日本と朝鮮の間で調印された条約「日本国朝鮮国修好条規」 ( 12)をいい,丙子修好協定ともいう。これによって朝鮮の鎖国は破られ,日本は朝鮮および大陸進出の足場を築いた。条約内容は,中国からの独立の表示 (宗主権の否定),公使館設置,釜山など3港の開港,日本船舶の朝鮮港湾への避難,必需品買入れ,船具修理などによる入港,沿海測量,海図作成の容認,在留日本人の治外法権などで,江華島事件の賠償問題にはふれず,その内容もかつて日本が欧米諸国に押しつけられた不平等条約の再現であった

1879年(M12)沖縄県設置

1882年(M15)国王・高宗の父・大院君がクーデター壬午事変(1882年)を起こすが清国が鎮圧、大院君を引き取る
実権者である外戚・閔氏(親日派)対大院君(親清派)
クーデターで日本公使館も被害を受けたとして日本は賠償請求(済物浦条約)結果朝鮮政府は清国に接近、反日的になる
朝鮮国内部の対立
 事大党  現政権(外戚・閔氏)・保守的・親清派
 独立党  反政府・改革的・親日派

1884年(M17)
 日本は利益線政策で独立党クーデター(甲申事変、金玉均・朴泳孝)を支援、しかし クーデターは又も清に鎮圧される

1885年(M18)乙未事変(いつびじへん)
李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった明成皇后(閔妃)が1895年、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本公使館守備隊 、公使館警察官、日本人壮士(大陸浪人)ら日本人、朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使、高宗の父である興宣大院君派ら反明成皇后朝鮮人の共同で暗殺された事件。閔妃暗殺事件(びんひあんさつじけん)とも言う
福沢諭吉が脱亜論で中国・朝鮮侵略も辞さぬ論をはる

天津条約(伊藤博文・李鴻章)朝鮮国に軍隊を派遣する場合は事前通告とする

1889年 防穀令事件 朝鮮が飢饉を理由に穀物輸出を禁止したことに対し賠償を要求

1894年 東学党の乱(甲午農民戦争)日清両国の軍隊派遣

  時あたかも、日英通商航海条約交渉妥結(駐英公使・青木周蔵)、

  壬午農民戦争騒動は収まるも、外相・陸奥宗光は

  ”どのような工作をしても戦争に持ち込め”と朝鮮公使・大鳥圭介に打電(蹇々録)

  挑発に乗る朝鮮・清国→清国救援軍と豊島沖で開戦(日清戦争勃発)

  平壌・旅順占領、遼東半島制圧、黄海海戦、威海衛で北洋艦隊殲滅、日本の圧勝

1895年 下関条約(伊藤博文・李鴻章)

  清国は朝鮮への宗主権を放棄

  遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲

  賠償金2億両

  重慶・沙市・蘇州・杭州開港

  日本の勢力拡大を恐れる三国(露・仏・独)が干渉、日本は遼東半島を清に還付
  (勿論只ではない、代償金3000万両が清から日本に支払われた)

  台湾総督府 初代総督・樺山資紀  抵抗する台湾民主国独立運動

 

日清戦争勝利の余波                 目次に戻る

日清戦争の”賠償金”は軍拡に充当、積極政策(主として鉄道拡張費)のためには地租増税を必要とした

鉄道は欲しいが増税に応じたくない農村地主達の支持政党は分裂、鉄道誘致(積極財政)に傾く者は自由党、増税反対に拘る者は進歩党を支持

与党的立場を鮮明にして地租増税を容認する自由党は参政権を独占する地主層の反発を買い敗北、第3次伊藤内閣も増税案も否決され退陣

自由党と進歩党は合同して憲政党を結成、隅板内閣(初の政党内閣)が成立、初の(藩閥で無い)政党内閣

しかし即刻両派のポスト争いで板垣・憲政党と大隈・憲政本党に分裂

憲政党は山県2次内閣(積極政策・地租増徴)を支持、総裁星亨は伊藤を首班とする立憲政友会への道を用意する

伊藤は1890年・第1回衆議院銀選挙に備えて、板垣自由党に接近、立憲政友会に改組して総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣、明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた

(逆に言えば政党が政府に取り込まれた)後の話であるが、政友会は伊藤・西園寺から平民宰相・原敬が後を継ぎ

保守系の山県・桂太郎の後を継いだ立憲民政党・浜口雄幸より保守的な政党となるのは皮肉である

国民の多くが日清戦争戦勝に酔っていた

福沢諭吉・内村鑑三・幸徳秋水までが勝利を言祝いだ

賠償金2億テール、台湾割譲

だが遼東半島の日本割譲に待ったをかけた、ロシア・フランス・ドイツの1895年即三国干渉

以後 日本とロシアの対立が先鋭化

”平民主義”を説いていた徳富蘇峰も”帝国主義”に転向

各政党は一斉に政府の戦争政策に支持表明巨額の軍事費予算に協賛、挙国一致体制となる

しかし費やされた戦費と台湾保守のための費用がインフレそして戦後恐慌をもたらした

田中正造の足尾鉱毒弾劾演説を皮切りに、農民運動やジャーナリズムの政府批判が高まる

内村鑑三・幸徳秋水の万朝報、二六新報、東京毎日新聞

社会主義研究会(片山潜・幸徳秋水・安部磯雄)

労働者懇親会

普通選挙運動の展開

近代的労働者・社会主義運動の萌芽である

1901年 選挙法改正で有権者は二倍増(記名投票)桂内閣成立

日露協商を唱える伊藤に対し
山県・桂は三国干渉以来の仮想敵国ロシアに対抗するために日英同盟を推進(1902年締結)

"1903年 幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三らは万朝報を去り平民新聞を創刊非戦を唱えたが、
世論は好戦論に傾いていった(1905年廃刊)

清戦争から日英同盟、日露戦争への流れ         目次に戻る

1895年 日清戦争終結・下関条約・三国干渉

 日清戦争後、列強の中国分割

 ドイツ  膠州湾(山東半島)

 ロシア  旅順・大連(遼東半島)

 イギリス 九竜半島、威海衛(山東半島)

 フランス 広州湾

 日本   台湾  福建省の不割譲を認めさす

 アメリカのジョン・ヘイは中国に門戸開放・機会均等を主張

1895年 閔妃暗殺(ロシア寄り朝鮮に日本の実力行使、朝鮮公使・三浦梧郎が主導)

 閔妃:高宗の妻、ロシア贔屓 対する高宗の父・大院君は日本贔屓

   閔妃暗殺に朝鮮はロシアよりを強める

1897年 李氏朝鮮は大日本帝国に対抗して大韓帝国に改名、ロシアに接近

   朝鮮半島、中国東北部はロシアの支配下に→日本の危機

日本の情勢は

日露協商論(満韓交換の妥協策)  伊藤博文・井上馨

日英同盟論(日露戦争を想定)   山県有朋・桂太郎・小村寿太郎

1900年  中国で義和団事件(北清事変
 義和団:扶清滅洋を称える反キリスト教宗教団体・反乱農民が北京を占領、外国人外交官を殺傷
 日本はじめ西欧列強は在留外交官等を保護するため派兵
 あろう事か時の権力者・西太后が義和団に乗って日本・西欧列強に宣戦布告
 (幕末の攘夷運動・異国船船打払令の様なものだが一挙に8カ国相手に喧嘩を売ったのだから凄い。
 尤も後には米英に挑んで敗北した日本が嗤う訳にはいかない。
 戦争は畢竟どうにも我慢できぬ男(女)の一分で決まるのだろうか。国民は堪ったものじゃない)
 
望むところと8カ国が北京派兵・総攻撃(日・英・米・仏・露・独・伊・オーストリア)

 ロシアが中国東北部を実質占領
 1901年終戦処理・北京議定書で日本も莫大な賠償金と軍の駐留権を得る(清国駐留軍→支那駐留軍)
 この支那駐留軍が後1937年盧溝橋事件(日中戦争)の火種を作る事になる
 余談:安易に外国軍隊を入れてはいかんと言う”教訓”だが
 幕末幕軍も反幕軍も英仏の武器に頼りながらも援軍を乞わなかったのは見事だ
 現代においては日本の米軍基地の問題を右も左も問題にしている
 国土防衛に米軍基地は利か不利かとても難しい問題だが、
 現状では如何に軍備を拡張しようと、米軍の存在抜きに国土防衛は難しいと私も思う
 
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902年 日英同盟締結

  清国・朝鮮での日英利益を守る

  日英が他国(ロシア)と戦争になった場合一方は厳正中立

  日英が複数国と戦争になれば英国は日本に助成、共同戦線

1904年 日露戦争勃発

  万朝報

  非戦論 内村鑑三

  反戦論 幸徳秋水・堺利彦 

   万朝報社長・黒岩涙香が主戦論に転向

   秋水・堺は万朝報を辞し平民社結成、平民新聞発行

  開戦論 七博士意見(戸水寛人) 対露同志会(近衛篤麿)

  日韓議定書(日露戦争開戦直後に大韓帝国政府に戦争協力を強要)

  第1次日韓協約(財政・外交の顧問派遣)

1905年

  旅順攻防戦、奉天大会戦、日本海海戦(東郷平八郎VSバルチック艦隊)

  戦勝するが18億の出費で財政難

  桂・タフト協定  アメリカはフィリピン、日本は韓国の植民地支配を認める

  第2次日英同盟 同盟を強化、韓国支配権を英国も認める

  セオドア・ルーズベルトの仲介でポーツマス会議(小村寿太郎VSウィッテ)
        賠償金こそせしめなかったが(国民は”日比谷焼き討ち事件”で鬱憤晴らし)
  ちゃっかり遼東半島・朝鮮半島の利権をロシアからむしり取った
    1898年にロシアが獲得した遼東半島(旅順・大連)の租借権をロシアから譲り受け(交渉に中国は蚊帳の外)関東軍を設置   この関東軍が後1931年満州事変を引き起こし、政府もそれに乗じて派兵、満州傀儡政権を樹立、中国経営の拠点とする

  ポーツマス条約


   @韓国に対して日本の主導権

   A旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道経営権を日本に譲渡

   B樺太南半分(北緯50度以南)を日本に割譲

   C沿海州及びカムチャッカの漁業権を日本に譲渡

  第2次日韓協約(日韓保護条約、韓国保護条約) 

   在東京外務省で韓国外交権を奪う

   京城に総監府(伊藤博文)

ロシアへの賠償金を求めた大衆の日比谷焼打事件

日本の韓国支配・中国進出の歴史が始まるが、米英は黙認した

(代わりに米国に対してはフィリピン支配権、英国に対してはインド支配権を黙認)

桂園時代  目次に戻る
桂太郎西園寺公望
190
1年〜大正政変1913年、藩閥の桂と立憲政友会・西園寺公望が交互に政権を担当(桂園時代)

藩閥と政党の妥協によって、戦前内閣の最も安定した時代と言われる

桂太郎:元長州藩士、伊藤・大隈・山県内閣で陸軍大臣歴任、公爵・陸軍大将、山県の一番弟子

西園寺公望:公家の出身、伊藤博文の弟子として立憲政友会総裁を後継、後には元老として近衛文麿を寵愛

1901年 桂太郎内閣
1904年 日露戦争勃発で盛り上がる労働運動に恐れをなした桂が、政友会の原敬と再三会談
 ”日露戦争が終わったら、政権を政友会総裁・西園寺公望に譲渡するので、それまでは政友会が桂内閣に協力する”
 旨の密約を交わす、桂の後ろ盾・政党嫌いの山縣は密約に怒る。
 もともと政党外の過激分子とは一線を画したい政友会・原は桂の提案に飛びついた
 (後の平民宰相・原はすでに政友会影の総裁と言われ、西園寺政友会を牛耳っていた)
1905年 日露戦争終結ポーツマス条約破棄を訴える日比谷焼討事件等は更に桂に衝撃
 (”ロシアから賠償金を取り立てよ”という過激運動は、戦争の実態を知らぬ庶民の”無茶ぶり”のように見えるが、
 日露戦争で働き手を奪われた(血税)うえ、更にまた戦後の物価騰貴と増税に苦しまねばならぬ悲鳴だろう)
1906年 約束通り西園寺・政友会内閣(勿論総理は天皇=元老によって決められるが、桂が強引に納得せしめた)
1908年 相変わらず政党内閣きらい・山縣の嫌がらせに西園寺は信頼する桂を後継推挙して総辞職
 桂A内閣になるも
1910年 大逆事件発生、桂は愈々”温和な”政友会との妥協なしに政策不能を悟り、”情意統合”演説、西園寺への政権委譲表明
 大逆事件:明治天皇の暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、幸徳秋水らが処刑された弾圧事件 (1910年桂内閣)検事のでっち上げの部分も大きかったと言われるが、その後5年ほど社会主義運動は”冬の時代”に入る
1911年 西園寺A・政友会内閣
 以後大正元年1912年 西園寺公望第二次内閣が陸軍の二個師団増設要求を拒否したことから
 陸軍は山縣のたてた”陸軍大臣現役武官制”を楯に、陸軍大臣を出さなかったので西園寺内閣は倒壊
 強引に桂B内閣組閣
 ここに桂と西園寺の提携関係は崩壊、桂園時代は終わりを告げた

満州経営と韓国併合             目次に戻る

1905年 韓国併合にむけて伊藤自ら韓国総監に

1906年 遼東の租借地(関東州)に関東都督府設置

   南満州鉄道株式会社発足(後藤新平)、鉄道国有法制定

   日米関係悪化(米ハリマンの満鉄資本参加を拒否)   

   日本人学童排斥事件、日米紳士協定で米国移民の自主規制

1907年 日露協商(日露の接近、満蒙利権を米から守ろうとする意図)

   ハーグ密使事件 ハーグ万国平和会議に韓国皇帝が密使を送る

   第3次日韓協約 韓国の内政権を奪い、韓国軍隊を解散させる

1909年 伊藤博文ハルピンで韓国独立運動の安重根に暗殺される

1910年 韓国併合条約で大韓帝国消滅

   統監府は朝鮮総督府に改名(初代総督・寺内正毅)

   憲兵政治(軍人が警察官を兼ねる)で朝鮮人の権利自由を侵害

   土地調査事業で土地を没収、国策会社・東洋拓殖会社が最大巨大な寄生地主になる

   天皇暗殺計画(大逆事件)と大弾圧

1911年 第3次日英同盟 同盟の後退(米の意向で効力の対象からアメリカを外す)

1912年−26年  。大正へ