世界史 ノート 1      

目次
  人類の誕生
  四大古代文明(メソポタミアエジプトの古代オリエント文明・古代中国・古代インド)
  ギリシャローマの地中海文明
   ローマが大帝国になった要因

    ローマ帝国の崩壊要因
  ユダヤ民族の歴史
  イスラムの歴史
  近代中東各国とイスラム原理主義
  国際テロリストのネットワークはどの様に形成されたか(タリバン→アルカイダ→イスラム国
  イスラム過激派は何故かくも過激になったのか?
  イスラム教の功罪   日本人のためのイスラム原論    小室直樹
  中央アジア
  北方民族
  ペルシャの歴史
  トルコの歴史
  モンゴル民族の歴史

世界史を俯瞰する略年表を座右に読んでいただけば有りがたい
自分で作ろうと思ったが、先達が易しく解りやすい年表を沢山作っているので、取り敢えずはリンクします
             
    中学歴史に出る日本と世界の関連年表 (chugaku-rekishi.mobi)

人類の誕生     目次に戻る

 

150億年前  ビッグバン(宇宙の誕生)

45億年前   地球の誕生

400万年目  人類の誕生  猿人(アウストラロピアテクス)

150万年前  原人    北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトス)

20万年前   旧人    ネアンデルタール人

4万年前    現生人類 クロマニオン人

1万年前    食糧生産革命

5000年前   4大文明成立

200年前    産業革命

 

ダーウインの進化論に対する批判として人類と猿を結ぶ中間生物(ミッシングリンク)が発見されていないことが挙げられ

多くの人達がこの中間生物の発見に努力した

結果猿人・原人・旧人の化石が発見されたが、一部の宗教家なる者が、相変わらずミッシングリンクが発見されていないと進化論を否定するのは滑稽である

クロマニオン人の文化遺産  スペイン・アルタミラ、フランス・ラスコー等の見事な壁画、骨角器・細石器等の使用

*しかし最初から躓いた

私が中学生の頃、猿人→原人→旧人→新人の人類の進化をイラスト付で習ったものだが、

人類化石が僅かしか見つかっていなかった時代の謬説という事だ

詳しくは 河合信和 ヒトの進化700万年史

篠田謙一 「アウストラロピテクスが最初の人類」は昔の話? 「人類のルーツ」の最新情報をアップデート

東洋経済オンライン (toyokeizai.net)等を参照されたい

ネアンダルタール人より早くホモ・サピエンスが活躍していた

北京原人等は現代人のDNA痕跡は全くなく、人類進化的観点から傍系に過ぎない

@   700万年前 サヘラントロプスなど初期ヒト族の誕生

エチオピアで発見されたアルディピテクス・愛称“アルディ”、ミトコンドリア・イブ・愛称ルーシーが有名

(但し人類の祖先をイブ或いはアダム一人とするのは無理、でもアフリカ単一起源説はほぼ正しい)

更科 功: ミトコンドリア・イブは全人類の母ではなかった|ブルーバックス |講談社(1/2) (gendai.media)

A   250万年前 ホモ・エレクトスなど初期型ホモ族の分岐

B   20万年前 ホモ・サピエンスの出現

人類の進化と大脳化 -蛭川研究室資料集 (hatenablog.jp)より

そして16万年〜10万年前 アフリカのホモ・サピエンスの壮大な旅が始まる

ヨーロッパ・アフリカ・アジアの各地に分散、自然環境に適応して

コーカサイド(白色人種)ネグロイド(黒色人種)モンゴロイド(黄色人種)等に分かれた

 

1万年前 食糧生産革命 

地球の寒冷化で南下した狩猟民、狩猟には適さないとも言える高温砂漠地帯に辿り着き大河流域で農耕・牧畜の道を発見する(例えば自然の温厚な日本では、狩猟を業とする縄文人の時代が長く続いた)

→治水灌漑事業・土木工事・用水分配の必要から強大な王権と官僚機構の必要→古代国家の誕生

 

大河川の流域に4大文明

 

古代四大文明:

@エジプト  ナイル川周辺

Aメソポタミア チグリス・ユーフラテス川に挟まれた三日月地帯

Bインド インダス河周辺

C中国  黄河周辺及び揚子江周辺

乾燥地帯の大河周辺を中心に食糧生産革命→大規模灌漑工事→都市国家、領域国家、古代国家の形成に伴い発達した文明

西欧でもヘーゲル等が古代四大文明を強調しているが、これらアジアの文明は結局、大河流域に限られたとして閉鎖性、停滞性を強調し、ヨーロッパ人が大航海時代から世界の海に進出したことという歴史認識があった。

一方日本ではアジアには高い文明が有ったことを強調することで、敗戦に打ちひしがれた日本人を鼓舞しようとの意図があった

共通点 大河の近く、暖かい、文字の開発、青銅器の利用

外にアメリカ大陸に栄えたマヤ・インカ文明も古い

いずれにしても四大文明が早くに統一国家を形成したとは言え、当然そのまま人類文明の祖になった訳では無い。周辺の狩猟民族、遊牧民蔵、海洋民族、イスラム文明、地中海文明更にはゲルマン文明等に融合され或いは飲み込まれて今日の文明が形成された

 

古代オリエント文明   

 

メソポタミア文明                                  目次に戻る

3500年 ティグリス・ユーフラテス河畔の肥沃な三日月地帯に展開

ギンガメシュ神話・太陰暦(占星術)・楔形文字・60進法・ギルガメッシュ叙事詩・

ハムラビ法典・ヘブライ人のユダヤ教等

エジプトに比べ統一王朝が変転

シュメール人

系統不明、神権政治(神官や軍人が“神の代理人”として統治)、ウルク・ウル等初の都市国家を樹立

天文学・暦法・楔形文字・等メソポタミア文明の基礎を築く

→前2300年頃セム系民族のアッカド人がメソポタミアを統一(アッカド王朝)サルゴン1世

→シュメール人の都市国家が復興(ウル第3王朝が統一)

→アラビア等の遊牧民(セム系)・アムル人等が侵入(古代バビロニア王国

ハムラビ法典(復讐法・身分法)

→ヨーロッパ系遊牧民等が侵入してバビロン王朝滅亡

ヒッタイト王国が統一、印欧系民族、山の民、鉄器による軍事活動、交易活動でオリエント世界を形成

海の民に滅ぼされたが、その鉄器文化は後のペルシャ王国に受け継がれる

ミタンニ王国、カッシート王国(バビロン第3王朝)と並立

海の民(前1200年頃、東地中海上で活動した系統不明の民族。

ヒッタイト、ミケーネ文明をも衰退に追いこみ、エジプト新王国にも侵入するなど、

西アジアに大きな変動をもたらした。)

→メソポタミア北部に興ったセム系アッシリア帝国が前7世紀には後述エジプト・シリア等も征服、

オリエントを統一した(メソポタミア文明+エジプト文明→オリエント文明)

  もとは商業民族ながら、ヒッタイトの鉄器を学び、鉄製戦車と騎兵隊の強力な軍事力で各国を制圧、

  属州制・総督制・駅伝制の植民地経営は後の多くに帝国に継承された

  征服民に対する態度は重税・大規模強制移住策など過酷をきわめたのが早期滅亡の原因となった

  最盛期 ニネヴェのアッシュー・バニパル王

→前612年圧政のアッシリア滅亡、

4国分立時代(新バビロニア王国・リディア王国・メディア王国・復活エジプト)

→イラン高原でメディアから独立したアケメネス朝ペルシャが前6世紀中頃オリエントを統一

  (BC550-BC330,印欧族・アーリア人、ゾロアスター教)

  ゾロアスター教:善悪2元論(光明神・アブラマズラ、暗黒神・アーリマン)

  専制政治ではあったが、アッシリアに比べ被征服民の自主性を極力尊重して長期政権
  (自国民の不満を外敵拡張でそらし、征服地には圧政と融和策、この兼ね合いは現代帝国主義も変わりない)

  最盛期ダイオレス1世  支配下の民族別に総督を派遣して統治、王の目・王の耳の監視、駅伝制

ギリシャに遠征(後述:ペルシャ戦争

→ダイオレス3世時ギリシャ・マケドニアのアレクサンドロス大王が東方遠征で滅ぼされる

 (イッソスの戦い、アルベラの戦い)

  (オリエント文明+ギリシャ文明→ヘレニズム文明)

 

エジプト文明  前3000年 ハム系民族                         目次に戻る

+太陽暦、パピルス、ピラミッド、測地術、神としてのファラオ、10進法

エジプトはナイルの賜物   ノモス(都市国家)の誕生と統合,

閉鎖的な地形のため単純な王朝交代、26代の王朝、

神との仲介者・神官の絶大権力と書記(文字の発明と神殿財産の管理)

“神の化身”として、絶対的権力を持ったファラオが特徴

来世的文化(ミイラ、死者の書(冥界のオシリス神)

神聖文字ヒエログリフ

古王朝 首都メンフィス ピラミッドの建設(ギザ・クフ王のピラミッド)

中王朝 首都テーベ  騎馬・戦車に得意な民族・ヒクソス侵入

新王朝  トトメス3世シリア・スーダン征服

アメンホテップ四世  アマルナに遷都 宗教改革(多神教的アメン神→アトン一神教)

    ラメス2世 シリアを巡ってヒッタイトと抗争(ガデシュ条約)

 

古代中国文明   後述世界史メモ2にて

 

古代インド

 

インダス川流域にドラビダ人がインダス文明を築いたBC]2300-BC1800年頃

ハラッパー、モヘンジョダロの遺跡が有名、下水道完備した都市計画、焼きレンガ、インダス文字

しかしインダス河の氾濫、都市環境の悪化等で衰退

2000年頃印欧語族の一派アーリア人が中央アジアから西北インド及びイラン高原に侵入、インダス文明の創造者ドラビダ人を征服、ガンジス川流域にまで移住拡大、多くの都市国家群を形成、抗争

神への賛歌リグ・ヴェーダー、バラモン教

バラモン(司祭者)が民間宗教をバラモン教に統一発展させ、クシャトリア(王侯武士)とともに治者階級を形成

農耕商工業に従事する一般自由民バイシャ、奴隷民シュードラ、不可触民バリアの封建身分制が定着

*数多の職業集団ジャーティが四つのバルナに区分される(カースト)

BC5世紀、ゴータマシッダルタが解脱を説く仏教創設、(国家統一のために利用されたが、徐々に民衆から離れ教学中心となってインドでは衰退)

4世紀後半初の統一帝国マウリア朝樹立、第3代アショーカ王がほぼインド全土を征服、征服戦争は残虐を極めたが、終盤仏教の慈悲精神に目覚め、仏教に帰依して民衆を導こうとした

その頃アレクサンドル大王が侵入

AD1-3世紀クシャーナ朝 カニシカ王  ガンダーラ美術、大乗仏教

4世紀グプタ朝開設民間宗教・ジャイナ教・仏教などは、より庶民生活に密着したヒンドウー教(輪廻転生・カルマ・ダルマ)に発展、チャンドラグプタ全盛期、マヌの法典、ナンダーラ僧院等

他にヴァルダナ朝(玄奘の時代)チャーラ朝、バーンディヤ朝等

10世紀半ばアフガニスタンに建国(イランのサーマン朝から独立)したトルコ系ガズニ朝の北インド侵入

12世紀半ばガズニ朝に代ったゴール朝の激しい侵略、ゴール朝出身の武将がデーリーにイスラム政権樹立

16世紀トルコ・モンゴル系部族がデーリーを奪ってイスラム系ムガル帝国樹立

3代アクバル帝が急速に領域を拡大(イスラム・ヒンドウー宥和政策で)

5代シャージャハン、第6代アウラングゼーブは逆に過酷な人頭税(ジズヤ)等で民衆搾取を強めムガル帝国衰退を早めた

 

地中海文明

 

ギリシャ                                   目次に戻る

年表 ギリシャの歴史年表 (europa-japan.com)

伝説のエーゲ文明(クレタ文明・ミケーネ文明

クレタ文明  開放的・平和的文明、クノッソス宮殿(エヴァンズ発掘)、

エジプト・シリア等と東地中海交易で繁栄、クレタ絵文字・線文字A

ミケーネ文明  

ギリシャ人(イオニア人)第1次南下による

  クレタ文明の模倣的、好戦的、小王国の建設、東地中海交易、クレタ線文字B(ヴェントリス解読)

ギリシャ神話 トロイア戦争

ホメロスの叙事詩『イリアス』に物語られるギリシアの王国連合とトロイア王国(小アジアのトロヤ)

の間の10年戦争

 トロイアの王子パリスがスパルタ王の妃でギリシア一の美女と言われたヘレネを誘拐し、トロイアに連れて行ってしまったことから、ミケーネ王のアガメムノンを指揮者として、勇猛無比なアキレウス、知略に長けたオデュッセウス、助言者ネストルなどギリシアの英雄たちがトロヤを攻撃することとなった。ギリシア軍は10年にわたってトロイアを包囲したが、トロイア側も王子ヘクトルなどの名将の下でよく戦った。ギリシア軍は勇士を忍ばせた巨大な木馬をつくり、和平の贈りものと偽って城門を開けさせ、躍り出た勇士がトロイアの王宮を焼き討ちにしてヘレネを助け出したという(「トロヤの木馬」)。なお、この話は、トロイアが落城したとき、ただひとり脱出したアエネアスが地中海各地を彷徨した後、イタリアのローマに至りその子孫のロムルスがローマを建国するというローマ建国神話(ウェルギリウスの『アエネイス』)につながる。

BC12世紀頃ミケーネ文化崩壊(ドーリア人南下説、海の民侵入説)

以後400年ほど暗黒時代 

ミケ−ネ(王政)の崩壊→暗黒時代を経てポリスが形成→アテネ以外大半のポリスは僭主政(独裁制)へ

但し独裁をコントロールする手段をもっていた

ローマにおいてもエトルリア人を王制と共に追い出したローマの“共和制”も元老院貴族に政治を委ねるとは言え、“民会”とか“護民官”のシステムをもって“独裁”をコントロールした

しかしアテネ的直接民主制ともなると、党争やポピュリズムがつきもの、その意味で民衆の利益を代表した後述ペイシストラストの“僭主制”はプラトンも評価したが、個人的力量には限界がある

→クレイステネスの改革。ペルシャ戦争

BC8世紀頃からポリスの形成(軍事上の動機で集住)中心の丘アクロポリス、広場アゴラ

ポリス・アテネの民主制発展

 参政権(裏腹の軍役・武器は自弁)の拡大  貴族・金持ちから平民へ(奴隷は論外)

  海外植民地の建設

(今のマルセーユ・マッサリア、今のナポリ・ネアポリス、今のイスタンブル・ビザンティオン)等

→交易・手工業の発展→武器を買えるようになった平民も重装歩兵として参戦→平民も参政権要求

王政→貴族共和制→

ドラゴン立法(BC621年慣習法を文書化して平民にも公開)

→執政官ソロンの改革(BC594年、財産に応じて権利義務の明確化、負債帳消しで債務奴隷救済)

→ペイシストラストがクーデターで僭主政治(平民が支持)

→クレイステネスの改革(オストラキスモス・陶片追放導入、

僭主登場の防止、地域的“区”デーモスの設定で平民の参政権進展)

ペルシャ戦争BC492年ダイオレス1世、BC490年マラトンの戦い、BC480-479年サラミスの海戦)

200ものポリスに分立している小国ギリシャは何故ペルシャに勝利したのか

ペルシャ軍は支配の諸民族からの徴兵だったが、ギリシャ軍は祖国防衛戦争だった

勝利したアテネはペリクレスの黄金期

  デロス同盟の資金横領でパルテノン神殿(ドーリア式)建設

  最高意志決定機関・民会(18歳以上成年男子全てが参集、直接民主制)

将軍以外の公職は抽選、再選禁止

  奴隷、女性・在留外人に参政権認めず)

一方スパルタはドーリア人が先住民を征服してつくったポリス

 支配者:完全市民(スパルティアタイ)

 商工業に従事する劣格市民(ペリオイコイ)

 奴隷(ヘロット)

 憲法・リュクルゴス制は軍国主義・鎖国主義

 しかしアテネの民主政治もスパルタの市民生活も市民のほとんどを占める奴隷制に負っていた

 労働蔑視の退廃、ポリス間の団結にヒビが入り

ペロポネソス戦争(BC431年スパルタ中心にアテネ・デロス同盟の横暴に反発、アテネの敗北)

コリント戦争(BC395年新興ポリス・テーベ+ペルシャにスパルタ敗北)

覇権はアテネ→スパルタ→テーベ

農村の荒廃、貨幣経済の浸透、貧富格差拡大、市民の没落、重装歩兵部隊の解体、傭兵の登場、

市民皆兵原則の解体、衆愚政治、扇動政治家

折しも北方のマケドニア進出、

カイロネイアの戦いでBC338年フィリッポス2世がアテネ・テーベ連合を撃破

マケドニアがギリシャを支配、フィリッポスはギリシャに新同盟、コリント同盟(ヘラス同盟)を結ばせる

フィリッポスの息子・アレクサンドロスの大遠征、BC330年アケメネス・ペルシャを破る

(イッソスの戦い、アルベラの戦い、アケメネスペルシャ最後の王はダレイオス3世)

ギリシャの内部矛盾を東方植民で解消せんとするもの

ペルシャを撃退し、シリア・パレスティナ・エジプト・メソポタミア・イラン中央アジアの一部・

インドの一部を支配

 ペルシャに勝利するも行政官僚機構を受け継ぎ、ペルシャ人を高官に採用したり、

ペルシャ人との婚礼を奨励するなど融和に努める

ギリシャ文化とオリエント文化の融合、ヘレニズム文化の誕生

アレクサンドロスは帰路32歳で夭逝

ヘレニズム文化

前進基地バクトリア王国からインドに至り

インド・クシャーナ朝のガンダーラ美術

世界市民主義(コスモポリタリズム、理性を持つ存在として人類皆同じ)

アレクサンドリア死後帝国の分裂

後継者争い・ディアドコイ戦争

アンティゴノス朝

 セレコウス朝シリア

 バクトリア

 アルサケス朝イラン

 プトレマイオス朝エジプト(ローマのオクタヴィアヌスに滅ぼされてヘレニズム時代は終焉)

外にホントウス王国、ベルガモン王国等乱立

*アレクサンドロス(3世)大王
後述ローマのカエサル・シーザーと並び称される古今東西一のヒーロー・モテ男
ギリシャの片田舎マケドニア王国の王子、ギリシャ北部独立派を鎮圧、ヘラス同盟の盟主としてギリシャの覇権を掌握しな  がら暗殺された父王の無念を胸に、、マケドニア騎兵隊とギリシャ重装歩兵軍団を率いて東方遠征、小アジア・エジプト・メソポタミアを征服、宿敵ペルシャ帝国軍を破り、地中海を制覇する大帝国を作り上げた
兎に角強かった、15年の戦歴は無敗、更に幼年アリストテレスに師事したインテリジェンスをもって、各地に植民都市アレクサンドリアを建設、ギリシャ貨幣ドラクマを流通させ、ペルシャ他アジア文明とオリエント文明を融合したヘレニズム文明を開化させた(兵士とペルシャ人女性との集団結婚のよる民族融和策?も有名である)
但しアジア解放を唱えた戦いや自らをエジプト王ファラオと称する東方的神格化を受け入れた事も英雄?にありがちな振る舞いも目立った)
侵略はインドにも及んだが志半ば熱病に冒され32才の生涯を閉じた

ローマ                                     目次に戻る

二つのポイント

@政治体制の変化   

印欧民族一派ラテン人がティベル河畔に都市国家ローマ建設(貴族パトリキ+自作農平民プレブス)

 →BC6C末異民族エトルリア人の王を追放して貴族共和制  

元老院+二人の執政官コンスル、非常時に独裁官ディクタトル

 →BC5C頃から軍役に従事する平民が参政権要求(ギリシャ同様の身分闘争)

 →BC494年聖山事件(平民の軍役ストライキに貴族が妥協して護民官設置、平民会公認)

 →BC451年一二表法、BC367年リキニウス法(コンスルの1人を平民から、公有地占有制限)

 →287年ホルテンシウス法(平民会の議決が元老院の承認を待たずに国法)

   平民から成り上がる新貴族ノビレス登場

A領土の拡大  ポリス(都市国家)→BC272年イタリア半島統一

 被征服諸都市を分割統治

   植民市(ローマと対等)

自由市(自治を認め免税)

同盟市

(軍役義務あり、市民権無し、同盟市戦争を経てBC88年全イタリアの自由民にローマ市民権)

AD1世紀後半には地中海世界全体を支配

ポエニ戦争  西地中海を巡って交易都市カルタゴ(フェニキア人)と死闘

 第1回(BC264-BC146年、ローマが勝利してシチリア島を属州に)

 第2回(BC219年、英雄ハンニバルの活躍でカルタゴ勝利、カンネーの戦い、

大スキピオの反撃・ザマの勝利)

 第3回(BC149年)、小スキピオによってカルタゴ滅亡)

マケドニア戦争(BC216−146年、東地中海、マケドニアの分裂王朝アンティゴノス朝滅亡)

BC133年小アジア西岸ベルガモン王国征服をもって、シリア・エジプトを除く地中海世界征服

共和制下

@騎士・エクイテス(階層)の台頭

  平民からの成り上がりだが、名誉家柄を求めて貴族の仲間入りした“新貴族”と違って

  商業・大土木工事・徴税請負等を通じて実利を追求した

A中小自作農(平民)の没落(従軍での戦死や耕地荒廃、属州からの安価な穀物流入で)

  手放した土地を貴族・ノビレス・エクイテスが買い取り、

戦争奴隷を投入してラティフンディア(大規模農業)経営

B平民で構成された重装歩兵部隊解体

内乱の1世紀

@BC138年 護民官・グラックス兄弟の改革

(大土地所有制限→中小自作農の生活再建→重装歩兵部隊再建の狙い)

  有力者階級の妨害で失敗→有力者達の“内乱の1世紀“へ

A平民官・マリウスの兵制改革  傭兵制導入(武器自弁を撤廃、無産農民を兵士に)

  →有力者の私兵化現象

Bスラ、ポンペイウス(スパルタクスの乱を鎮圧)、

クラッスス(シリア、パレスチナのセレコウス朝征服)活躍

政治軍事の実権者が相次ぐ反乱を鎮圧→個人への権力集中是認

CBC80年第1回三頭政治  ポンペイウス、クラッスス(パルイア遠征)、カエサル(ガリア遠征)

ポンペイウスが元老院と組んでガリア遠征中のカエサルを裏切る→“賽は投げられた”カエサル反撃

DBC4644年カエサル独裁  独裁官から終身独裁官、皇帝への就任も度々勧められたが何故か謝絶(皇帝位には就かなかったが事実上のローマ帝国初代皇帝

 ガリア征服、エジプトも支配下に

 ユリウス暦(太陽暦)制定

 共和主義者 プルートゥス。カッシウスによって暗殺

*ジュリアス・シーザー
シーザーも強かった。文才も”ガリア戦記”で有名
おまけに”強い男の優しさ”で国民的人望が湧き上がった
捨て置けなかったのが元老院の貴族連中、独裁阻止と言えば聞こえが良いが、自分たちにはない人望への”妬み”
シーザーは暗殺されたが、ローマーは”共和制”から”帝政”へ、ローマ帝国の道が開かれた
シェクスピアの”ジュリアス・シーザー”
シーザーに”ゾッコン”の塩野七生先生の”ローマ人の物語

E第2回三頭政治 オクタヴィアヌス・アントニウス・レビドゥス

オクタヴィアヌス 対 アントニウス(+クレオパトラ) アクティウムの戦い

Fアントニウス破れクレオパトラも自害、プトレマイオス朝滅亡 BC30

オクタヴィアヌスによって地中海世界統一、帝政へ

前期帝政BC27-AD284

@オクタヴィアヌス(アウグストゥス・初代皇帝)時代

AD9年ゲルマン人と戦い(トイトブルク森の戦い)敗北、ライン川が国境になる

ラテン文学黄金時代 ヴェルギリゥスのアエネイウス

2代目ティベリウス  キリスト処刑(実行はユダヤ総督ピラト)

5代目暴君ネロ  ペテロとパウロ殉教

A五賢帝の時代 AD96-180年  

ネルヴァ帝

トラヤヌス帝(ヒスパニア・スペイン出身)ダキア(ルーマニア)メソポタミアを領土に

ハドリアヌス帝  防壁・ハドルアヌスの壁を建設

アントニヌス・ピウス帝

マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝   ストア派の哲人皇帝、自省録

ローマの全盛期  パックス・ローマ

季節風貿易・シルクロード両路を通じて交易発展

ローマ風の都市建設  

  ロンディニウム(現ロンドン)ヴィンドボナ(現ウイーン)ルテティア(現パリ)

フォルム(広場)には円形闘技場や公衆浴場、上水道・下水道完備

公用語ラテン語・ローマ字、度量衡、貨幣の統一、道路網整備、駅伝システム

属州の有力者にローマ市民権付与

軍人皇帝時代直前のカラカラ帝、アントニヌス勅令(帝国内全自由民に市民権付与)

B軍人皇帝時代 地方軍人が擁立した皇帝が相争う混乱時代

原因

領土の拡大と共に、東にパルティア・ササン朝ペルシャ、北にゲルマン人の脅威

→地方に強い軍事力

経済の遠心化(地方の農業生産がイタリアを上回る状態)

ゲルマン・パルティア・ササン朝の侵入  ヴァレリアヌス帝はササン朝シャープール1世に殺害される

混乱に乗じた奴隷・農民の反乱    ガリア(フランス)の反ローマ農民運動(バガウダエ運動)

後期帝政 AD284年〜

ディオクレティアヌス帝

  専制君主制(元老院等無視の個人独裁)

  官僚制整備

  四分統治(帝国を4分割、4人の皇帝)

  皇帝崇拝を強要

  キリスト教大弾圧 303年の大弾圧(30年 キリスト 十字架刑と復活)

コンスタンティヌス帝  324年四分統治廃止

  キリスト教公認(ミラノ勅令、313年)

  ニケーア公会議 325年  三位一体説のアタナシウス派を正統、アリウス派を異端とする

  ビザンティウム遷都 330年、コンスタンティノープルと改称

  ソリドゥス金貨鋳造

  土地緊縛令

ユリアヌス帝

  異教の復活、背教者、」ペルシャ起源のミトラ教に心酔?

テオドシウス帝

  392年キリスト教国教化

  395年帝国の東西分裂      東ローマ帝国はビザンツ帝国

 

ローマが大帝国になった要因

 システム化された軍隊(軍事教練、百人隊長の指揮下、完全にコントロールされた集団戦を得意とした)と重装備

 (これが寄せ集め傭兵軍団のペルシャに勝てた勝因だ)

 敗戦国から略奪せず自国に組み入れた (法の民と呼ばれ、能力さえ有れば出自を問わず登用、)

 軍隊は常に道路を造る工兵を連れていた、彼らが造ったローマに通じる街道のお陰で完璧な兵站

 独裁制・貴族制・民主制と政体が循環したギリシャに対し、ローマは3要素のバランスがとれた混合政体だった
 (本村凉二説)

 おしなべて融和的(宗教もキリスト教公認以前は多神教)

理想を追いかけるより現実をソフィスティケート(都会的洗練、改善能力)する能力に優れていた

 上から下まで傲慢ではなく敬虔な姿勢をモットーとした(ゲルマン移動で寛容な精神的余裕は失われた)

 一方、 “ローマ人は廃墟をつくって、そこを平和と呼ぶ”属州支配は過酷だった(スパルタクスの反乱)とも言われる
 
 (強さの二面性、強弱併せ持たねば戦いに勝てない、”帝国”とはそういうもの?、
  問題は未だに帝国主義的手法を信じているお国が多いこと?)

  ”帝国主義”については、もう少し勉強します

 ローマ帝国の崩壊要因

 インフラの劣化(奴隷制に頼ってイノベーション気質が弱かった)
 ”仕事”と言うのは有りがたいものです。”仕事”を通じてこそ、”アイデア”を生み、”イノベイト”にかき立てる

 領土が広がりすぎた

 キリスト教徒の増加に伴う宗教的対立や暴君による腐敗政治、ゲルマン人・ササン兆ペルシャ等異民族の侵入

 それに備える軍、専制君主を支える官僚郡の膨張による膨大な国家予算

 財源として都市部に重税、それを逃れるための有力者の離反、奴隷農民の反乱

フン族のヨーロッパ侵入に始まるゲルマン民族の大移動

 →395年テオドシウス1世の帝国二分割→ゲルマン民族によって476年西ローマ帝国滅亡、
 
 →1453年東ローマ帝国(ビザンツ帝国)オスマン・トルコによって滅亡

*土地所有制度の変遷

BC2世紀半ば ラティフンディア

ローマの海外発展で自作農没落→有力者がその土地を得て戦争奴隷を投入して大規模農業経営

AD2世紀頃から“ローマの平和”で戦争奴隷減少、奴隷達に土地を与え小作契約(コロナトゥス)

  奴隷に収穫の一部が残り家族を持てるようになった

コンスタンティウスが徴税の便宜上、小作人(コロヌス)の移動を禁止(土地緊縛令)→農奴の原型

 

シリア・パレスティナ等地中海東岸

 

海の民がエジプト新王朝、ヒッタイト勢力を駆逐した政治的空白状態の乗じて

フェニキア人  地中海を中心に海上貿易  ベリトス(ペイルート)シドン、ティルスを拠点、

アルファベットの原型をギリシャ人に伝える

アラム人   陸上通商に得意、ダマスクスを拠点、アラム文字はアラビア文字のもと

ヘブライ人(ユダヤ、イスラエル人)等勢力割拠

 

ユダヤの歴史                             目次に戻る

 

20世紀

アブラハムが神と契約メソポタミアのウルからカナンへ

17世紀

飢饉でエジプトに移住、奴隷となる

15世紀

モーゼに率いられて出エジプト、神から十戒を授かる、ユダヤ教の成立

11世紀

イスラエル王国建国(サウル、ダビデ、

ソロモンーエルサレムにヤハウェ神殿建設)

10世紀

イスラエル王国南北分裂

BC722

北のイスラエル王国、アッシリアによって滅亡

BC586

南のユダ王国、新バビロニア(ネブカドネザル王)によって滅亡、バビロンの捕囚時代の始まり

BC515

新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャによって解放

BC63

アケメネス朝滅亡後、マケドニア王国・セレウス朝シリア等に宗主国が引き継がれ、最終的にローマ帝国の属州となる、この頃ユダヤ教教義も確立

BC4

イエス・キリスト誕生

ユダヤ教の特色

 

 

ヤハウェ信仰の一神教

偶像崇拝禁止

選民思想

メシア待望

その後のユダヤ民族の歴史
379年 ローマによってキリスト教が公認されたが、ユダヤ人は公職から追放される
11〜13世紀 十字軍遠征によるユダヤ人虐殺
1479−1492年 スペインでユダヤ人の宗教裁判、強制改宗・追放
1555年 イタリア等諸国がユダヤ人追放
1871年・1903年 ロシアによるユダヤ人大量虐殺
1939年 ドイツ・ナチスのホロコースト(ユダヤ人絶滅政策)600万人虐殺
ユダヤ教とキリスト教・イスラム教は宗教的に兄弟、尚更有能な民族故に迫害・追放と離散、亡国を余儀なくされた悲劇
悲劇だけではない、ヨーロッパから追放されたユダヤ民族の一部は、米国に逃れ
米国ひいては世界の政治経済を左右する力量さえ身につけたのだが
(余談だがヒットラーのユダヤ人絶滅政策はユダヤ人の才能を恐れたのでは無いかとも思う)
そして第1次世界大戦末期英国がサンクス・ピコ協定でスマン帝国から手に入れたパレスティナの地を
こともあろうに流浪の民ユダヤ民族とアラブ民族に委ねるダブル・ブッキング(世に有名な”三枚舌外交”)
勇躍、旧約聖書伝来の”神から約束された地”に戻れたユダヤ民族の慶びはいかばかりか
しかしその地には先住のアラブ民族がいた(後述)
1948年 民族の悲願イスラエル建国、即アラブの反撃、第1次中東戦争勃発、イスラエル勝利・領地拡張
1956年 第2次中東戦争 エジプトを中心にアラブの反撃、パレスチナ解放機構(PLO)組織
1967年 第3次中東戦争 イスラエルの猛攻(6日間戦争の奇襲)、領地を大幅に広げ、パレスティナ難民
1973年 第4次中東戦争 エジプト・シリア等アラブ側の反撃から始まる
2024年 昨今パレスティナを実効支配するイスラム原理主義の過激勢力・ハマスとイスラエルの死闘
ハマス:「アメリカがエルサレムをイスラエルの首都と認めたりすれば、
『インティファーダ』と呼ばれる民衆蜂起をパレスチナの人たちに呼びかける」
ユダヤ民族も気の毒だが、アラブ民族にも言い分が有る(オスマン帝国支配下、少なくとも平和に暮らしていた)
バックにかたや豊富な石油利権を持つアラブ諸国、かたや米国多国籍企業を左右するユダヤ金融資本の暗闘が
果てしなく続く

イスラムの歴史                             目次に戻る

日本人である私はイスラムと言えば何か如何わしい気がするのも事実だが

マホメットが商人の出であることもあって、その教理は善し悪し別として驚くほど合理的である

六信(神・天使・啓典・預言者・来世・天命)

五行(信仰告白・礼拝・断食・巡礼)

https://www.f-tsunemi.com/what-is-islam/イスラムとは?

@アッラーへの絶対的帰依(一神教)

アッラーとヤハウェは同一、ムハンマドは最後にして最高の預言者

Aマホメット自身、神であることを否定、イエスも含め予言者の一人であると明言

B神の人格化、偶像化を徹底的に否定、モスクには石ころ一つあるだけとか

C生活規範の徹底、聖職者は認めず(ウラマーはイスラムを勉強した知識人、指導者)

D信徒ムスリムはアッラーの前で皆平等→富裕階級のクライシュ族が反抗、イスラム弾圧

 後述 聖遷(メッカからメディナへ)

現在その急進性には目を背けたくなるが、多分に欧米列強に追い込まれたせいも強いのではないか

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通点

@セム系民族A砂漠の宗教B苦難の歴史

参照:hisaoのブログ

中東から見た世界史ww2.tiki.ne.jp/~h-hidaka/newpage11.htm

イスラームについてのまとめww2.tiki.ne.jp/~h-hidaka/newpage13.htm

1.    イスラム教成立以前のアラビア

セム系アラビア人

遊牧民ベドゥイン

ペルシャ湾岸の交易都市南アラビアにはサーバ王国、ヒムヤル王国など交易都市が繁栄

6世紀ササン朝ペルシャとビザンツ(東ローマ)帝国の抗争の合間を縫って、紅海沿岸のアラビア(ヒジャーズ)の交易・商工業が発展(都市メッカ・メディナ等)→貧富格差拡大(商人貴族クライシュ族と貧民層)

→ムハンマド(自身はクライシュ族ハーシム家)が啓示

2.    イスラムの成立(7世紀)

ムハンマドが預言者として活動を開始し、イスラム教が誕生

622:ムハンマドとその信者がメッカからメディナへ聖遷(ヒジュラ)1

イスラム教徒共同体ウンマ創設、ムハンマド自身剣を取って戦う(その求心的戦闘性が今に至る)

クライシュ族らとバドルの戦い

632年ムハンマドがアラビア半島統一、ムハンマドが夭折したエルサレムに“岩のドーム”建設

イスラム王朝一覧 世界の歴史マップより

3.    正統カリフ時代(632年?661年) 

カリフ=ムハンマドの後継者(但しムハンマド同様に立法権、教義決定権は無い)

ムハンマドの死後、最初の4人のカリフ(アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリー)が統治1

イスラム帝国の急速な拡大が始まる1

(ジハードも展開、ビザンツ帝国からシリア・パレスティナ・エジプトを奪う、ウスマーン時コーラン編纂)

4.    ウマイヤ朝(661年?750

ムアーウィヤがカリフとなり、ダマスクスを首都とするウマイヤ朝を建国、(カリフが世襲制に)

スンナ派とシーア派(暗殺されたアリーを支持)分裂

少数派シーア派@ファーティマ朝(10Cエジプト)Aブワイフ朝(10Cイラン)

Bサファヴィー朝(16Cから18Cイラン)

ビザンツ帝国のコンスタンティノーブル攻撃はじめ盛んな聖遷

ジブラルタル海峡を渡って西ゴート王国攻略、イベリア半島支配

更にピレネー山脈を越えてフランク王国と激突、

メロヴィング朝フランク王国の宮宰・カール・マルテルに敗れる(732年:トゥール・ポワティエ間の戦い)

後述651年ササン朝ペルシャを征服、ペルシャ民族のイスラム化とともに、

イスラムがペルシャの科学・技術を吸収、絢爛たるイラン・イスラム文明が築かれていく

イスラム王朝の征服地支配は回収を強制しないことを特徴とする

“イスラム教徒になるか、税金を払うか?両方とも嫌なら剣(戦争)だ”

アラブ人でないイスラム教改宗者=マワーリーに人頭税ジズヤ、土地税ハラージュが課された

ウマイヤ朝滅亡の原因はアラブ人第一主義、反発したマワーリーの不満を吸収した

アブーアルアッパーズがウマイヤ朝を倒してアッバース朝建国(アラブ帝国からイスラム帝国へ)

カリフに

5.    アッバース朝(750年?1258年)

アブー=アルアッバースがウマイヤ朝を倒し、バグダードを首都とするアッバース朝を建国1

イスラム文化と学問が大いに発展1

アラブ人の免税特権廃止(ハラージュのみの義務)、マワーリーに対してもジズヤ廃止、

世界宗教として急速に発展する

首都 バクダード

イスラム教は民族による差別を否定し、信者の平等を説く。

この世界宗教としての普遍性ゆえに、イスラム教は多くの人々に受入れられ、

やがて各地の地域的・民族的文化の特色も加味して、

イラン・イスラム文明、トルコ・イスラム文明、インド・イスラム文明が形成された

10世紀トルコ人によって建国されたカラハン王朝はイスラム教を国教として

トルコ・イスラムの世界が誕生

アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、

やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した(後述)。

しかしさしもの大帝国(オスマン・トルコ)も近代化に遅れて衰退、第1次大戦でドイツ側についたのが致命的となり。1922年滅亡

8世紀後半のイスラム世界はアッバース全盛期

アッバース朝 751年唐とタラス河畔の戦いに勝利  ハールーン・アッラシード  製紙法伝来

  ササン朝ペルシャで育ったイラン人官僚が活躍(予算管理)

  イスラム法の整備 シャリーア(ウラマーによる解釈法)

  ハールーン・アッラシードがバクダードに建設した図書館“知恵の館”

  ギリシャ文化(医学・天文学・哲学)の流入と交易(ムスリム商人がダウ船でインド洋を経て中国まで)

コルドバに後ウマイヤ朝

現モロッコ辺りにイドリース朝

6.→10世紀半ばのイスラム世界

分裂の時代(アッバースのカリフは実権喪失、中央アジア全体がイスラム世界に)

原因は軍人奴隷・マムルークを含むアミール達(各地の将軍・総督)が独立

後ウマイヤ朝は最盛期  アブド=アッラフマーン3世カリフを名乗る

アンダルシア地方で灌漑農業発達

北アフリカ・エジプトにファーティマ朝(もとはチュニジアに建国されたシーア派王国)

  アズハル学院建設、シチリア島を支配していたアグラブ朝を打倒、地中海貿易覇権獲得へ

現イラン地方にシーア派イラン人の軍人政権ブワイフ朝

  946年バクダードを占領してアッバース朝カリフの実権を奪い、イラン・イラクを支配(大アミール)

  アッバース朝のスンナ派カリフが、シーア派の大アミールに

イスラム法の執行権をゆだねる代わりにその保護を受けるという見返りを受けた

  イクター制導入(軍人に俸給の代わりに徴税権を与え、軍人はその見返りに丙子を養い軍役義務)

ブワイフの北にサーマーン朝、中央アジアのイスラム化促進

その東にカラハン朝(中央アジア初のトルコ系イスラム王朝、11世紀に東西分裂、東カラハンは西遼の支配下、西カラハンはセルジューク朝支配下に)

 

7→11世紀半ばのイスラム世界

ムラービト朝 イベリア半島南部と北アフリカを支配(ベルべル人)哲学者イブン=ルシュド

 西アフリカの黒人国家ガーナ王国を滅ぼす

 自身は同じベルベル人のムワッヒド王朝に倒された

ファーティマ朝は依然として紅海沿岸(ヒジャーズ)を支配、紅海商業圏を確保

ブワイフ朝の侵略でペルシャ湾〜バグダードが混乱すると、紅海〜カイロの交易ルートが繁栄

ファーティマ朝に代ってエジプトを支配したアイユーブ朝も(クルド人、サラディンが建国)同様に繁栄

セルジューク朝

創始者トゥグリル=ベク、ブワイフ朝を打倒、アッバース朝カリフからスルタン(非宗教的統治権)の称号、その後マンジケルトの戦いでビザンツ帝国に勝利、小アジア半島を支配下に(ルーム=セルジューク朝開設)→ビザンツ帝国の十字軍派遣

 マリク=シャー、宰相ニザーム=アル=ムルク、シーア派のファーティマ朝アズハル学院に対抗してニザーミーヤ学院開設、詩人オマル=ハイヤームの四行詩ルバイヤード

カズナ朝

現アフガニスタンのトルコ系政権

 民族叙事詩王の書を著わしたフィルドゥシー

スルタン・マフムードはインドに侵入してイスラム化の端緒

 

8→13世紀のイスラム世界

マムルーク朝   アイユーブ朝を継いでエジプト・シリアを支配

マムルーク=トルコ人を中心とする奴隷兵(金銭で売買された奴隷で身分は低いが、戦争で活躍、政治的発言権も増大、王朝を創設する者も)

エジプトに建設されたアイユーブ朝のサラディンは第3回十字軍を破ってイスラム防衛

マムルーク朝 四代目のバイバルスは第6回7回十字軍とフラグ率いるモンゴル勢力の挟撃を退けイスラムを守った

サトウキビ生産と紅海インド洋交易で経済的にも繁栄したが、14世紀のペスト流行、ポルトガルによるインド航路開発、ディウ沖海戦での敗北でマムルーク朝は崩壊したが、

イル=ハン国

  1258年モンゴルのフラグによってアッバース朝を征服、イスラム世界のど真ん中に打ち立てられた

  当初はイスラムを弾圧したが、ガザン=ハンの時代にイラン人の宰相ラシード=ウッディーンの協力で

  保護政策に転じた

その他モンゴル帝国が瞬く間に中央アジアを席捲(後述)

ナスル朝  首都グラナダのアルハンブラ宮殿  

イベリア半島南部 イベリア半島最後のイスラム王朝 スペイン・イサベルに滅ぼされる

奴隷王朝

  インド初のイスラム王朝   ゴール朝の将軍アイバク(マムルーク出身)が建国

短命な5カ国のデリー=スルタン朝が続く

ス−フィー(イスラム神秘主義者)の活躍でインドに浸透

915世紀前後のイスラム世界

ティムール帝国

  ティムールはモンゴル系、トルコ語を喋りイスラムを信奉

西チャガタイ=ハン国出身、中央アジアのオアシス商人が支援

中央アジアを拠点(首都サマルカンド)にメソポタミア〜インダス河流域まで支配

トルコ=イスラム文化の成熟

アンカラの戦いでオスマン帝国(後述)を破るが、死後トルコ系遊牧民ウズペク族(以後、帝政ロシアに征服される)に滅ぼされる

マラッカ王国

  東南アジア、鄭和の大遠征を契機に、明から冊封、朝貢→アラッカ海峡一帯の交易を主導

1015世紀以降のイスラム世界

再びトルコ人がイスラム世界の覇権を握った

オスマン帝国によってバルカン半島(ヨーロッパの一部)がイスラム世界に編入

16世紀の5大帝国  明・スペイン、そしてイスラム3国(オスマン・サファヴィー・ムガル)

ムガル帝国

 ティムール帝国の残党ハーブルが最期のデリー・スルタン・ロディー朝を倒して建国

 第3代アクバル帝、第5代シャー=ジャハーンのタージ=マハル廟、

第6代アウラングゼーブ帝は最盛期を誇ったが、ヒンドゥーの弾圧等強引な手法に反抗を受け衰退へ

サファヴィー朝ペルシャ

オスマン朝の東  イスマーイール1世の建国、シーア派を国教としてイラン民族の結束、首長はシャー

第5代アッバース1世、イスファハーンに遷都

オスマン朝と戦いメソポタミアを奪還、ホルムズ島からポルトガル駆逐(英東インド会社が支援)

オスマン=トルコ帝国

11世紀後半からルーム=セルジューク朝の支配下にあった小アジア

→13世紀モンゴルがもたらした混乱に乗じて、オスマン=ベイが自立して建国、首長はスルタン

→14世紀後半バルカン半島に侵入、コソボの戦いでセルビアを撃破、

ニコポリスの戦いでヨーロッパ連合を撃破

1402年最盛期ティムールとアンカラの戦いに敗北、滅亡の危機に瀕したが

1453年メフメト2世がコンスタンティノーブルを占領、ビザンツ帝国を滅亡させた

1517年には「セリム1世がエジプトのマムルーク朝を倒し、そこに避難中のアッバース朝カリフから

 カリフの位を奪取

1529年スレイマン1世ハンガリーを制覇(ハンガリーはハプスブルクと2分)

1次ウイーン(カール5世)包囲

→ブレヴェザ海戦でスペイン等に勝って地中海制覇

1683年第2次ウイーン包囲は失敗、カルロヴィッツ条約でハンガリー喪失、

フランスと同盟カビチュレーションを与える(@通商交易の自由・免税A自国法による領事裁判権の恩恵的特権、後に英・蘭にも)


              
   世界の戦争・歴史ブログ オスマン帝国の興亡より

オスマン=トルコ軍事行政システム

兵制:火器を装備し、良く訓練された歩兵常備軍団イエニチェリはオスマン強さの秘密だった(イクター制はティマール制に継承された

 デウシルメ:キリスト教徒を強制徴用して改宗・教育・訓練、イエニチェリの先頭に立たせた

ミッレト:非イスラム教徒の共同体も認めた

コーランを補完する解釈法シャリーア、慣習法カーヌーンを盛んに定めた

 行政はマドラサ(イスラムの学校)で学んだウラマー(神学者・官吏等知識人)が行った

1914年 
ウイーン包囲の失敗からエジプト・ギリシャ・バルカン諸国独立して帝国は衰退、その劣勢を取り返すべく第1次世界大戦でドイツ側に立つも敗戦

1922年
オスマン帝国解体、青年将校が革命政府”トルコ共和国”樹立→近代イラクへ

その後イギリス統治下のパレスティナ(旧オスマン帝国の一部)とアラブ諸国はイスラエルとの中東戦争の死闘を繰り広げることになる(前述)

近代中東各国とイスラム原理主義 目次に戻る

**パレスティナと中東戦争
歴史的シリアと言う歴史的呼称がある、第1次世界大戦後、英仏によるオスマン帝国領分割によって線引きされる前の土地である
現在のシリア・アラブ共和国、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む
イギリスがトランス・ヨルダンとパレスチナ、フランスがシリア・アラブ共和国とレバノンを手に入れた
パレスチナとはイスラエル建国以前は、現在のイスラエルとパレスチナ自治区の両方を含んだ土地を意味するが、1948年以降は現在のパレスチナ自治区のみを指す場合が多い
古代エルサレムは創世記神話の世界である
(天地創造、アダムとイブ失楽園、カインが弟アベルを惨殺、ノアの箱舟・バベルの塔、アブラハム・イサク・ヤコブの物語、ヨセフの物語)
エルサレム、聖書ではカナン、シリアとエジプトの中間、西は地中海、東はアラビア砂漠、北はレバノン渓谷、南はガザ谷に至る
アフリカ大陸とユーラシア大陸の交点に位置し、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地を共有
前述、英国の三枚舌外交が招いたイスラム民族とユダヤ民族の果てしない抗争
1947 ダブルブッキングの尻拭いを国連に委ね、国連はパレスチナをアラブ人・ユダヤ人居住区に強制分割、両者の聖地・エルサレムは国連管理地区とする
”ユダヤ人は票になるが、アラブ人は票にならない”時の米国大統領・トルーマンの言葉である、
ユダヤ資本の経済力・発言力に牛耳られたアメリカは徹底的にユダヤと一体である
1948 ついにイスラエル国が独立宣言を強行、収まらないのはアラブ、アラブ諸国連合軍(エジプト・シリア・ヨルダン・レバノン・イラク)がパレスチナに侵入、
第1次中東戦争勃発
パレスチナはイスラエル・エジプト・ヨルダンに3分割、エルサレムもイスラエル・ヨルダンに分割
1952 エジプトのナセルがクーデターで国王追放、エジプト共和国設立
1956 ナセル・エジプト大統領、スエズ運河国有化宣言
スエズ運河:フランス・エジプトの合弁会社として仏のレセップスが建設、財政難でエジプトが株式をイギリスに売却、
イギリスが大株主となり、イギリスの交易要路・収益源となっていた
ナセルは治水の為の急務、アスワン・ハイ・ダム建設への融資をアメリカに求め、拒否されたのでスエズ運河国有化で報いた
イスラエル・英・米・仏が猛攻撃、第2次中東戦争に突入、ナセルは一応スエズ運河国有化を成功させ非同盟諸国首脳会議を主導した
冷戦下ソ連がダム建設融資と戦争援助を申し出てナセル民族主義は社会主義に傾斜
アラブ民族主義によるサンクス・ピコ協定打破を打ち出し、社会主義を唱えるが非同盟、第3世界の雄となる
私事で恐縮だが、其の頃高校1年生の私、先生からスエズ戦争に関する新聞スクラップを宿題に与えられた事が懐かしい、今も大して変わらない
1964 人民軍PLOパレスチナ解放機構結成
1969 アラファトがPLOの実権を握り反イスラエルのテロ闘争激化
1966 シリア革命で左派政権が誕生、アラブ民族主義昂揚にイスラエルが反撃、アラブ=ソ連の抗戦、第3次中東戦争
1967 イスラエル”6日戦争”の奇襲でヨルダン領ヨルダン川西岸、エジプト領ガザ地区・シナイ半島、シリア領ゴラン高原を占領
パレスティナ難民はガザ地区・ヨルダン川西岸を追われ愈々逃げ場が無くなった(PLOは亡命政府としてヨルダン・レバノン・チュニジア転々)
1973 エジプトとシリアがイスラエルを攻撃、アラブ諸国は石油禁輸で抵抗、第4次中東戦争と第1次オイルショック
1977 キャンプ・デービットの和平合意(エジプト・サダト大統領とイスラエル・ベギン大統領)
1981 和平を推進したサダト暗殺
1982 イスラエルのレバノン攻撃(レバノン戦争)でPLO大打撃を受ける
1993 オスロ合意でイスラエルとPLOが相互承認、イスラエルとヨルダンが国交樹立、一方和平推進のラビン首相暗殺、米仲介のキャンプデービット会談は失敗
 ヨルダン川西岸地区及びガザ地区を一応パレスチナ自治区とする
2004 PLOアラファト議長死去
 イスラエルによるパレスチナ侵攻でオスロ合意は崩壊、パレスチナ過激派による抵抗テロが激化
 ヨルダン川西岸は穏健派ファハタ(主流派であったが腐敗)が支配、ガザ地区は原理主義過激派ハマス(ムスリム同胞団パレスチナ支部)が支配、
 パレスチナ内部も分断状態、アメリカ・イスラエルはハマスをテロリストと指定
2006-
2009
イスラエルのガザ大虐殺、ガザ地区に隔離されたパレスティナ人を空爆・猛攻
アメリカは常にイスラエルの味方だった
理由はアメリカに在住して富と名声を得たユダヤ人がイスラエル・ロビーとしてアメリカ政界に絶大な影響力を保持しているからである
2023-
2024
ガザを実効支配するハマス突然イスラエルを攻撃、人質、一方イスラエルの猛攻反撃、今日に至る
**シリア
1936 セーヴル条約でオスマン帝国から分割されフランスの委任統治下にあったシリア、1936年独立が認められた
1970 クーデターでアサド独裁政権成立(現在は息子が世襲)
冷戦時代からのソ連寄り、反米
バース党一党独裁、小数シーア派が国民多数のスンニ派を押さえつける構造
ムスリム同胞団を弾圧
アサド政権(シーア派代表のイランが支援)と反政府勢力(スンニ派代表サウディアラビアが支援)が内戦状態が続いている
近年ISISの支配拠点も急速に広がりを見せている(後述)
**エジプト
BC2686-
2185
古王朝 ピラミッドを建設
BC2040-
1782
中王朝
BC1570-
1070
新王朝 アメンホテプ4世の宗教改革(アモン神→アトン神)
BC525-
332
アケメネス朝の支配 ペルシャ王朝
380-642 ビザンチン帝国の支配
639-1250 イスラム帝国の支配 ウマイア朝→アッバース朝→ファーティマ著
1250-1517 マムルーク朝の支配
1517-1805 オスマン帝国の支配
1981 第4次中東戦争での活躍で大統領になった軍人ムバラク
1805-1882 マハンマド・アリーの近代化 オスマンのエジプト総督
1922 エジプト王国成立 イギリスの間接支配
1948 第1次中東戦争敗北 経済悪化、ムスリム同胞団台頭
1953 エジプト革命 ムハンマド・アリー朝打倒、共和制へ
1956 ナセル大統領 アラブ民族主義、第3世界の雄、スエズ運河国有化、第2次中東戦争
1958-1961 アラブ連合共和国 シリアと連合
1962 北イエメン内戦 ソ連とともに共和派支援(王統派サウディ・ヨルダンと対立)
1967 第3次中東戦争(6日戦争)敗北
1970 ナセル→サダト大統領 イスラエルとの融和政策
1971 エジプト・アラブ共和国に改称
1981 イスラム過激派ジハード団がサダト暗殺
ムバラク大統領 対米協調の開発独裁、イスラム主義運動弾圧
2011 ”アラブの春”(後述) 40年近く独裁の続いたムバラク大統領の退陣、”ムスリム同胞団”の活動家ムルシーが大統領に
かってイスラエルとの妥協を嫌い中東和平を推進したサダト大統領を暗殺したのがムスリム同胞団である
ムバラクは過激派ムスリム同胞団を弾圧する事でアメリカから支援を受けていた
ムバラク退陣で息を吹き返したムスリム同胞団への国民の不安、そしてムルシー大統領は経済失政で失脚
その間隙に軍事政権が復活(シシ前国防相が大統領に)、元のもくあみとなった
2013 エジプト軍のクーデター ムルシーは大統領職を追われたがムスリム同胞団(ムルシー派)が反抗、内紛状態
**親米を貫いて来たアラビア半島はどうだったか
アラビア半島はメッカ・メディナのイスラム二大聖地を持つイスラム教発祥の地であるが
半島そのものは政治的・経済的に見るべきものが無く、16世紀初め一部がオスマン帝国の支配下に入ったものの中小部族が抗争する辺境地だった
大英帝国が対インドへの交易路を確保するためアラビア半島ペルシャ湾岸に目をつけた
アラブ中小部族の抗争を利用して一部の部族長と手を結んだり、お決まりの砲艦外交でこの地をインド大陸支配の戦略拠点とした
アラブ部族の首長たちは大英帝国と手を結ぶ事で他の部族に対する優位を得た
今に至る中東諸国の支配者と欧米巨大国との蜜月の構図である
一方オスマンの支配下、ムハンマド・サウドとムハンマド・ワッハーブ(スンニ派系)が軍事・宗教面で同盟してオスマンに抵抗
(トルコ支配へのアラブ民族抵抗の基礎)
第1次ワッハーブ王国1746〜1818年  第2次ワッハーブ王国1823〜1889年→エジプトに滅ぼされる
オスマン帝国は当時の本拠地エジプトから反撃
第1次世界大戦でオスマン帝国滅亡後、大英帝国はアラブの名門ハシーム家にオスマン抵抗の代償としてイラク、ヨルダンを与えて間接支配
1932 サウディ家(イブン=サウード)がハシーム家に対抗してサウディアラビア王国建国
(ワッハーブ王国再興、イギリスとサウド家の不協和音に目を付けたアメリカがバックアップ)
米合弁会社アラコムによって超巨大油田を開発、膨大な油田収入で浪費を欲しいままにするサウドから弟ファイサルに政権移転近代化推進(1964年)
ファイサル暗殺され異母弟ハリド、ファハドが王位継承
サウディ家は憲法も議会も認めぬ@封建的王政、シーア派代表イランに対してAスンニ派代表としてイスラム盟主を自認、徹底したB親米政権
1951 米・サウディ間に相互防衛援助協定
アメリカ・サウディ蜜月の理由
@巨大な石油埋蔵量(ペルシャ石油開発は英、イラク石油開発は英仏に独占されていた)が米石油企業とサウディ王家を潤した
A第2次大戦後の冷戦期でエジプト、シリア、イラクが左派アラブ民族政権を樹立して反米・反イスラエル、王政の守護はサウディ王家とアメリカ共通の課題となった
B1973年79年、OPECのとった”石油戦略”は中東産油国にとって両刃の刃だった、中東最大の産油国としてキャスティングボードを握るサウディアラビアがアメリカと仲介
  以後左派民族主義の湾岸諸国にさえ”石油ブーム”とオイルマネー流入による経済開発の恩恵をもたらした
1971 "アラブ首長国連邦建国(アブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジマン、ウム・アル・カイワイン、
フジャイラ、ラス・アル・ハイマ)は富裕国の象徴、イデオロギーより金の力を見せつけた"
独裁政権を倒しても、次の独裁者が登場、国民を恐怖に陥れる
それよりも独裁政権が節制に努める事で、国民に金をばらまく事が出来ればハッピーハッピーだろうか
だがうまく行っているうちは良い、良い事ばかりは続かない
常に支配権転覆を恐れている独裁者は甘くない、経済も甘くない
1979 イラン革命への警戒
ソ連のアフガニスタン侵攻、サウディからアフガンに入ったウサマ・ビンラディンも反ソ・ゲリラ戦(アフガンにワッハーブの影響)
1990 イラクのクエート侵攻ではアメリカと同盟してイラク攻撃
サウディアラビアの富豪オサマ・ビンラディンがサウディ家を批判反米に走らせる、後述の様な紆余曲折を経て国際テロリスト・ネットワーク”アルカイダ”誕生
1996 アフガニスタンにイスラーム原理主義のターリバン政権成立
2001 2001 9.11同時多発テロ、米ブッシュはターリバンの保護下にあるアルーカー=イダが実行者として、アフガニスタン侵攻、ターリバンを追放、しかし未だ混乱状態
同時多発テロを主導したとしてアメリカが反撃、アフガニスタン・イラクに容赦なく侵攻、
今日の国家機能を失った中東諸国政府+アメリカ対国際テロ集団の対決となった
又同時多発テロと欧米の反撃で、アラブ諸国のオイルマネーが欧米投資からドバイにつぎ込まれ、湾岸諸国は空前のバヌル景気に沸く
2009 ドバイ・ショック、2008年アメリカのリーマンショックでオイルマネーは再び米に引き上げられ、2009年ドバイ・ショックとなる
サウディアラビアは決して民主国では無い、ビンラディンを生み出した国ながら、
アメリカと云う勝ち馬を後ろ盾にして、王の強権と国教としてのイスラムで国民を統一、
豊富な石油資源で国民に福祉を与え現在の所、他の中東諸国に見られない安定を保っている
**イラン・イラク  米ソの対立”冷戦”(1945-1989)が中東に与えた影響
英の政治学者・フレッド・ハリディー
”現在中東を含む西アジアが抱える問題は、冷戦が生んだ二つのゴミに起因する
一つのゴミはソ連から垂れ流される核開発技術や原材料などの大量破壊兵器の拡散で
もう一つのゴミは、アメリカがソ連の影響力を拡大させない為に各地で起用したギャング(ビン・ラディンやサダム・フセインのような)だ”
米ソ2大ボスはなり振り構わず子分を探し出し武器を与え訓練して”代理戦争”に起用した
伝統的に南下を図るソ連、トルコ・イラン・アフガニスタンはアメリカにとって対ソ防衛ラインの最前線だった
ソ連の”民族主義取り込み”戦略にナセル・エジプト(1956年スエズ国有化)をはじめとする中東諸国は左傾化した民族主義で欧米資本と対抗しようとした
当然ソ連から与えられた武器弾薬で軍備を増強した
冷戦が終わると武器と戦力を持って”鬼子”に成長した子分は云う事を聞かなくなる、ブッシュ政権の”テロとの戦い”は実はそうした元子分を処理する過程(酒井啓子先生”中東の考え方”)
米ソだけが悪いのではない、中東諸国の支配層は冷戦構造を利用して超大国と駆け引きする事で生き延びて来た
そして冷戦の終結、勝者アメリカにすり寄るか、アメリカに対抗して生き抜くかの2者択一
1978 イランが圧政のバーレビ王朝(大戦後米英に擁立された、米にとって武器輸出の最大顧客)を転覆、
独自のイスラム共和国を建国したイラン革命はアメリカと対抗しながらもソ連をも警戒した
明日は我が身か、イラクのフセインはじめ中東諸王国の独裁者たちを震撼せしめた
もともとシーア派民衆に取り囲まれたフセインにとって政権を維持する手立ては民意統一より大国の援助を引き出す事にあった
1980-
1988
イラン・イラク戦争(1980-88)、アメリカはじめ西欧諸国はこぞってイラクを支援、
欧米資本の石油利権に抵抗する異質分子イランを壊滅させようとした(今流行りの”集団的自衛権”?)
ソ連、中共までがイスラム革命の波及を恐れてイラクを支援した(共産陣営もイラン革命波及を恐れイラクを取り込もうとしたご都合主義)
イライラ戦争終結まで膨大な武器弾薬がイラク等に流れ、イラクは軍事大国に成長した
その意味で軍事大国イラクはアメリカ等欧米巨大国が育て上げた
1988 ウサマ・ビン・ラディーン(祖国サウディを追われ、アフガン戦争では米の傭兵だった)イスラム原理主義の国際テロ組織アルカイーダーを結成
アメリカにとって今度は軍事大国として増長、支配地拡大に走るフセイン・イラクが邪魔になる
1990 イラクが石油資源を求めてのクエート侵攻、たかを括っていた米国が丁度冷戦終結後の中東支配に燃えていた、
アメリカが湾岸戦争でフセインに一矢を報い米の中東直接介入が始まった(1990年、すでにソ連は崩壊していた)
2001 アルカイダによる米国同時多発テロ、フセインが喝采、アメリカの怒りも頂点
2003 もはや”集団的自衛権”の枠を超え、云う事を聞かぬ”ならず者”は一刻も早く断頭台に送れと米国のイラク侵攻
ちなみにビン・ラディンのアルカイダもアフガン戦争(1979年)でソ連と戦いアメリカの支援で軍備と力を蓄えた”元子分”
フセインのバース党軍人もアルカイダも主にアメリカ軍から与えられた武器でアメリカ駐留軍に決死のテロ攻勢を繰り返した
さてフセインやビン・ラディンは”裏切り者”だろうか
もともとフセインもビン・ラディンも反米の闘士、時に応じて米ソにすり寄り武力を手に入れようとし、
米ソも味方戦力に取り込もうとしたのも当然の”戦争力学”、免罪する積りはさらさらないが、極めて当然の動きでなかろうか
確かに圧政で権力を守ろうとする独裁者は”ギャング”だろうが、国に踏み込み殺しに来た巨大国にそう呼ばれる筋合いはない
冷戦終結後も次々”仮想敵国”がつくられ”正義”の名の下に戦争が強行されてきた、その殆どは無意味な消耗に終わった
”正義の戦争”などは無い、出来る事なら近寄らぬ事が肝要だ
日本の国際発言権は”戦争をしない国、原爆を身に受けた国”と云う建前は逆に“強み”だった
其の建前を崩して態々”他国に行って戦争も出来ますよ、お味方出来ますよ”と宣言する意味が解らない
確かにプーチン・ロシアや近習平・中国の横暴を見れば”戦争出来ない国”である事に付け入られている様な気もするが、敢えて”戦争力学”に巻き込まれる事が国民を守る道だろうか
”我々はアメリカにお味方して戦争も出来ますよ”と宣言するしか方法が無いのだろうか
アメリカも”正義”ではなく常に自国権益を最大に考えて行動して来た事歴史上明らかだ、現在の勝者アメリカもこれからの事は解らない
2010-
2012
アラブの春とその後
北アフリカのチュニジアに始まった大規模な反政府デモ(ジャスミン革命、中核組織を持たない新時代の革命と言われた)がアラブ諸国に波及、
長期独裁政権を次々に倒した
何故アラブでは独裁政権が長期に及んだのか
オスマン帝国やドイツ帝国の解体で欧米の委任統治下にあったアラブ諸国が第2次大戦後次々独立を果たした
多様な民族、宗教間の争いを抑え込むには”強い力”を必要とした
欧米巨大国は石油欲しさと過激派防波堤として独裁者にすり寄り、独裁政権は欧米の支援で軍備を整え国民の不満を抑え込んだ
アラブ独裁政権と欧米巨大国の利害が一致した
国民の不満が一挙に爆発した”アラブの春”、確かに多くの独裁政権打倒に成功したが、
その後イスラム原理主義過激派の台頭を許し、民主化を求める勢力との内戦、その間をぬっての軍事政権の復活等かえって混乱が続いている
革命とはそのようなものかも知れない
フランス革命のロベスピエール、ロシア革命のスターリン、中国革命の毛沢東、革命には途方も無い代償が必要なのだろうか
と云っても独裁政権の長期化が許される筈も無く、難しいものだ
その他中東各国の動き
*リビア
北アフリカ、エジプトに接する、古代フェニキア・カルタゴ・ローマ・東ローマ。オスマンに次々支配されたが1949年独立
1969 ナセル主義者27歳のカダフィ大尉がクーデターでリビア・アラブ共和国建国
イスラム原理主義・社会主義・ナセル主義を唱え数々のテロ行為を主導して米英に対抗
1986 アメリカがカダフィ暗殺を目的にリビアに空爆
2003 イラク戦争の頃から軟化、アメリカは”テロ支援国家”指定を解除
2011 反政府デモに反撃してリビアは内戦状態に、カダフィは民兵に射殺されたが権威ある政府は未だ成立せず内戦状態が続く
この様な現状に独裁者待望論さえある
*レバノン
フランスの委任統治時大シリア復活を嫌って、シリアとレバノンに分割
反イスラエルの急先鋒、イスラム過激組織”ヒズボラ”をかかえる
ヒズボラは親アサド、反アサドのスンニ派勢力と抗争中
*アルジェリア
古代 フェニキア人。カルタゴ・ローマ・オスマン帝国の支配下
1930 フランスの植民地に
1954-
1962
独立戦争
1962 フランスから独立、FLN(アルジェリア民族解放戦線)の一党独裁
1988 民主化運動で独裁政権は倒れたがイスラム原理主義勢力が台頭、軍部がクーデターを起こし内戦状態に
その中から更に過激な勢力GIA(武装イスラム集団)誕生
2013 アルジェリア人質事件
”アラブの春”で崩壊したカダフィ政権の傭兵がリビアの新鋭武器を持ってアルジェリアに逃亡、GIAと組んで天然ガス施設を襲撃、日本人も犠牲に
*ナイジェリア アフリカ最大の人口
1914-
1960
英国領,その後軍政・民主政を繰り返す
2014 ”ボコ・ハラム”によるナイジェリア女子生徒誘拐事件
”ボコ・ハラム”は”ナイジェリアのタリバン”とも自称、”パキスタンのタリバン”同様女子教育を否定
イスラム教での女子の教育や服装への干渉は”弱い婦女子を守るため”と云う大義名分があるそうだが、
戦前の日本にも見られた女子差別に違いない

国際テロリストのネットワークはどの様に形成されたか(タリバン→アルカイダ→イスラム国 目次に戻る

オサマ・ビンラディンはサウジアラビアの富豪だったが
アメリカべったりの国王を激しく批判して国外に追放される
1979 ソ連のアフガニスタン侵攻に対し、助っ人(イスラム聖戦士)として参戦
この聖戦(ジハード)はパキスタンを通してのアメリカ援助(金と最新兵器)で勝利
1989 ソ連は完全撤退
しかし戦後も民族間の主導権を巡る紛争が続いた
隣国パキスタンの後ろ盾で過激派タリバンがアフガニスタン制圧
タリバンはムハンマド・オマルに導かれた神学校生徒(パシュトウ人が中心)、もともと秩序の回復が目的であったが、
真面目すぎる原理主義、イスラム教の戒律を極端に厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真の禁止、
娯楽の禁止、女子の教育の禁止などを強制していくにしたがって、住民たちの失望反発を招いた
ビンラディンが再びアフガニスタンに舞い戻った
かってアメリカの盟友としてソ連と戦ったビンラディンであったが、もともと反米のイスラム聖戦士である
タリバンに接近、国際テロリスト・ネットワーク”アルカイダ”を立ち上げる
アルカイダはアフガン戦争時アメリカ軍から与えられた武器でアメリカ軍に決死のテロ攻勢を繰り返した
現代ISISなどに見られる国家縦断テロ・ネットワークはこのビンラディンのアルカイダを嚆矢とするのだろうか
2001 ジョージWブッシュ大統領は9:11同時多発テロを起こしたのはビンラディンであるとしてアフガニスタン・タリバン政権にビンラディン引き渡しを要請
拒否したタリバンに即刻アフガン空爆、2カ月で壊滅
2003 アフガニスタン壊滅に気を良くしたブッシュは余勢をかって、9:11テロに喝采を送っていたフセインのイラクに侵攻
2006 フセインは逮捕処刑されバース党(スンニ派)は追放されたが国家機能がマヒ
シーア派マリキ政権に対しアルカイダと同盟を組む過激派テロ組織ISIS(スンニ派)が抵抗、内戦状態になる
マリキ政権はアメリカやイランの支援を仰ぐが、ISISはアルカイダ以上に残忍効果的なテロにより勢力を広げる
2011 ビンラディンは殺害されたが、各地に勝手にアルカイダを名乗る反米テロ組織が生まれて来た
ビンラディンの転生と云えば恰好良すぎるが
AQIM(イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ)AQAP(アラビア半島のアルカイダ)パキスタン・タリバン、アルシャバブ等
中東ばかりかヨーロッパからも格差社会で働く場を失った若者たちの就職先にまでなっている(まるで闇バイト?)
2014 アメリカ軍は2016年にアフガニスタンから撤退を発表してアフガン大統領選挙が行われたがタリバンが妨害
イラクからシリアにまで勢力を広げたISISは行政組織を整え”イスラム国”(テロ組織の自称国家)樹立を宣言、さすがのアルカイダもISISに絶縁宣言
ISIS(ISIL,IS,イラクとレバントのイスラム国,イラクとシリアのイスラム国)
アブ・バクル・アル・バグダディ指揮の下イスラム国家樹立運動を行うアルカイダ系(現在は絶縁状態)イスラム過激派組織である。
イラクとシリア両国の国境付近を中心とし両国の相当部分を電光石火で武力制圧、国家樹立を宣言し、ラッカを首都と宣言している
@イラク戦争でアメリカ製新鋭武器を奪い逃亡或いは拉致して来た元バース党軍人の多くを幹部にしている為、
”プロの殺し屋”として抜群の戦闘力を持った
A西欧が勝手に線引きしたとして”サン・ピコ体制”を否定、イラク・シリアに国家縦断の支配地を広げて行った
Bフセイン仕込みの恐怖統治(比較的効率的な行政力も備えて)でイスラム統一国家の樹立を宣言
Cサラフィー主義(ムハンマドの没後3世代に見られた世の状態が理想的であったとする復古主義的な思想、反シーア派)
異教徒や自分たちが異端とする人々を殺害を含む厳罰を与える事を躊躇しないため、イスラム内部にさえ恐れられる
(シリア内戦では反政府軍に有りながら、他の反政府軍をも攻撃して支配地と武器を奪いむき出しの支配欲をみせつけた)
D古き良き平和なイスラム世界へのノスタルジャに訴えたのであろう
バグダディは、自らが預言者ムハンマドの後継者である”カリフ”であると宣言し、
スンニ派アラブ人のカリフのもとに、イスラム教徒の諸民族や異教徒(キリスト教徒とユダヤ教徒)を支配下におく”カリフ国家制”(武に基づく階級国家体制)を公言
E戦闘と統治の手口は拉致、斬首処刑、略奪、人質ビジネス、改宗強制、拷問、女性の奴隷化などの蛮行を恣にする
昨今チュニジア、クエートにまでテロ旋風を巻き起こし、恐怖の”殺人集団”である事を見せつけて憚らない
西欧の近代戦闘手段が野蛮・残虐でない訳ではない、近代的戦闘手段を持たないからこのようなテロ手段を行使していると云えばそれまでだが
得意の映像やネット技術で広報、敢えて自らの残虐性を誇示している所が有る
事実近代文明のはざまで行き場を見失ってしまった若者たちの一部が、この様な古典的漫画チックにさえ見える闘争ファッションに
訳も無く憧れる事さえあるのは恐ろしい事である
2019 最高指導者(初代の自称カリフ)のアブー・バクル・アル=バグダーディーがアメリカ軍の特殊作戦により殺害され、周辺国家からも警戒され、現在勢力は分散状況
イスラム過激派は何故かくも過激になったのか? 目次に戻る
@縷々見て来たようにイスラム社会は常に権力闘争の歴史だった
不安定な権力基盤は勢い独裁制と過激な手段で権力を維持しようとする(独裁と過激性は権力の脆弱性の表れに過ぎない)
その変転極まりなく過激な支配権力(諸王朝等国家権力)が諸々のイスラム宗派と癒着した(国家統一の為宗教が利用されたのかもしれない)
その中で宗教の闘争性が養われた
A更に西欧巨大列強が利権にかられて支配権力を利用し引きまわした(持てる者の悲運である)
一方イスラム民衆に、その様な近代西欧文明に対する根強い反発と恨みが残った、イスラム原理主義がそこに付け込んだ
Bイスラム宗教共同体を名乗る”イスラム国”にしても、その過激性・残忍性はイスラム教から導かれたものでは無く
歴史的に培われた権力闘争から導かれたものであろう、イスラム国でさえ宗教は国家統一のための道具の様な気がする
Cつまりイスラムの過激性は民族気質とかイスラム教の教義とは関係なく、脆弱で変転極まりなかった権力闘争の歴史に由来するのではなかろうか
ただイスラム教自体の中に権力の過激性・闘争性に付け込まれる要因は無かったのか、もう一度考える必要は有りそうだ
それは歴史的考察よりも比較宗教の分野だから、もう少し勉強しないと何とも言えない

日本人のためのイスラム原論  小室直樹 目次に戻る

生意気盛りのは学生の頃、ヴェーバーの宗教社会学、”プロテスタンティズムと資本主義精神”は今一良く解らなかったが、”東洋の仏教・儒教は人が神を動かそうとする呪術信仰だから合理的でない”との言説に感銘を受けた

神は絶対、人が一生懸命拝んだところで左右される筈が無い(例えば密教、平安朝の時代、疫病の流行に天皇が空海に対策を尋ねると”般若心経”をしっかり写経して仏に祈りなさい”と応えたそうです、経典も仏を動かす道具かな?)

でも”宗教心”はつまるところ”神頼み、仏頼み”この矛盾をどう解決するか?

日本社会学の草分け、巨匠・小室直樹先生の”イスラム原論”はヴェバーを下敷きにイスラム教の教えを易しく解説する

神が人の願いを叶えると言うのは”因果律”、仏教は勿論カソリックも牧師の”秘蹟儀礼”や”神の国への切符・免罪符”を売り出したりして因果律に傾いた

プロテスタントはそれに対抗して”聖書にかえれ!”人個人個人の運命は予め神が決めている、人が神に祈っても動じるものではない”と宗教革命

これをカルヴァンの言う”予定説”

では人は神と如何様に介在するか?

日々の生活で何不自由なく暮らせて居れば”神から選ばれた証拠、その事を神に感謝して、より一層”天職”に励みなさい”これが”資本主義精神

真面目に働く事の勧めであるが、働けど働けど貧しければ”神から見放されてる証拠”?”どうすりゃ良いの?”

そこでイスラム教の解決方法”宿命論的予定説”

”この世の運命、すなわち人間の宿命に関しては、すべて神が決定ならる(予定説)だが来世の運命に関しては因果律が成り立つ、つまり、この世でイスラムの規範を守り善行を行っていけば救済される、逆に不信心で罪深い人生を行っていれば救済されることはない”

つまり、この世と来世に予定説と因果律を振り分けた

著書は学術書でないので、コーランにそのような事が書かれているか知りませんが、誠に都合良い論理です

来世とは、最後の審判で神から善行を計量され、天国(緑園)行きか地獄行きか振り分けられる(イスラム教徒の信ずべき六信の一つです)

緑園は正に酒池肉林、美食の飲み放題食い放題、永遠の処女の抱き放題(女性蔑視も極まれる)恥ずかしくなるほど物欲解放、逆に死ぬことも許されぬ地獄の責め苦

(この様子はコーランに明記されています)

臆面なき合理主義、現実主義、コーランは正直かも知れません
小室先生はイスラム教こそ合理的宗教と寛容ですが、現実的・合理的だからと言って、人を導き救済する宗教・経典と認めるべきか?自分たちが天国の美酒美女に酔いしれるため”人殺し”を容認される思うと堪ったものじゃ有りません。、

兎も角この教えに裏付けられたエネルギーてイスラム教は急速に世界各国に拡散、先進国にかき混ぜられたとはいえ(イスラムから見ればイスラエルは侵入に外ならぬでしょう)
戦士を死をも恐れぬ聖戦ジハードにかき立て、テロ・人質・殺害と現世の人倫を無視する行動力に奔らせた根因と思います

イスラムは他宗教を認めないわけではない、中国の製紙法を、ギリシャ・ローマの古典文明を蓄積して近代ヨーロッパに伝えたのもイスラム、決して偏狭では無いと思いますが、攻められ天国への道を妨害されると見れば、マホメットが自ら剣をとったように、徹底的に戦います

それがジハードですが、何がジハードかはイスラム法学者或いは自分らが決める

独善主義と思います、でも宗教は大かれ少なかれ左様なものかも知れません

ただイスラムはそれが激しい、現世を無視して来世に賭けるから、止めようがない、恐ろしい


中央アジア史                      目次に戻る



現 ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン

西域 敦煌より西、天山・崑崙に囲まれたタリム盆地、タクラマカン砂漠、モンゴル高原に接する

 

BC1CAD6Cの中央アジア

イラン系遊牧民

 月氏、匈奴に追われて、アム川流域に定着(大月氏)、フェルガナ地方に大宛国(汗血馬の産地)

トルコ系遊牧民

  烏孫族(漢が和番公主)

漢・武帝の西域進出(衛青・霍去病の両将軍、河西4郡設置)

宣帝・和帝が更に奥深く西域都護府設置

オアシス都市が点在するシルクロード(オアシスの道)は  イラン系商業民ソグド族などの隊商ルートとして、東西文明の伝播の道だった

 中央アジアでは敦煌を起点としてサマルカンドまで、天山北路、西域北道、西域南道に分かれる

 クシャーナ朝から西域経由でもたらされた大乗仏教(北伝仏教、鳩摩羅什)

 トルファン盆地に高昌(漢人達の植民国家)玄奘 インドへの旅立ち

西アジア起源の彩陶・磨製石斧が中国にもたらされた

仏教が西域経由でもたらされた

 西域の僧が中国へ

 中国の法顕ホッケン・玄奘ゲンジョウ西域経由でインドへ(・義淨は海路)

 ゾロアスター教(?教)ネストリウスはキリスト教(景教)も西域を通して伝わる

製紙法 イスラム世界経由でタラス河畔の戦い)ヨーロッパに

 

6世紀から10世紀の中央アジア

トルコ系遊牧民・突厥がササン朝ペルシャの支援のもとエフタルを滅ぼし中央アジアを支配

唐の太宗(李世民)高昌を滅ぼし安西都護府を設置

高宗 突厥を滅ぼし中央アジアの殆どを支配

しかし751年タラス河畔の戦いでチベット統一国家吐蕃に敗北

トルコ系民族ウイグルがやってきて勢力拡大トルコ化(マニ教、トルキスタン形成)

アスラム教徒の侵入(ウマイヤ朝・アッバース朝・サーマーン朝)

イラン系サーマーン朝がウイグル等トルコ系民族を傭兵マムルークとして雇用

10世紀半ば中央アジア初のトルコ系イスラム王朝・カラ=ハン朝開設(中央アジア全域のトルコ化)

 

10世紀以降の中央アジア

 

その後カラ=ハン朝はアフガニスタン・ガズナ朝に敗北して分裂

西遼(カラ=キタイ、モンゴル系契丹族・耶律大石)とセルジューク朝

→ホラズム朝とトルコ系ナイマン部(クチュルク)の支配

13世紀前半チンギス=ハン、チャガタイ=ハンの支配

→ティムール帝国

→トルコ系ウズペク族が粉砕、モンゴル系ジュンガル部・ウイグル・ウズペクの3国家

(ティムールの残党がインドに逃れ、デリー・スルタン最期の王朝ローディー朝を滅ぼす、パープル)

→最終的に東部(新疆)を清朝(乾髓驕j、西部を帝政ロシア(アレクサンドル2世)が支配

 両国はイリ条約で国境確定

 

北方民族史   中国から言えばモンゴル高原の北狄                 目次に戻る

匈奴→2C鮮卑→4Cモンゴル系柔然→8Cトルコ系突厥→8Cトルコ系ウイグル→10Cモンゴル系契丹

匈奴 民族系統不明ながら

スキタイ人譲りの騎馬戦術に長ける

 最盛期冒頓単于は漢の高祖を破る

漢の武帝 衛青・霍去病を派遣して責め立てられて、東西分裂

1世紀には更に南北分裂、北匈奴はフン族としてゲルマン民族移動の契機となる

長城以南に移住した南匈奴は、その後五胡十六国時代に漢を建国、316年永嘉の乱で西晋を滅亡

鮮卑は同五胡十六国時代、北魏を建国して華北を統一

突厥は北方民族で最初の民族文字をもった(オルホン碑文)

ウイグルは安史の乱で唐を援助→トルキスタンへ

 

ちなみに

ペルシャ(イラン)の歴史                              目次に戻る

アーリア人 印欧族のうちイラン高原・インドア大陸に向かった東方系民族

ペルシャ帝国BC550-AD651

アケメネス朝ペルシャ ゾロアスター教

 新バビロニアを征服して、バビロン捕囚のユダヤ人解放

BC500-BC479  ペルシャ・ギリシャ戦争(マラトンの戦い等)

BC331 アレクサンドル大王によって占領され滅亡(ダイオレス3世)

パルティア王国 アルサケス1世  ミトラス教

ササン朝ペルシャ226651年) アルデシール1世 パルティアを滅ぼす

 ゾロアスター教を国教  ビザンツ帝国と抗争

混乱の時代にイスラム教が浸透

イスラム帝国セルジューク朝1038-1308

モンゴル帝国イル・ハン朝1258-1353

モンゴル帝国ティムール朝1370-1507

*ペルシャの復活

サファヴィー朝1501-1736) 

イスラム教シーア派12イマーム派を国教として現在イランの基礎を築く

トルコを中心に圧倒的武力で勢力を広げるオスマン帝国に交戦

アッバース1世が立て直し、首都イスファハーンを中心に栄える、しかし国力は徐々に衰退

アフシャール朝1736-1796

 “ペルシャのナポレオン”ナーディール・シャーが活躍するが、死後衰退

ガージャール朝1779-1925) イラン北部の一部族、首都をテヘランに

*ヨーロッパに喰われるイラン

1800年第1次・1826年第2次ロシア・ペルシャ戦争に敗北、イギリスに石油資源を奪われ

列強の半植民地状態へ

1906年 イラン立憲革命

パフラヴィー朝1925-1979

1945年第2次世界大戦では英露米に油田・鉄道を奪われた挙げ句米英の傀儡政権化

イラン革命 1979年反政府運動高まる中で亡命先からホメイニ師が凱旋、

イラン・イスラム共和国樹立

イラン・イラク戦争1980-1988) 

発端はイラクがイランの米英アラブはシーア派を警戒してイラク側、イスラエルはイラン側

2007年米ブッシュ大統領、イランの核兵器製造疑惑で経済制裁

 

ちなみにトルコの歴史年表                              目次に戻る

トルコの歴史をわかりやすく解説!人類文明発展を道のりを辿る旅に出よう |ターキッシュ・カルチャークラブ (worldclub.jp)

紀元前10万年ごろ(石器時代)

アナトリアに人類が最初の足跡を刻む

(カライン洞窟:現在のカッパドキア付近)

紀元前1万年ごろ

世界最古の遺跡、ギョベクリテペ

紀元前70005650年ごろ

世界最古の町チャタルホユック

紀元前3000年〜

アナトリアの先住民族ハッティ人の時代。

アナトリア最初の統一国家ヒッタイトが成立

紀元前25001250年ごろ

トロイ文明

紀元前1200年〜

東アナトリアでウラルト、北部・中央アナトリアでフリギア、中央・西アナトリアではリディア・リキア・カリアが隆盛

紀元前12世紀

海の民の到来

紀元前546

アナトリアにペルシア人が侵攻

紀元前333

アレキサンダー大王の支配、ヘレニズム文化

紀元前1世紀

ローマ帝国がコンスタンティノープルを首都に

330

コンスタンティノープルを首都として東ローマ帝国(ビザンツ帝国) が成立

552

トルコ系民族がモンゴル高原一帯に大帝国「突厥可汗国」を築く

(現代のトルコ人の祖先)

744

トルコ系民騎馬民族のウイグル部族が独立し、

744年に遊牧国家「ウイグル国(回鶻)」を成立させて

トルキスタンに定住。

10世紀半ば

トルコ系民族で初めてイスラム教を国教とした

トルコ系最初の王朝「カラハン朝」が成立

11世紀〜

中央アジア遊牧民族であったトルコ系民族が南下・西進して

セルジューク朝を建国してアナトリアを支配、トルコ化

12991923

オスマン帝国600年以上にわたり隆盛。最盛期には

北はハンガリー、西はアフリカのアルジェリア、

南はエジプト・イエメン、東はアジアのインドに至るなど

歴史的な大帝国に

1923

1029日、アンカラを首都としてトルコ共和国を樹立。

1945

トルコ共和国が国連に加盟

1952

国連加盟国として朝鮮戦争へ参戦するためNATOに加盟

1995

欧州連合関税同盟に加盟

 

モンゴル帝国の歴史                            目次に戻る

モンゴル高原の遊牧民モンゴルにあらわれたチンギス・ハン、その勝れた騎兵技術・攻城技術・火炎兵器・勝つために練られた組織力(千戸制)でもって、瞬く間に中国北部・中央アジア・西トルキスタンを制覇、1206年大モンゴル帝国を樹立、その後継者も中国の元、イラン周辺のイル・ハン国、

ロシアのキプチャク・ハン国、中央アジアにチャガタイ・ハン国を樹立、領土を拡大してユーラシア大陸を席捲した

世界の歴史マップより

西暦

出来事

1206

テムジンがモンゴルを統一
チンギス・カンを称し、モンゴル帝国建国

1227

シルクロードの西夏を滅ぼす
チンギス・カン死去

1229

チンギス・カンの息子 オゴタイが第2代ハンに即位

1234

中国北部を占領していた金を滅ぼす

1235

チンギス・ハンの孫バトゥがロシアまでの遊牧民の世界を征服

1241

オゴタイが死去し、バトゥは遠征を中止

1246

グユクが第3代ハンに即位

1248

グユクが死去

1251

モンケが第4代ハンに即位

1253

フビライが大理国を降伏させる

1255

バトゥが死去

1256

モンケ、弟のフレグに西アジア遠征を命じる
フレグがイランの行政権を獲得し、イルハン朝(フレグ・ウルス)が成立

1258

フレグ、バグダッドを征服しアッバース朝を滅ぼす

1259

高麗を服属させる
モンケが死去

1260

フビライが第5代ハンに即位

1271

モンゴル帝国を元と改称
マルコ・ポーロが上都を訪れる

1274

元寇文永の役

1277

アナトリアの戦い
マムルーク朝に敗北

1279

崖山の戦いで南宋を滅ぼす

1281

二度目の元寇弘安の役

1288

白藤江の戦い
陳興道率いる陳朝ベトナムに敗北

1294

フビライ死去
フビライの孫テムルが第2代元朝皇帝に即位

1305

モンゴル帝国()5つに分裂

1368

明の朱元璋によって、元朝最後の皇帝トゴン・テムルはモンゴル高原に敗走
以降、北元と称される

1634

モンゴル高原は清の支配下に置かれ、北元滅亡