■ 立花の両翼
大友家から軍目付として道雪の陣に派遣されていた時、道雪の腹心・由布雪下に目を付けられ(気に入られ)立花家に組み入れられる。 (由布雪下参照) 道雪から軍団の片翼を任され、もう片翼の由布雪下と共に縦横無尽の活躍をみせ合戦する度に勝利に導いた。
知勇兼備を謳われた和泉は、大戦二十二、小戦は数知れず、戦場にて疵を受ける事六十七ヵ所、その内、腰より上が四十四ヶ所・鉄砲傷五ヶ所・槍傷七ヶ所・その他は刀傷で、大友・立花両家から受けた感状は六十八通にのぼり、家中でも指折りの傑物である。
更に謀将としてもその才を発揮し、筑前国・秋月文種を攻めた時、和泉は秋月家に仕えている従兄弟を内応させ城攻めに大いに貢献している。後に古処山城に返り咲いた息子の種実は、領内の小野姓の付いた者を皆殺しにしたといわれる。 |
■ 家中第一の者
島津軍追討戦である高鳥居城攻めでは、両足を鉄砲で撃たれ地に伏してなお采配を振るって味方を鼓舞し勝利に導いた。
戦後、下筑後半国・柳河城主の大名となった宗茂により、蒲池城番家老に任命され采地五千石を賜る。その折、日頃から酒量の多い和泉の体を気遣った宗茂より『親父を思う』との神文を贈られている。この石高は立花家中最大である事から、和泉がいかに活躍し信頼されていたのかが窺われる。 |
■ 日本七槍の第一
朝鮮の役にも出兵して立花家の中核として活躍、「立花家に小野和泉あり」の勇名を国内外に轟かせる。帰国後、宗茂に従って上洛し秀吉に拝謁すると、
「貴殿は九州に於いて立花・大友両家第一の功労者であり、更に朝鮮に於いても数々の武勲を立てた。余は以前からその方の事を聞き及んでいたが、その槍捌きは真に当代日本七槍(日本槍柱七本)の一である。今後共、宗茂殿を補佐して西国の守禦として尽くすよう。」 |
といって多くの賞を与えられた。
日本七槍(日本槍柱七本)とは
・本多平八郎(忠勝・徳川家の臣)
・島津家久(忠恒・島津義弘の子)
・後藤又兵衛(基次・黒田家の臣)
・直江山代守(兼続・上杉家の臣)
・飯田覚兵衛(加藤清正の臣)
・吉川蔵人(広家?・吉川元春の子)
以上の六名と小野和泉のことである。 |
■ 守銭奴
この頃、和泉は誰からでも賄賂を貰い守銭奴と陰口をたたかれていた。
心ある者が、和泉のこの事を問責しようとしていたが、再度の朝鮮出兵(慶長の役)が始まり、それどころではなくなってしまった。しかも度重なる合戦で立花家の財政は逼迫していた為、軍勢をおくることが出来なかった。そんな時、和泉が自らの金と今まで受け取って貯めた賄賂をすべて差し出したのである。そのおかげで、立花家はなんとか面目を保ち出兵する事が出来た。自らを悪者にした和泉の真意を知った家中の者達は、和泉のその深謀遠慮にただ驚嘆するしかなかった。 |
■ 関ヶ原
慶長五年(1600)「関ヶ原の戦い」の折、和泉は西軍参加を主張している。
関ケ原の西軍主力敗戦によって、東軍に寝返った肥前の鍋島直茂(龍造寺家)が、三万五千の大軍を引き連れ柳河に乱入する。和泉をはじめ主だった者達は、家康に謝罪の使者を出している為に宗茂自身の出馬を留意させ、和泉を総大将とした家臣団のみで合戦に臨んだ。「八の院の戦い」と呼ばれるこの合戦は、当初の作戦を無視した和泉の与力・松隈小源が勝手に戦闘を始めた為、立花軍は混乱し和泉も銃弾を受けるなど苦戦に陥った。しかし、十倍の鍋島軍十二段の陣を九段まで切り崩し、なんとか退却に追い込んでいる。
戦後、立花家が改易すると、和泉は加藤清正預かりになった宗茂に従い肥後に赴く。後に清正に旧立花家臣団の筆頭として四千七十九石を賜る。宗茂が加藤家を辞して放浪の旅に出ると、宗茂に従った由布雪下等と袂を分かち、宗茂夫人・ァ千代姫の守護と立花家臣団のまとめ役として肥後国に残った。彼はこの時も宗茂等に旅の路銀をわたし、それ以後も度々こつこつと貯めた金を仕送りして彼らの支援をし続けた。 |
■ 加藤清正
加藤家の家臣となった和泉をある日清正が引見した。話が合戦の事に及んだが、清正は和泉の豪胆かつ用意周到である事に驚き、のちに近臣たちに
「彼は実に豪勇無敵の士である。彼に攻めさせれば、いかなる堅陣であっても攻め破れぬと言う事は無いであろう。真に武夫の本領を得た者である。」 |
と語って厚遇した。
またある時、和泉と対面した清正は
「自分は、幼少の頃より合戦に明け暮れ、読書などとは全く無縁であった。」 |
と言って悔悟すると、和泉は
「それがしなど、齢すでに六十にもなろうというのに、未だ「いろは」を書く事もままなりません。朝鮮の役の頃、毛利輝元公より書状が届き、使者にその返書をもとめられましたが、それがしは字を書く事が出来ないので大変こまりました。丁度その時、内田元叙が通りかかり、彼に頼んでようやく返書を与える事が出来ました。それゆえ、帰国したのち妻に「いろは」を習い、今になってようやく、にじり書くまでになりました。」 |
と語った。
清正は和泉が自分に遠慮してそう言っていると思ったが、後日、内田元叙に対面してその話をすると、まさしくその通りであった。その正直さに感じ入った清正は
「和泉は小事でも嘘をつかなかった。まして大事は嘘をつかないであろう。」 |
と言って、ますます彼を厚遇したという。
またある日、清正と和泉が将棋を打っていたが、その時隣の部屋にいる近習が喧嘩を始め、抜刀して怪我人がでるまでになった。敗色濃厚だった清正は、喧嘩の仲裁を口実に席を立ち上がろうとした。その様を見て和泉は
「見苦しい真似をしなさるな。主君たる者が、この位の事で立ち上がられてはいけません。それがしが、何の為にこの場に居るのかお忘れか。もし此所に押し入って来る様であれば、不肖この老人が取り押さえましょう。殿は落ち着いて此所に居られて下さい。」 |
と言って清正を睨み付けた。豪勇を以って鳴る清正も、和泉に心の内を見透かされ、ただ赤面するほか無かった。 |
■ 武功とは
しかし、清正の厚遇をよそに旧来の加藤家の家臣と立花家の家臣との間に軋轢があった様である。
ある酒宴の席で、加藤家家中で武名の高い飯田覚兵衛、庄林隼人、森本義太夫、加藤清兵衛等と一緒になった。その時彼らが、
「我らは立花家の戦功をよく聞きますが、宗茂公自身が奮戦して最も戦功があったのはどこの戦場ですか。」 |
と聞いてきた。和泉は黙して答えずにいるととしつこく聞いてきた。
結局和泉は黙して答えず、酒宴が終わって和泉が退出すると彼らは
「人は皆、和泉の事を英雄豪傑というけれど、柳河ではそうかもしれないが、肥後に来ればその辺にいるただの人と同じだ。」 |
と冷笑した。
以後、旧来の加藤家の者達が立花家の者達を馬鹿にする風潮が広まった。家臣団の不和を憂慮する和泉は一計を案じた。
後日、同じような酒宴が催された際、同じように和泉は武勇伝をせがまれた。当初は断っていた和泉だが遂に承諾、皆の前でいきなり衣服を脱いで傷だらけの上半身をさらけ出したのである。上半身に刻まれた四十四の傷を見て一同が唖然とする中、和泉は淡々と
「私が参加した合戦は数え切れません。そこで、今日は感状を持参しました。」 |
と言って、感状と傷を照らし合わせながら説明し始めた。一同は、和泉の壮絶な傷痕を見て毒気をぬかれ
「恐れ入りました。もう結構です。全部説明されたら夜が明けてしまう。」 |
と言って、降参してしまった。しかし今度は和泉が彼らに尋ねた。
「かつて、貴公等の主君・清正公が仏木坂に於いて、木山弾正と激戦された折、清正公が槍の一鎌を折られたが、遂に弾正を討ち取ったと聞いています。その時、貴公らは何処に居て、どういうご活躍をなされていたのですか。不肖ながら、それがしは、戦場に於いて主君を濫りに危険な目に合わせたり、又自ら奮戦させる事が無い様に努めてまいった。貴公らはどのようになさるのですか。」 |
と説いた。これには皆赤面して誰も答える事が出来なかった。それ以後、和泉を招いた酒宴の席では武事のことは話題になら無くなったという。 |
■ 肥後の地にて
和泉は、慶長14年(1609)6月23日、肥後国にて死去する。
和泉はこの数年後 宗茂が旧領・柳河の藩主として返り咲くことを知らずに没する。彼の子孫は柳河の地に呼び戻され、代々家老職を世襲した。 |
初 2000/02/10
改 2005/01/22 |