近現代史概要
***昭和史 前期  まとめ
昭和史 前期  目次
昭和史 前期  年表
昭和政党内閣
政党政治
二大政党時代
若槻礼次郎内閣 金融恐慌
田中義一内閣(右傾する政友会) 山東出兵→東方会議→満州某重大事件
日本資本主義論争 
浜口雄幸内閣 井上財政 世界恐慌
満州事変
満州事変から太平洋戦争・敗戦への流れ
5.15事件  犬養首相暗殺で政党政治崩壊 陸軍・斎藤実内閣、海軍・岡田啓介内閣
政党内閣断絶後の内閣
二・二六事件  広田弘毅(陸軍のいいなり?)内閣  林銑十カ(陸軍の擁立)内閣
近衛文麿
東条英機
ファシズム
太平洋戦争の原因
太平洋戦争の敗因
参考:地ひらく  石原莞爾と昭和の夢  福田和也 要約 




昭和政党内閣

カカワタハワイ
加藤高明・加藤・若槻礼次郎・田中義一・浜口雄幸・若槻・犬養毅
政党政治
1918年、政友会の原敬内閣以来、政党政治が始まった。積極財政と強硬外交を謳い文句とする政友会、
緊縮財政、協調外交を主張する憲政会(民政党)の二大政党制も実現(1928年第1回普通選挙実施)
選挙中の党利党略、美辞麗句で勝利した方が政権を取るのはよいが、
折しも1929年世界恐慌をうけた経済危機になすすべもなく
”政党のスローガンと現実は余りにも違うじゃないか”政党政治への国民不信が高まる
後に”昭和維新”と呼ばれるテロや暗殺(民政党の浜口雄幸、井上準之助、政友会の犬養毅らの暗殺)
実行犯は右翼や軍人だったが、困窮にあえぐ民衆は、彼らに同情的だった(実行犯も民衆救済を旗印とした)
結局1932年5.15事件、犬養暗殺をもって政党政治は終わりを告げ、以後日本は奈落への道をひた走る

二大政党時代
護憲3派から分裂した加藤高明そして昭和前期の若槻礼次郎(憲政会)・田中義一(立憲政友会)・浜口雄幸・
若槻礼次郎(立憲民政党)・犬養毅(政友会)と二大政党による政権交代が行われた時代を二大政党時代と呼ぶ
しかし両政党の政策に差ほどの相違はなく、それぞれ財閥の利害を代表して(政友会は三井閥、憲政会系は三菱閥)
党利党略・権謀術策に終始した
両党の泥試合に国民が失望、後の軍ファシズム台頭の一因ともなる
政党政治は党利党略を求める政党によって自己崩壊した

憲政会→立憲民政党
  普通選挙制を主張(憲政の常道)、帝国主義的強硬外交(山東利権固執)
????しかし第2次護憲運動以降、幣原喜重郎の協調外交に方向転換
  (国際協調と中国内政不干渉、幣原に変更ないが
  加藤の憲政会にとっては大変更だった)
政友会
  普通選挙反対(反民主主義)、
  外政面はワシントン体制を支持(平和主義路線)
  しかし田中義一内閣にいたって拡張外交に路線変更

明治新政府の最大使命は日本資本主義の育成にあった
明治の薩長藩閥政治は三井・三菱・住友・大倉・渋沢・藤田組など政商を育てた
薩長とくに長州出身の政治家が政商を援護する事でかれらから政治資金を吸い上げる相互援助の関係が成り立っていた
特に日清戦争・日露戦争・山東出兵・シベリア出兵など戦争のたびに政商は肥え太っていった
自然政党も三井が政友会、三菱が憲政会の資金源となって見返りを期待、
政党に流入した官僚も財界とのパイプ役が必要であった
憲政会・加藤高明は三菱社主・岩崎弥太郎の長女であった
当時党費も選挙費も総裁が殆ど受け持った
桂太郎の死後、桂の立志会党員は一番金を出す加藤高明の所に結集、憲政会初代総裁に仰いだ
辣腕家の原は結構金集めにも手を汚したが、高橋是清は金が無い事もあって党の指導至らず、
陸軍から持参金付で政友会に転身(軍機密費から300万円を流用持参したとの噂)した田中義一に総裁の椅子を譲った

若槻礼次郎内閣 金融恐慌
加藤高明病死で若槻礼次郎が後継
加藤の延長内閣だったが、若槻には金が無く淡泊、優柔不断な性格は党員や西園寺元老からも頼りない存在と見なされた
金輸出解禁・財政整理・金融恐慌
枢密院が台湾銀行救済策を敢えて拒否して若槻内閣倒閣(幣原外交の英米協調を嫌った事もあるが、かっての西園寺のライバル・伊藤巳代治や平沼騏一郎らが裏で政友会と手を握った陰謀)
若槻は政権投げ出しと同時に総裁辞任、憲政会は床次の政友本党と合併、立憲民政党となる
初代総裁は浜口雄幸
金融恐慌
人苦になる金融恐慌!
経済不況の原因
  @紙幣の増発→インフレ
  A国際競争力の不足
  B外国為替相場の不安定(円下落)→貿易不振
憲政会・加藤高明(病死)を継いだ若槻礼次郎内閣は
  銀行取り付け騒ぎ、震災手形処理法案をめぐって 片岡蔵相失言
   渡辺銀行・台湾銀行・第15銀行休業へ
"  若槻内閣の協調外交若槻内閣の協調外交に反対する枢密院は支払猶予の緊急勅令拒絶
   →若槻総辞職"

田中義一内閣(右傾する政友会) 山東出兵→東方会議→満州某重大事件
陸軍大将・田中義一を首相とする政友会内閣成立
田中は山県の子飼い、末は”元帥”と期待されたが、持参金付で政友会に転身
陸軍時代には、自ら望んで参謀部から歩兵連隊長に転出、エリート参謀部員と隊付将校の宥和を図ったり、”在郷軍人会”青年訓練所”などを設置して”兵営生活の家庭化”に努めた
”おらには300万人の在郷軍人が付いている”と豪語
加藤(高)と若槻内閣の陸相時代、”軍縮”を断行した宇垣は田中の”知恵袋”であったが、”朝鮮総督”任官を容れられなかったため、田中に裏切られたと離反
幣原の協調外交の継続を全否定して強硬外交に
(産業立国=”満蒙特殊地域”を武力で擁護する事)
政友会は急速に右傾化
@山東出兵
A東方会議(外務省と陸海軍中央及び出先機関を招集して対支政策綱領発表)
対中強行外光は国内の不況を侵略戦争で切り抜けようとするものだった
この状況が陸軍内満蒙強硬論者を勇気付けた
(満州事変から日中戦争へ、ファシズムの台頭)
緊縮財政は放棄され高橋蔵相がカムバックして積極(放漫)財政
一方憲政会(民政党)は外政面は”幣原協調外交”、内政面は民主化を主張
”平和と民主主義”の憲政会
”侵略と皇室主義”の政友会の対立
鮮明になってきた海外情勢
@日本の中国侵略と中国側の抵抗
A日本と米英の帝国主義の対立
B中国と米英との反日連合

日本資本主義論争  
30年代、日本資本主義と革命戦略をめぐって闘われた歴史的大論争は
共産党対社会党の対立として戦後にも引き継がれた
(”半封建資本理論”は”半従属資本理論”に衣替え)
第1期  1927−32年 革命戦略論争
第2期  1933−37年 資本主義・封建論争
講座派  
27年テーゼを受けた日本共産党が”二段階革命論”を主張
 当面する革命は絶対主義天皇制を打倒し地主制を撤廃するブルジョア民主主義革命
 を経て急速に社会主義革命に転化すべし
労農派
 封建的絶対主義勢力の物質的基礎はすでに失われており  
 国家権力におけるヘゲモニーは独占資本が握っているから
 金融資本=帝国主義ブルジョアジーを倒す社会主義革命を  主張
争点
@地主的土地所有を半封建地代とするか、経済外的強制のない資本主義地代とするか
A明治政府の天皇を頂点とする中央集権国家を絶対主義国家とするか、明治政府の資本主義育成を重視するか
総括
もともとコミンテルンの”民族統一戦線”方針の理論付けに発する論争だけに政治的要素に左右された歪みが大きかったが
”いつ日本の資本主義は成立したか”とか”天皇制は絶対主義か””寄生地主制は封建制の遺制か”など
今では無意味な論争とも思えるが、講座派の見解は日本資本主義の特性を抉って出色のものだった
資本主義は色々、確かに戦前日本資本主義は天皇制に名を借りた”開発独裁”によって成長した事は否めず、
その矛盾の露呈が”太平洋戦争”だった
(占領期アメリカも、日本資本主義が半封建的である事を深く認識しており、
しかも占領統治上”天皇制”を無くてならぬものとして利用した)

浜口雄幸内閣 井上財政 世界恐慌
浜口雄幸井上準之助若槻礼次郎
民政党・浜口雄幸
政友会の”積極経済”の歪みを正すべく、
蔵相・井上準之助は金解禁して緊縮財政・デフレ政策をとる
しかし時に世界的大恐慌
経済は未曾有の恐慌状態に突入
特に東北農村の飢餓恐慌が貧農救済を掲げるファシズム発生の一因となった
しかし国民は健全財政主義を評価したのか、総選挙は民政党の圧勝
労働運動、農民運動は激化
コミンテルンの指導で日本共産党再建(福本和夫)されたが
極端なセクト主義をとったがため、蒋介石の国共合作裏切りとともに農民運動が分裂
 共産党系労働農民党は国共合作の武漢政府を支持
 総同盟系社民党は蒋介石の南京政府を支持
 政府は共産党・労農党を弾圧
外交・憲法・経済政策の争点肥大化の中で
 陸海軍・右翼の国家改造運動、労働運動、農民運動
 が先鋭化 

満州事変
?関東軍が謀略によって南満州鉄道を爆破(柳条湖事件)
??沿線沿いを次々襲撃・確保、満州制圧に走る
 皇帝・溥儀を立てて満州国建国(五族共和、王道楽土)
石原莞爾らは満蒙は日本の生命線との位置づけ、
当初は直接支配(朝鮮型植民地化)を狙ったが、ワシントン体制への意識もあって間接統治
統制経済で事変後の好景気が演出され
日本製鉄など巨大国策会社誕生
重工業中心の振興財閥誕生(軍部と提携)
満州に進出した日産や朝鮮に進出した日窒
理研・森・日曹・中島など新興コンツェルンが形成された
3つの危機
@経済危機
A軍事クーデター
B対外危機
のうち経済危機は取り敢えず沈静化
軍事クーデターとして5.15、2.26事件等は
 鎮圧されたが軍部の横暴・右傾化を強め
 結局対外危機の陥穽に自ら陥る事になる
蒋介石は国連にリットン調査団を要請
リットン調査団の報告は日本軍の自衛目的、満州国の自発的独立を否定する限りでは中国・蒋介石の主張を認めたが、
”満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである”として
”中国が不買運動という経済的武力や挑発を行使している限り平和は訪れない”と日本側への配慮も見られる
つまり満州事変の頃まで、当事者・中国以外の列強諸国は日本の動きに是認的・同情的だった
諸国はご同様に帝国主義段階である、わが身を振り返れば日本を批判する大義名分も無かった
ソ連の進出を恐れる英国などは日本の帝国主義発展を後押ししてきた部分もある
問題は満州事変を先駆けとしてドイツ・イタリア等と
ワシントン体制(帝国主義先発組により打ち立てられた国際秩序)打破の連動が構築されていった事にあった
そして日本の”南進政策”に依って、日本はいよいよ後発巨大国・米国の”虎の尾”を踏む事になる

満州事変から太平洋戦争・敗戦への流れ
満州事変から太平洋戦争・敗戦への流れを整理すれば
1931 満州事変
1932 5.15事件、日満議定書で満州国認知
1933 リットン調査団報告に抗して国際連盟脱退
1936 2.26事件、軍部大臣現役武官制復活、
    日独伊防共協定、西安事件で国共合作して抗日
1937 盧溝橋事件で日中戦争開始、南京大虐殺
1938 東亜新秩序声明
1939 日米通商航海条約廃棄通告、独ソ不可侵条約
    第2次世界大戦勃発
1940 南京新政府樹立、日米通商航海条約失効
    大政翼賛会結成(新体制運動)、北部仏印進駐
    日独伊三国同盟締結
1941 日ソ中立条約締結
    南部仏印進駐
    太平洋戦争(真珠湾攻撃)
1945 広島・長崎原爆投下、ソ連の参戦
    ポツダム宣言受諾

5.15事件  犬養首相暗殺で政党政治崩壊 陸軍・斎藤実内閣、海軍・岡田啓介内閣
犬養毅
海軍青年将校による、かなり幼稚なクーデター
荒木貞夫外相を戴いての新体制を目指したが、荒木ら軍の上層部が取り合わずに失敗
@政党政治腐敗への怒り
A農民窮乏への同情
B軍人の矜持(第1次大戦後の肩身の狭い思いが満州事変で自信を植え付けられた)
C国家救済に向け君側の奸を討つ義挙との思いこみ
問題は事変によって政党内閣が終焉、議院内閣制挫折
斉藤危機管理内閣は赤字公債発行・農村振興に向けての公共事業等で地方における政党の影響力を更に切り崩していった
政党政治崩壊の原因
直接的には青年将校による5・15事件によったが
軍部をはじめ諸政治勢力の反政党化が政党政治を崩壊させた
@政友会による”地方利益”散布による集票システムが”不況・財政難”で行き詰まってきた
A若槻内閣倒閣に見られるように、枢密院が政党に反抗的になってきた
B官僚も政党の人事介入を嫌い反政党の色彩を濃くしてきた
C国際情勢の緊迫が軍部をはじめとしてワシントン体制への反発を招いた
岡田内閣は民生党・陸軍統制派と新官僚・社会大衆党の支持を取り付け、過半数政党・政友会と陸軍皇道派に対抗
内閣審議会・内閣調査会を設置、政策立案能力を政党から取り戻す事で政党の存在意義を薄める事になった
結果 政友会は皇道派に接近、美濃部”天皇機関説”を攻撃
しかし政友会が岡田内閣打倒のため陸軍皇道派とともに展開した”天皇機関説排撃運動”は
政党政治のイデオロギー的基礎を政党自身が攻撃すると言う自殺行為以外の何物でもなかった
陸軍は統制派が独裁
*統制派(永山鉄山・東条英機・今村均・武藤章ら、統制により総力戦体制を築こうとする)
*皇道派(荒木貞夫・真崎甚三郎ら陸軍青年将校の直接行動を野放し)
*統制派は社会大衆党にも手を伸ばし、国家社会主義体制を目指したか?
*新官僚(新設された内閣調査局の修正資本主義的内務官僚)

政党内閣断絶後の内閣
サオヒハコヒアヨココトコス
斉藤実 岡田啓介 広田弘毅 林銑十郎 近衛文麿
平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 近衛 近衛
東条英機 小磯国昭 鈴木貫太郎

二・二六事件  広田弘毅(陸軍のいいなり?)内閣  林銑十カ(陸軍の擁立)内閣
北一輝石原莞爾
総選挙では皇道派と結んで”天皇機関説”攻撃に専念してきた政友会が敗れ、
一応反軍国主義、反ファシズムを掲げた民政党が第1党に、しかし政党への不信回復にはならなかった
皇道派青年将校のクーデター2.26事件
@国民的支持を得ていなかった
A”君側の奸”・重臣を討って天皇に訴えようとした彼らであったが、天皇からも排斥された
*昭和天皇3大ご聖断
 張作霖謀殺事件の事後処分の遅れで田中義一を叱責
 2.26事件の青年将校鎮圧の命令
 ポツダム宣言受諾
B”皇道派”は北一輝の”国家社会主義”を理想としたが、
民衆から浮き上がった独善的行動は失敗、結果的にその隙に入り込んだ統制派的軍国主義を助長した
クーデター鎮圧後の議会
民政党は反軍国主義、反ファシズムを鮮明にしようとした
政友会も選挙敗北もあって反ファッショ化に向かった(腹切り問答)
しかし社会大衆党は親軍的色彩を強めていった
政友会・民政党連携しての宇垣擁立は陸軍(石原莞爾が主導して)によって阻止(陸軍大臣推薦を拒否)
陸軍によって立てられた林銑十郎は議会に支持基盤を持たず短命に倒れる
林内閣と陸軍は広田弘毅の”広義国防”に関心を失い、国家社会主義に決別しようとした
(広義国防は社会変革を含む国家社会主義的色彩、狭義国防は軍事力増強に限定した国家資本主義)
財閥は”狭義国防”で陸軍に接近(”経済機構の根本”を守る代償として陸軍を援助)
社会大衆党は”広義国防”を主張

近衛文麿

近衛文麿は元老・西園寺最後の綱であった
@軍人・観念右翼(父篤麿が右翼と親交)政党いずれからも嘱望されていた
A同族意識(藤原兼家の子・道長5代の孫忠通の長男基実が近衛家、第3子兼実が九条家を創設、
兼家の弟・公季5代の孫通季が西園寺家を創設、通季の兄・実行は三条家、弟実能は徳大寺家を創設、
西園寺は徳大寺家から西園寺家に養子に行った、文麿・公望いずれも藤原北家の流れ、天皇家とも繋がる日本指折りの貴族)
B西園寺はフランスに留学、自由主義の洗礼を受け、近衛は京大で河上肇に師事、似たような学生時代をおくる
C第2次西園寺内閣倒閣の頃から西園寺は近衛と親交、天皇家にも紹介、西園寺はまだ学生であった近衛を、
家格を重んじ”閣下”と呼んで可愛がった
D天皇も公家の当主・文麿と”君臣水魚之交”
選挙区不拡大方針をとりながら、次々陸軍行動に振り回される近衛文麿
さすがの西園寺もはらはらし通しだったが
結局失望、曰く
”近衛文麿は徒に陸軍に振り回された市場最低の宰相の一人であった
、日本の破滅は近衛によって始められ、東条英機によって行われた、近衛は首相として陸軍の使用人だった”
日中戦争から日米開戦を準備した近衛文麿(松本清張氏によれば貴族中の貴族と言う理由から、
いつも周辺の人々にとりまかれ、追従を言われ、利口そうに見えても理非の判断が付かず、
人の強い言葉に影響されやすい貴族の痴呆的な血)であったが、戦争末期に至り
真崎甚三郎や吉田茂と共に東条打倒の秘密運動に乗り出す、しかしすでに天皇の信頼を回復する事は無かった

東条英機


華麗にして軽薄な近衛に代わった東条英機
最後の内大臣木戸幸一から天皇の意を挺して軍を抑え日米戦争を回避するには東条しかないと推挙、
天皇は”虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね”と応じた飛び切り几帳面な努力家、配下に対する配慮、
民心掌握にも細々努めたが、残念ながら”軍事官僚”(司馬遼太郎に拠れば集団的政治発狂組合の事務局長のような人)
日米開戦回避にも努めたが、その胆力・度量を見透かされたか現場軍部に一方的に押し切られ、
日米開戦には天皇に力量不足を泣いて詫びたそうである
一方”小心者”のつねか、精神主義者・強権主義者でもあった
”翼賛選挙”を実施、推薦候補を立て、批判的候補には露骨な選挙干渉、事実上の1国1党状態に

*ファシズム
イタリアの”国家ファシスト党”ドイツ・ナチスの”国家社会主義”勢力、
”三国同盟”に参加した日本の軍事独裁政府もファシスト勢力と呼ばれる
@急進的・権威主義的ナショナリストの政治運動
A全体主義的・排外的政治理念
B反自由主義・反共産主義・反保守主義
C一党独裁による専制主義・国粋主義
D指導者の対する絶対服従と反対者の対する過酷な弾圧
しかしこの様な独裁的反動的現象はいつの時代にもあった
ファシズムは社会主義への弾圧、軍需生産と結託した独占資本を特徴とする、
”国家独占資本主義に対応した政治的上部構造”と定義される
しかし国家独占資本主義=ファシズムとも言えない
ファシズムは”後発”の国家独占資本主義に目立った現象である
@ファシズムは高度に発達した独占資本体制を持ちながら、
他方に零細な農民層や生産性の低い中小零細企業を大量にもっている国に生まれた(ファシズムの支持基盤は旧中間階級、
だから民間右翼に見る如く時に反資本主義を唱えることもある)
A経済不況になると
@生活窮乏に対する危機感
A社会主義思想や運動に対する危機感
B既存の価値意識崩壊の危機感
(家父長的家族制度・醇風美俗の衰退・民族の堕落等)
を強く訴えるファシズム運動に
彼ら中間層が共鳴、支持基盤となる(彼らは経済不況の最大の犠牲者だが社会主義には共鳴出来ない故に)
*ファシズムと社会主義
自由を否定する意味で(時に既存の資本主義を否定する意味でも)対極の社会主義・共産主義との類似性は拭いがたい
経済的”階級”概念の認否が大きな違いだが、ファシズムが社会主義の看板を掲げ、
社会主義が国権主義を振り回すのはよく見る通りである
*日本版ファシズムの特色
独・伊のファシズムは従来の政治体制の外側からの大衆的政治運動によるクーデターで
政権を奪取強力な独裁体制を敷く事で成立した
日本では皇道派や民間右翼の運動を弾圧して政府首脳部に入り込んだ統制派等の中堅将校が既存の政治機構の中で
ファッショ化を推し進めた(大衆的基盤を持たない上からのファシズム)
よってムッソリーニ・ヒトラーの様な国民的英雄・独裁者は現れなかった
勿論天皇の主導ですすめられたファシズムではない
(天皇はファシズムを嫌ったが、排斥するだけの権力を持たなかった)
天皇は政治の枠外、天皇制は国民統合の名目に利用されただけ
何故この様な日本独自のファシズムが成立したか
@独・伊に比べても民主主義が未発達(政党や政府は国民とは無関係に党利党略に流された)
A政治システムとしての無責任体制(例えば内務大臣単独責任制、各大臣は天皇のみに責任を負う名目の下、
何人も誰にも責任を負わない体制が創られた)

太平洋戦争の原因
@後発帝国主義路線を選択した日本は朝鮮・中国を”生命線”と考え支配しようとした
A当然、朝鮮・中国は反発する
B南下政策を取るロシア、中国に市場を求めるアメリカ(日本同様後発帝国主義国?)の反発も当然の成り行き
C日本は石油・鉄鋼・工作機械等のほぼ7割を米国からの輸入に頼っていた、米国は日本に対し石油禁輸で応じる
D米国に経済封鎖されれば戦争継続は元より、国家の死活問題、南方に資源を求めるも、
これは欧米の勢力圏、ますます日本は孤立
Eいつ釦を掛け違えたのか、日本は戦争に勝たなければ国家崩壊(実際の所は国家支配者の崩壊)
の袋小路に入り込んでしまった
F明治維新以来営々と築かれた来た独裁政権によって誰も戦争を止める事が出来なくなっていた
G独裁・独裁と言うが、誰の独裁だったのか
人物を特定出来ないのが日本”独裁政治”の特徴だ
軍事政権は天皇を隠れ蓑とし”国体護持”を名目に戦争を推し進めた
天皇は”立憲政体”をもって、口出しを憚った
当時戦争を止め得る者は天皇唯一人であったろう
その天皇は軍の横暴を憎み平和を求めながら、”立憲政体”崩壊を恐れて政治に口を出せなかった
元老・西園寺さえ天皇の口出しを諫めた
かくて全ての指導者が責任を回避、引き返せない流れに身を任せた

太平洋戦争の敗因
@政府・軍部はドイツの過信等国際情勢を的確に捉えていなかった
A圧倒的な国力不足、しかも経済に素人の軍部は軍需生産の読みを誤った
B政府と軍、陸軍と海軍の対立、結果的に軍は”統帥権の独立”を楯に政治の介入を嫌い、撤兵による士気喪失、
国民の不信のみを恐れて無責任な”精神主義”で暴走
C軍と政府(ファシスト政権)は国民に正しい情報を伝えず、マスコミは国威昂揚に躍った
D作戦面での頑なな”精神主義”、兵站無視
(総じて統率力・分析力もなく計画もなく、総力戦とは国民を駆り立てる呪文、
ただ闇雲に国民を泥沼に駆り立てたようですが、追ってより詳しく勉強したいと思います