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例:「1月14日(金)」へのジャンプはmemo1.htm#2000-01-14で可能
今日の午前中、例によってTVをつけっぱなしにしておりましたところ、臨時ニュースが始まりました。それがこの池田小学校での殺人事件でした。
小学校の上空を各報道機関のヘリが飛び回り、子供達が次々と校庭に避難している映像を映し始めると、ただごとでない様子が知れました。TVのテロップでは23人が負傷して病院へ、と出ていました。
不謹慎なことですが、こういう臨時ニュースは心がおどります。同じことの繰り返しに過ぎないと分かっていながらも、なかなかTVの前から離れられません。このままでは今日の午後はぶっつぶれてしまいます。
そういうわけで、今日は昼から図書館に避難しました。図書館ならTVはありませんから。
日が傾いて、帰宅して驚きました。何と死者がでているじゃないですか。それも8人も。近年にない大惨事となってしまいました。
報道によると、今回の容疑者も精神障害者のようです。精神障害者の犯罪については、「佐賀バスジャック事件」のときに少し述べましたが、今回の事件で特徴的なのは、容疑者が二年前に刑事事件を起こしており、そのとき措置入院の措置を受けていたことです。
前にも書いたとおり、刑事責任を問えない犯罪者に対して、国は現在のところ措置入院処分でお茶を濁しています。
ですが、医療機関は行刑機関ではありません。スタッフは治療の専門家ではあっても、社会生活への更正と監護の専門家ではないのです。彼らに措置入院の解除の責任を負わせるのは酷というものです。
かといって、保安処分を正面から導入して、精神障害者を施設内で処遇してしまうというのも問題ありです。
それはなぜかというと、人権上の問題もさることながら、現実問題として実施が不可能に近いということです。
先日のハンセン症患者への施設収容処分でも問題となったのですが、長期間社会から隔絶された施設で生活を続けてしまうと、その被収容者は社会に戻るのがとても困難となってしまいます。
確かに、精神障害者を施設に収容すれば、社会防衛という目的は達せられることでしょう。しかし、その結果、国は多くの社会内で生活できない人々を死ぬまで抱え込まなくてはならなくなります。これは我が国の財政にとって無視できない負担です。
結局、精神障害者といえども、社会に接点をもたせたまま治療(処遇)せざるを得ないのが実状です。我が国の精神医療の現場もそういう方向で動いています。
ですが、やはり一般市民(やな言い方ですね)にとっては気持ちが悪いことは否めませんね。
解決のヒントとしては、行刑で行われている社会内処遇のテクニックを精神医療の分野に持ち込むという方法が考えられます。
ですが、医療機関からは「我々は行刑機関ではない」と反発されそうな気もします。やはり、これは行刑機関が抱え込まなくてはならないことのように思えます。
結局、「開放的な」保安処分みたいなものを考えなければならないのではないでしょうか。もっとも、保安処分には責任主義との矛盾抵触があるし・・・う〜む
(しかし、今回の事件でも刑法39条がある限り、容疑者の刑事責任を問うのは困難ですね。また司法を非難する奴らがでてくるだろうなぁ。非難するなら立法府の方だろうが。裁判官は法律を無視して裁判をやれとでもいうのかいな(汗))
(YAHOO!の犯罪掲示板を覗いてきたけど、トピックがえらい勢いで伸びていました。こういう事件の直後だけあって、全体的に見れば、やはり強硬派が強いようです。ですが、こういうところで強硬に重罰論を唱える連中を僕はあまり信用しない。それは、僕の貧弱な経験からして、そういう人は自分自身に後ろ暗いところがあるか、心に何らかの傷を負っている場合が多いからです。)
あの壮絶な日曜日を終えて、一息ついているところです。不安いっぱいですが、どうしょうもありません。実行行為は終了しました。あとは因果の流れ次第です(う、行為無価値だ(笑))
髪が伸び放題にのびていましたから、今日は床屋に行ってまいりました。そのあと本やによって前から手に入れたいと考えていた何冊かの本を買ってきました。
その中に一冊に「援助する国される国」という本があります。著者は服部正也氏。前に紹介した「ルワンダ中央銀行総裁日記」の著者です。
服部氏は、以前から発展途上国への援助についてのご自身の経験をふまえた論考を本にまとめる作業をなさっておられたそうです。ですが、その作業が終わる前に氏は99年11月にお亡くなりになってしまいました。
この方は、外国の中央銀行総裁をなさったという貴重な経験の持ち主であり、その経験を元にした本は多くの人達より心待ちにされておりました。
この世代の中には、自分たちより上の先輩達がパージでいなくなったものですから、日本人には珍しい破天荒な経験をなさった方もいらっしゃるわけで、氏はその一人と言って良いかと思います。
そういうわけで、氏の突然の死去の後も、その原稿が散逸するのはあまりに惜しむ方が多く、有志が集まって故人の原稿をあつめ、部分的に訂正し、ようやくこの本の刊行に至ったとのことです。
僕自身は残念ながらあまりこういった国際援助等については興味はないんですが、「ルワンダ中央銀行総裁日記」を楽しませてもらった者の一人として、香典代わりに購入させていただきました。
本を買う動機にはいろいろあるけど、こういう動機で買うのは僕個人としては珍しいです。今はとても目を通せる状態ではありませんが、もう少し暇になったらぜひ読んでみたいと思います。
【参考文献】
◎「ルワンダ中央銀行総裁日記」(中公新書)
◎「援助する国される国−アフリカが成長するために」(中央公論新社)
江戸川区の女子大生殺人事件は、多数の目撃者があったせいもあって無事犯人の身柄の確保ができたようです。
一般の感覚では、事件はこれでひとまず終わり、あとは裁判を待つだけと思うかと思います。ですが、それは違います。捜査陣の本当の勝負はこれからなのです。
「29歳の男性が白昼女子大生を襲い死に至らしめた。」今回の事件の客観的な側面はこれだけです。
ところが、どういう動機でこの事件を起こしたかを違えるだけで、この事件に適用される法律(法定刑)が異なってきます。
例えば、この容疑者が、単に暴行を加えたところ死んでしまった。殺す気はなかったという供述をすれば、これは「傷害致死」(205条)です。これだと、二年以上の有期懲役でしかありません。
これが、強制猥褻ないし強姦目的だったらどうでしょう。そうなると「強制猥褻等致死」(181条)となります。こうなると、刑も無期または3年以上の懲役ということになります。
あれ?意外と刑が軽いな、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。それは当然。以上は「殺意」がなかった場合の話です。殺意があると次のような扱いになります。
まず、単純に殺意をもって人を殺した場合は「殺人罪」(199条)となります。これで、死刑または3年以上の懲役となります。
次に、強制猥褻ないし強姦目的で殺意があった場合。これはどういう扱いにするかは議論があるのですが、通説的には「強制猥褻等致死」と「殺人罪」の観念的競合となるでしょう。刑の重い方が適用されますから死刑または3年以上の懲役です。
最後に、もしこの容疑者は手持ちの所持金がほとんどなかったそうです。そこで金を取る目的をも有していたとすればどうなるでしょう。
そうなると、「強盗致死ないし強盗殺人」(240条)となります(これも議論あり)。これは刑がとても重いです。死刑又は無期懲役となります。
どうです。目的次第で適用される罪と罰が大きく変化することがおわかりになると思います。
今後の捜査陣は、容疑者を取り調べて、あわよくば強盗の目的があった旨の供述調書をとりたいと考えていることでしょう。それができるかどうかが、これからの捜査のポイントです。
要するに、犯人の確保は捜査の序の口。捜査陣にとっての真の闘いはこれからなのです。
さてはて、どういうことになりますことやら。
(以上は法定刑の適用の問題だけど、さらに処断刑、宣告刑の段階でそれぞれ問題がある。法定刑で一番可能性の高い「強制猥褻等致死+殺人罪」でいうなら、三年以上の懲役または死刑となる。
これに再犯加重、法律上の減軽、併合罪加重、酌量減軽と刑を操作しなければならない。TVによるとこの容疑者は直前に2年の実刑をくらっていたようだから、再犯加重がある。これにより有期懲役は長期が二倍の刑となるが、上限が20年までとリミッターがかけられている。むろん死刑はどうしようもない。無期懲役も再犯加重は駄目みたいだな。ということで、なんだ!結局刑は変わらないか。
法律上の減軽で弁護側は必ず心神耗弱の主張をしてくると思う。これが通ると刑が半分になる可能性がある。これは必要的減軽事由だからこれが通れば大きい。でも、最近の裁判所の態度からしてそう簡単に心神耗弱の申立を認めないと思う。酌量減軽もまずだめだね。
宣告刑は死刑はまず無理だけど、無期懲役まで行ってほしいところだ。同一の犯罪傾向ですでに前科二犯。執行猶予期間中に犯罪を犯して、この若さで実刑をくらうという犯罪者のエリート(笑)みたいな奴だから。
・・・・これで刑罰の具体的運用の論点は万全だぜぃ(笑))
新聞によると、18日、法務大臣の諮問機関である法制審議会、会社法部会が、商法改正案要綱の中間試案をまとめたそうです。
今国会に提出される法案、および秋の臨時国会に提出予定の法案は次の通りです。
◎コマーシャルペーパーのペーパーレス化
◎金庫株の解禁(自社株取得・保有の自由化)(ただし議員立法)
◎単位株制度の廃止(ただし議員立法)
◎株主代表訴訟制度の見直し(ただし議員立法)
◎電子メールを使った株主総会の招集手続や、株主の議決権行使
◎ストックオプション(自社株購入権)制度の改善。子会社の取締役へ対象を広げる
2002年以降の通常国会には会社の機関に関する大規模な改正案提出が予定されていますが、今年提出されるものはやはり株式関係の法案が多いようです。株価対策が緊急の課題となっているからでしょう。
例えば単位株制度の廃止などは感慨深いです。
この制度は、あまり少額な株主に対しても会社がいちいち一人前の株主と同様の対応をしなければならないのはコストがかさむ、という理由で、例えば額面50円の株式なら1000株を単位とし、それ未満の株式に対しては本来の株主としての権利を制限するというものでした。いわば会社側の都合で求められた制度だったわけです。
この制限が、いわゆる株主平等の原則の例外となるのか、という形でよく演習ものに出題されたものです。
ところが、昨今のパソコンの普及で株主名簿の管理などが楽になり、株主管理のコストという大義名分が少なくなってしまいました。
加えて、一般投資家が株を購入しようとしても、1000株単位でしか取り引きできないというのなら、そのイニシャルコストが高くなり(サラリーマンがボーナスで買える価格でなくなる)、簡単に購入できません。これは株式市場への資金の流入を阻害することとなってしまいます。
そこで、今回単位株制度の廃止が打ち出されることなったのです。
電子メールを使った株主総会の招集通知や、株主の議決権行使については、今年から導入された電子認証制度の存在が大きいですね。
株主代表訴訟制度の見直しは・・・・とうとう出てきたかという感じです(笑)。やはり大和銀行株主代表訴訟の件が尾を引いているのでしょう。賠償額を年収の二倍程度(?)までに押さえる案がでているようです。
自民党商法部会の某議員は(大和銀行の件は、法案改正の)千載一遇のチャンスだ!と言っておりましたが、ま、それが本音でしょう。
確かに、大和銀行のような大企業の場合、株主代表訴訟制度は取締役に過酷すぎるように思えます。
ですが、日本の株式会社の90%以上は零細・ないし小企業です。
そして、小企業においては、代表訴訟制度は、会社の少数派が多数派の専横を押さえるための手段として有効な手段なのです。(これと同じことが商法266ノ3でも言える)
よって、株主代表訴訟の制限も会社全体を一律に扱うのは好ましくないように思います。
改正全体の動きとして、商法上の大会社とそれ以下の会社については明確に区別する動きが急ですから、おそらくはそういう方向で動くと思います。
個別の改正について論じるもの退屈なので、まとめに入ります。
株式会社のスタートは東インド会社です。つまり、株式会社の歴史は植民地経営の歴史でもあります。
15世紀エリザベス女王の治世では、世界を支配していたのはスペインでした。大航海時代の中でスペインは南米に豊かな植民地を押さえ、そこから大量の銀をヨーロッパに持ち込んで富を築いておりました。
それに対して、イギリスは北アメリカの貧しい土地に二つの植民地(ニューイングランドとバージニア)しかもたず、植民地経営に後れをとっておりました。
これを逆転させたのが株式会社という存在です。
当時、イギリス国内では囲い込み運動によって富を築いたジェントリーとよばれる階層がおりました。このジェントリー達がもっている資金を吸い上げれば植民地経営の原資となります。
そこで、広く遊休資金を集めるために考え出されたのが株式会社という仕組みだったのです。
これにより、イギリスはカリブ海において大規模な植民地経営(商品作物の農業)を行い大成功をおさめます。イギリスはトラファルガーの会戦でスペインを破ったというのが有名ですが、一つの戦いで国の優劣がつくわけはありません。実質的にイギリスがスペインを追い越すにはこのカリブ海の植民地経営の成功を待たねばなりませんでした。
かように、たかが法律制度といえど、国の浮沈を左右するだけの影響力をもつわけです。
今回の商法改正は、我が国の今後に大きな影響を与えることでしょう。それが吉と出るか、凶と出るかは分かりませんが。
小渕前総理の急死にともない、森総理が誕生したわけですが、この選出過程が不明瞭だったので、彼はちまたでは「裏口入学総理」などと酷評され、それが最後の最後まで尾を引きました。
ですから、次期総裁の選出方法が少なくとも(形だけでも)こういうオープンな形だけでも出来てよかったと思います。
とはいえ、次期総理に期待がもてるか、といえば、(まだ誰が総理になるかすら明らかになっていないこの時点でいうのも早計ですが)僕はいささか悲観的です。
というのも、現行の選挙制度の下では、いかに個々の議員達ががんばっても、国の予算の配分を変更するのは困難に思えるからです。
現行憲法においては、一度選挙によって選出された議員は「全国民の代表」とされ、地元選挙区からは拘束されない、という建前をとっています。
したがって、選出された議員は、国全体のことを考え、議案を検討し、予算を承認することが望まれています。
ですが、もう皆さんご存じの通り、現実には議員達は自分の選出母体の利益を優先して行動しています。それが各議員にとって最も合理的な行動だからです。
しかるに、現在の選挙制度で最も問題なのは、いわゆる「一票の格差」、すなわち議員定数配分が極端に地方優位に配分されていることです。
アメリカなどでは1対1.08で違憲判決がでるくらいなのに、我が国では未だ三倍の格差に対して違憲判決が出せません。
議員の数は、議会での発言力の違いとなって現れます。また、都市部では多数の票を獲得しなければならない関係上ベテラン議員が育ちにくいのですが、これが、(政党内部の人事が年功序列であるため)、都市部議員の発言力が小さくなっている原因の一つとされています。
その結果、効率からすれば無駄としか言いようのない公共工事が地方に優先的に振り向けられることとなります。
確かに財政が豊かな時代であれば、ナショナルミニマムの名の下に地方に優先的に財政を振り向けることも許されたかも知れません。
ですが、もはや時代が違います。666兆円の財政赤字は、我が国にこのような贅沢をさせてくれる余裕を与えません。
では、一票の格差を正確に1対1に配分し直せばましになるでしょうか。これもまたそう簡単にはいかないようです。
地方の場合、社会構造が単純ですから地元住民が議員にお願いすることも自然に単純になります。例えば「米価値上げ」とか「ダムを作ってくれ」とか「外国農産物を輸入制限してくれ」とかです。
ところが、都市部の場合はそう簡単にはいきません。社会構造が複雑ですから多数の利害が対立しています。よって、議員に対する陳情も「公共工事」関係から「環境問題」「少子高齢化問題」
「交通問題」・・・・・・・・・・等々、その種類の多さは地方の比ではありません。
種類が増えるのに議員の数は一定ですから、影響力が分散されます。自然に都市住民の国会への影響力はさらに低下します。
ですから、「一票の格差」ではなく「影響力の格差」をなくすためには、極論ですが、都市部の議員3人に対し地方は1人という逆格差でも設けなければならないでしょう。
ま、なにはともあれ、総裁選はスタートしました。これに何の影響力もない僕はただ眺めているしかありません。これが一番悔しいかもしれませんね(笑)
【参考文献】
◎「三本の矢」榊東行著(早川書房)
小説としてはともかく、知識を得るためにはお奨めかも。都市部議員の影響力云々はこの本に載っていた。
今日は3月30日。もうすぐ今年度が終わります。年度替わりで身近に生じたことを二つほど取り上げてみます。
一つは、さくら銀行のATMが停止したことです。僕は近所のAM/PMのATMでさくらの口座を使っていたのですが、今日から4月2日までこれが停止します。理由は住友銀行との合併のためです。
おかげで、この週末は、念のためによけいなキャッシュを財布の中に入れて置かなくてはなりません。あまりキャッシュを持っていると無駄遣いするのでやなんですが(汗)。
ま、こういうせこい話とは別に(笑)、取引先企業は大変だと思います。年度末に手形の弁済期が来ているなんてところもあることでしょう。
銀行の合従連衡が進む今ですが、利用者にとってはメリットが感じられないのが悲しいですね。
財閥を超えた合併ということで、とかく話題になったこの組み合わせですが、意外な効用もありました。それは、間接的にではありますが、不良債権の処理に拍車がかかったことです。
人間(法人も)は、天下国家のために自分の血を流すことはしませんが、自分のためならするものです。不良取引先との腐れ縁を合併後まで持ち越せば、合併後の人事で自行の人間が肩身の狭い思いをします。よって、各行は合併前にできる限り問題取引先を整理しようと動いたのです。
例えば、前に述べた住友銀行と熊谷組などはその例ですし、昨日はいわゆる「危ないゼネコン」の一つだった三井建設が、さくら銀行をはじめとする金融機関から千数百億円の債権放棄を受けました。これらは、合併というイベントがなければまだまだ先延ばしにされたことでしょう。
もう一つは、スカイパーフェクTVのことです。
昨日の夜12時。スカパーで放送されていた日本テレビ系のニュース専門番組NNN24が放送を終了しました。
現在の衛星放送ビジネスは、BSと同方向に打ち上げられる新CS衛星を巡って動いています。CSに関してはディレクTVの事業撤退によって、スカパーが完全勝利したように見えました。
ですが、こうなると勝ち組の中での争いが生じます。今までスカパーに番組を提供してきた日本テレビがスカパーから撤退し、BS有料放送事業をやっているWOWWOWと組んで新CS衛星を使って新しいCS放送事業を始めることになったのです。
そういうわけで、昨夜12時。NNN24を映していた259CHは「放送終了のお知らせ」というテロップに変わり、僕らは番組を見られなくなってしまったという次第です。
結局のところ、CS事業体はスカパーに所属するフジテレビ・TBS・テレビ朝日系と日本テレビ系とに分裂することなりました。
それぞれの会社にはそれぞれの思惑があるのは分かりますが、僕ら視聴者にっては迷惑な話です。
そもそも放送番組というソフト(コンテンツ?)と、その媒体となるチャンネルとは別物のように思います。例えば、講談社が自社の直営店でしか少年ジャンプを売らないよ、といってもそれはメリットはないでしょう。放送番組を作る側が、放送番組を売る側を支配する必要はないはずです。
どうも、日本テレビの行動は、TV電波の資源が有限だった時代に通用していた場所貸し業(放送時間の切り売り業)としての習性にとらわれすぎているように思えます。
こういうユーザー不在の営業政策をやっていれば、CS事業そのものを潰してしまうように思えます。不幸なことです。
(と、昼飯時間終わり・・・・・)
今日の昼、薬害エイズ事件の安部元帝京大学副学長に対する業務上過失致死罪を訴因とする起訴について判決が言い渡されました。判決主文はもうご承知の通り無罪でした。
夕刊に判決の要旨が出ていましたので、目を通してみましたが、これが長い(汗)。
それでも、刑法のテキストと照らし合わせながら解読していくと、大体の内容が分かりました。
この判決のポイントは次の部分です。
7.1 本件における過失の判断基準
まず,刑法上の過失の要件として注意義務の内容を検討する場合には,一般通
常人の注意能力を基準にしてこれを検討すべきものと解される。そして,ここでいう
「一般通常人」とは,行為者の属性(医師という職業やその専門分野等)によって類
型化されるものであると考えられるから,本件においては,通常の血友病専門医の
注意能力がその基準となるものと考えられる。本件で問題となっているのは,前記
6.1のような特徴を有する医療行為の選択の判断であることに照らせば,本件にお
いて刑事責任が問われるのは,通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場
に置かれれば,およそそのような判断はしないはずであるのに,利益に比して危険
の大きい医療行為を選択してしまったような場合であると考えられる。
そして,本件公訴事実において検察官が主張する「血友病患者の出血が生命に
対する切迫した危険がないものであるときは外国由来の非加熱製剤の投与を控え
る」という治療方針を,本件当時の被告人が採っていなかったことは明らかである
が,他方において,我が国のほとんどの血友病専門医もまた,そのような治療方針
を採用していなかったことが明らかである。したがって,このような事情にもかかわ
らず,本件当時の被告人の立場に置かれたならば,通常の血友病専門医が外国
由来の非加熱製剤を投与しなかったであろうと考えられるような根拠があるのかど
うかが検討されなければならない。
(http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/aids-abe/より引用。)
下線部がポイントです。この判決の事実認定の多くの部分がこの認定に費やされています。
ですが、これはやはり変です。安部被告の病院・学会での地位を考えると、彼が危険のより小さい医療行為(クリオ製剤)を始めれば他の医師達は追随したでしょうし、逆に(本事件の通り)彼が始めなければ他の医師は始めなかったわけです。
なのに、他の医師達の判断を基準に安部被告の判断の適否を判定しても循環論法というものでしょう。
思うに、この事件の場合、検察官は過失犯で起訴するよりも未必の故意による殺人罪の訴因で起訴した方が良かったかも知れません(こんな事書けば、おまえ故意の証明がどんなに大変かわかっているのかよ、と叱られるかもしれませんが(笑))。故意犯なら、本人の能力を基準に判定ができましたし、今回の事件の実質を考えれば、むしろ殺人罪の方が妥当でしょう。
前にも述べましたが、我が国の刑法は常に故意犯(わざとやった犯罪)が中心となっています。過失犯は例外扱いです。
ですから、本来は過失犯は刑法ではなく、民法上の損害賠償で処理するのが法の建前です。
ですが、それではすまされない国民の処罰感情があるわけです。
刑法理論上、過失犯は、時代時代の大事件にあわせて常に問題となってきました。例えば、昭和30年代の交通犯罪の増加。そして、水俣病事件や森永砒素ミルク事件などがそれです。
こういった事件が起こる度に、過失犯の処罰範囲は広くなったり狭くなったりしてきました。
今回の事件をきっかけに果たしてまた揺り戻しが起こるのでしょうか。法律屋としては興味のあるところであります。
【参考文献】
◎毎日インタラクティブ
http://www.mainichi.co.jp/index.html
◎刑法総論講義(前田雅英著:東京大学出版会)
ま、今日は過失犯の勉強になった(笑)
今日、NTT西日本から電話がかかってきました。i・アイプラン3000の解約および払いすぎの料金の返還の件でした。
i・アイプラン3000とは、ISDNの料金プランの一つで、3000円の定額を払うと最高7500円分の通話が出来るというものです。僕が10月にフレッツISDNに加入する前に使っていたプランでしたが、フレッツの加入と共に解約していた(と僕は思っていた)ものです。
ところが、2月にふと料金明細書をみてみると、なんとi・アイプランの料金が未だに引き落とされ続けていました。常時接続であるフレッツISDNに加入すれば、i・アイプランに加入する意味はありませんから、まったくの無駄な料金を支払い続けてきたことになります。
フレッツに加入するときに、i・アイプランは解約しますね、と念を押され,「はい」と答えた記憶がありますから、これは全く納得できません。
さっそく116に電話して、解約および払いすぎの料金の返還を請求していたところ、ようやく責任者からの返答がきたというわけです。
どうも、昨今のマイラインやら、何やらでNTT西日本の現場がだいぶ混乱しているように思えました。
混乱しているというのは、現場だけではありません。実はNTTの社運をかけたISDN事業にも赤信号が点滅しています。
NTTの当初のシナリオでは、ISDNをもう少し延命させて、しかるのちFTTH、すなわち家庭への光ファイバー配備ともって行くはずでした。
ところが、ラストワンマイルまで光ファイバーでやるには、かなりの時間とコストがかかります。
そこで、諸外国では既存のメタリックペア線でそこそこの高帯域データ通信をやる技術が発達しました(ADSLって奴ですね)。あるいは、CATVによる同軸ケーブルデータ通信が電話回線を追い抜いて普及してしまいました。FTTHが普及する前にISDNが時代遅れになってしまったのです。
しかし、だからといってNTTがISDNをあきらめるわけには行きません。今までISDNにかけたコストはまさにこれから回収する時期を迎えていたからです。
そこで、NTTはさまざまな手段をとって国内業者のADSL事業への参加を妨害してきました。ADSL回線工事にわざと時間をかけるとか、ADSLに加入する場合利用者に同じ番号を使わせないとかです。
ま、こうしたこともいつかはばれるわけで、つい先日はとうとう公正取引委員会からNTTが摘発されるという不祥事を起こしてしまいました。
(ま、こうした手口は以前からよくやっていたらしく、ADSL関係じゃないんですが、審議会の委員の大学教授に、これ以上文句をいうと、お前の大学の学生を就職させないよ、と圧力を加えたとかいう噂を聞いたことがあります)
そしてついに、今年からNTT自身が自らが否定し続けていたADSL事業に本格参入するという事態を迎えたわけです。
NTTが新たに始めたADSL事業、フレッツADSLは、料金が5500円。フレッツISDNより1000円高いだけです。にもかかわらず、ADSLは下りの理論値が1.5M。対するISDNは64K。話になりません。インターネット通信に関する限り、ISDNはNTT自身によってとどめを刺された格好です。
僕が行っている草の根パソ通BBSでは、ISDNがいつなくなるのか、という話題でしばらく盛り上がりました。
まあ、ISDNといえどそこそこ普及していますので、すぐになくなるとは思えませんが、今後の展開はかなり難しいでしょう。ま、なるべくしてなった結末といえます。
ですが、この巨船NTTが方向転換をこまねいている間に、日本の通信事情は諸外国からはるかに後れをとってしまいました。アメリカはもとより韓国に対しても完全に出遅れています。
僕らはこの失われた時間を取り戻せるのでしょうか。
(この小回りの利かないNTTって、日本の企業に代表される性格のようにも思えます。おそらく原因は終身雇用制でしょう。先輩の業績を否定することは自分のみの安全保障にかかわることですから、たとえ事業が変な方向に向かっていても、異を唱えることはできにくいんじゃないでしょうか)
【参考文献】
◎「エコノミスト」3/20号
特集「松永安左右衛門翁が生きていたら」
◎「通信の最新常識」井上伸雄著 日本実業出版社
ADSLって、今の時代ではローテクな技術ですが、なにせメタリックペア線だと初期投資が必要ないので安上がりです。メタリックペア線の潜在能力がこんなに高かったとは驚きですね。
午前中、机の上で爆眠してしまいました。二日連続です。情けない(汗)。体内時計が狂ってきているのかも知れません。
で、ぼんやりした頭で日経CNBCの画面を眺めていましたら、妙な数字に目が止まりました。
「熊谷組 64円」・・・・「あれ?熊谷組って確か額面割れした株式の典型だったのに、なんでこんなに株価が持ち直したんだ?」
額面割れとは、株式の額面より市場の価格が下回っていることを意味します。熊谷組の株式の額面額は一株50円ですが、この株は、僕の記憶が正しいなら、たしか30〜40円くらいを行ったり来たりしていたはずです。
ですが、建設業界は今は厳しい時代が続いていて、株価が倍近く跳ね上がる要素はありません。
ヤフーの株式ニュースを見てみて(僕も好きだな(笑))ようやく合点がいきました。3月1日にこの会社は2株を1株に併合する減資を行っていたのです。
それだけではありません。住友銀行をはじめとする13取引銀行は、減資後の熊谷組へ約300億円の第三者割り当て増資を受けるというのです。いやー、恐れ入りました(汗)。
どういうことが行われようとしているのか簡単に(僕が理解する範囲で)説明します。
まず、熊谷組はバブル期の不動産投資があだとなって一兆円にのぼる借入金を抱えており、バランスシートに多額の欠損が出ています。
このままでは帳簿内容が悪すぎるので、住友銀行が中心となって債権放棄をしようということになっています。
ま、それはいいとして、単に借入金を減らしてもバランスシートはあまり改善しません。総資産の額が減ってしまっているので(くだらない海外土地開発のせいです)、たとえ負債を減らしても欠損が埋まりません(資産<負債+資本金他)。
そこで、株式を第三者に買ってもらう(というか、取引銀行が新株を引き受ける。これを泥棒に追いゼニと評した書き込みがあった(笑))ことで増資をするという手が考えられます。
ところがです。これは額面株式の欠点なんですが、額面株式の発行価格は額面以下で出してはならないと決まっています(202条2項)。熊谷組の市場株価は30円台でしたから、新株発行で増資をしようとしても、誰も買ってくれません。
そこで、株式併合による減資を行うわけです。株式併合による減資を行えば、二株が一株になります。それでいて会社資産はかわらないわけですから、理論上は株価は二倍になります。株価が二倍になれば、低迷している熊谷株でも額面額くらいは上回ります。
これでようやく熊谷組は増資をすることができるようになります。
また、これに加えて、減資自体にも帳簿を改善する効果があります。資本金そのものを減らせば、規模を縮小することでバランスシートが均衡に向かうのです。
では、なぜ住友銀行等はここまでして熊谷組を守ろうとするのでしょうか。
債権放棄といえば、あたかも銀行が損をするようで、公的資金を注入した上にゼネコンの借金を棒引きするのか、と批判を浴びたのは皆さんご存じの通りです。ですが、もう熊谷組の状態では、残る手だては民事再生法とか会社更生法のような法的整理しか残っていません。
ところが、これは実は貸し主である銀行が損害を被る方法なのです。熊谷組が潰れない限りは、銀行の貸出債権は価値がありますが、法的処置に入ってしまえば、この債権は二束三文の価値でしかないからです。ですから、銀行にとって債権放棄は次善の解決法ということになります。
もっとも、他のゼネコンや銀行の名誉のために付け加えておきますが、日本中のすべてのゼネコンや銀行が同じような目に遭っているわけではありません。
個人的な話ですが、僕はこのまえ勝ち組ゼネコンの○×組の社員寮の登記簿をとる機会がありました。僕は、ゼネコンといえばどこも財務が傷ついていて、きっとこの社員寮も抵当権だらけだろうな、と思っていたのです。
ところが、法務局で登記をとってみると窓口のおねーさんは甲区(所有権の公示)の用紙しか渡してくれません。
「あのー、乙区(担保物件の公示)は?」と聞くと、抵当権はまったくついていないという返事が返ってきました。
これには恐れ入りましたね。どの事業会社も資金計画が苦しくて、会社資産はたいがい担保に入っているものですが、全くの無担保資産をそのままもっていられるなんて、なんという余裕でしょう。
このようにバブル期に変なことをしなかった会社は、何の問題もなく黙って生き残っているわけです。今問題となっている会社は、単にバブル期にやったことのつけが回ってきているだけといえるでしょう。
政治家は問題ゼネコンをつぶすと日本が潰れるかのように言っていますが、実は潰してしまっても何の問題も起きないかも知れません。問題ゼネコンが潰れると誰が困るのか。そして国民経済のためにどうするのが得策か。それを考えると答えは自ずから明らかなように思えます。
【参考文献】
◎「会社法」龍田 節著 有斐閣法学叢書
数カ月ぶりに会社法の本を読んだ。額面株式の額面以下発行の禁止の条文が出てこなくて困った。これで大丈夫だろうか(汗)。
このレーザープリンタは買ってから6〜7年経っているでしょうか。エプソンのLP−1500という奴です。パソコン本体はX68000からPCへと代わりましたが、プリンタだけは未だに古いのを使い続けています。故障もせずよく持ったものです。
ですが、このレーザープリンタという奴、消耗品のトナーカートリッジの価格がとても高い。2万8千円くらいします。本体を売ったあと消耗品で儲けようというメーカーの意図が見え見えです。
最近のプリンターメーカーの戦略はだいたい同じで、本体価格を安くした上で、消耗品の買い換えで儲けようとしています。この前など、弟がレックスマークのプリンターを4980円で手に入れて、いい買い物をしたと喜んでいたのですが、いざカートリッジを買い換えようと店で見てみると、カートリッジの価格が4980円だったそうです。カートリッジの値段と本体(当然カートリッジが入っている)の値段が同じじゃないですか。なんだかなぁ・・・ですね。
さて、こうなると僕が採るべき方法は二つです。一つは高くてもトナーカートリッジを手に入れるか、あるいは、いっそ新しいプリンターに買い換えてしまうかです。
最近は、コンパクトレーザープリンターが安いですし、インクジェットプリンターの方も性能が向上していてレーザープリンターに劣らぬ(勝る?)速度で印刷してくれます。HPのインクジェットプリンタなんてすごく速いです。しかも、カラーです。値段的にもトナーカートリッジの価格+αで十分ですしね。
しかし、LP1500を捨ててしまうのはあまりにもったいないように思えます。そこで、WEBで安いトナーはないか、と探してみました。そうするうちに、僕は「リサイクルカートリッジ」というものの存在を知りました。
「リサイクルカートリッジ」とは何でしょう。一言でいうと、トナーの詰め替えです。トナーの原価は安い物なので、カートリッジにトナーを詰め替えればリサイクルのコストを含めても十分に安く提供できるのだそうです。感光体の寿命が気になるところですが、こいつも取り替えてくれるところがあるそうで、僕のLP1500用のリサイクルカートリッジでも10000円内外で手に入ります。
そういえば、インクジェットプリンターの方でも、空になったカートリッジにインクを補充して使うインクの詰め替えキットが売られていますね。インク自体のコストはさほど高いものではないでしょうから、これはおいしい話です。
逆に言うとプリンタメーカーとしてはそういうことをされては当初見込んだ収益が上がらないこととなりますから「カートリッジには純正品を使いましょう」なぞと取扱説明書にこれ見よがしに書いてくるわけです。
リサイクルカートリッジはかなり広く使われているらしく、WEBでいくつもの業者の名を目にしました。ですが、自分で実際に使ってみるとなるとちょっと勇気がいります。
そこで、さらに安いカートリッジはないか、とヤフーの中をあちこち探してみると、幸運にもオークションの方で新品のLP1500用カートリッジが数点出ているのを見つけました。価格も5000円!安いです。
このチャンスを逃すべきではない、というので、さっそく入札しました。
出品者の方とメールでやりとりをしてみたところ、以前の買い置きだが、本体を買い換えたので消耗品のトナーカートリッジだけ残ってしまったということでした。
金曜日にお金を振り込んだら、月曜日に宅急便でものがきました。確かに未開封の新品で、印字テストでもまったく問題がなく印字できました。
これで、僕のLP1500ももう数年寿命がのびたわけです。今風の言い方をすれば、余計な産業廃棄物と炭酸ガスを出さずに地球にやさしいことをしたってことでしょうか(笑)。
では、どういう番組を流しているかといいますと、少なくとも日中は、スカパーの251ch「日経CNBC」である場合が多いです。このチャンネルは、株価の文字が延々と表示されるのですが、バックに環境音楽がながれていて、部屋のBGMとして都合がよいからです。
ですが、今日はさすがに内容に見入ってしまいました。昨日株価の終値が1万3千円を割ったというのがニュースになったばかりなのに、株価が下げ止まらなくて、とうとう1万2千5百円を切ってしまったからです。
思えば、一昨年の夏、僕がこのスカパーを導入したとき、ちょうど株式ブームが到来していました。
スカパーでは無料で見られるチャンネルがいくつかあるのですが、その一つ240ch「資産運用チャンネル」では、「長い厳冬の時代を経て、投資家にようやく春がやってきた!」と大騒ぎをしていました。光通信などがもてはやされていたのはこのころで、株価はその後2万円あたりまで上昇しましたっけ。
で、その「資産運用チャンネル」では、資産運用オリンピック(?)と題して視聴者参加型番組をやっておりました。視聴者に一億円の仮想キャッシュがあったとして、株式の仮想売買でどのくらい儲けられるかを競うという企画です。
家庭の主婦やら、大学の株式研究サークル、さらに変なおじさん達まで巻き込んで番組は進んでいきました。株式は上昇基調で、参加者は買ったり負けたりしながらも、資産を増やしていきました。
この企画の最後の日、成果の発表がありました。一番儲けたのは20代の若者で、たしか1億円の元手を3億8千万くらいまで増やしたといっていました。
TVの画面の中で「あまり欲張らずに、こまめに売り買いの注文を出したのが勝因だったですね」と淡々と答えていたこの男の姿をみて、一瞬「僕もやってみようか」と思わなかった・・・と言えば嘘になります(汗)。
ですが、番組の司会者の次のせりふを聞いて、僕は考えを改めました。
「なお、番組参加者の運用の平均額は1億500万円でした」
はははは・・・。笑ってしまいますね。全体としてはほとんど増えていないじゃないですか。つまり、株をやれば、儲ける人の裏側で必ず損をしている人がいるということです。一億の元手を4倍弱まで増やした強者もいれば、ほとんどすってんてんになってしまったという人もいるということでしょう。
そして、人々の脚光を浴びるのは、常に一部の成功者のみです。人はこういった成功者の姿をみて、自分もやはり選ばれた勝者だと信じて賭場に向かうわけですが、現実にはむしられるカモとなるのがほとんどなのです。
話を戻して、我が国の現状を考えましょう。
小渕首相の死去の後森首相となってから、2万円まであがった株価が1万2千5百円まで落ちてしまいました。ですが、その前には1万5千円あたりから2万円に跳ね上がった時期もあったのです。
この間、銀行の定期預金金利のあまりの低さに嫌気がさして株式市場に参入した個人投資家も決して少なくないと思います。
また、一昨年の株価上昇局面で、株式会社や銀行は投資信託を大々的にうりまくりました。これに乗せられて株式市場に参入した個人も少なくないはずです。
ですが、こうした投資信託も当然株価下落の影響を免れずかなり悲惨な状況となっている模様です。(正確な運用成績を証券会社が公表しなくなった、これは悪い兆候であることは間違いないっす)。また個人投資家も最近は音沙汰なくなったのをみると、やはり損をしたのでしょう。
結局、儲けたのは高い株価で持合株を売り抜けられた事業会社や銀行等で、損をしたのは個人投資家ということです。これは、集められる情報量に格段の差があるため仕方のないことです。とはいえ、個人投資家が前述のむしられるカモになってしまったのは事実です。
おかげで、困ったことに、我が国の避けられない課題である「間接金融から直接金融へ」という目標がさらに遠のいてしまいました。この株安で損をした個人投資家達が株式市場に戻ってくるまでには、また長い長い時間がかかることは間違いないからです。
どうも、我が国の政策には個人投資家を大事にするという考えが決定的にかけているように思えます。
これは、我が国の経済構造が戦後長く間接金融に依存してきたという事実に由来するものでしょう。また、多くの従業員の生活をかかえる事業会社を倒産させるくらいなら、欲の皮の突っ張った個人投資家に馬鹿を見させた方がましだという妙な思想があるようにも思えます。
(それに証券業界の体質も問題です。あまり詳しく言えないけど、証券会社に絡むちょっとした事件の裏側には自殺者が出ている可能性があると思っていいです。)
ですが、その戦後の個人株主軽視の政策のつけが今の株価になって現れています。株式の持合によって、実際の実力以上に見せかけられた株価のメッキが今はがれつつあるのです。原理原則に反したインチキを繰り返してきたことのつけです。
現実問題として、このまま株価が上がらないと、僕らの年金や退職金はお先真っ暗です。為替リスクが怖いけど、個人として外国の金融商品に手をださなくてはならなくなるかもしれません。
事業会社への金庫株解禁なんぞと小手先の話が出ていますが、これはおかしいです。
事業会社は配当によって株主に貢献するのが基本。だから、配当を増やすとか、株主優待制度を拡充するというのが正道でしょう。
またどうしても株価を上げたいなら、金庫株なんてイレギュラーな方法ではなく、自己株取得して株式消却をするというのが正道でしょう。(もっとも、株価を上げる一番の正攻法は、業績を上げることですね。いうまでもなく。)そういう方向に持っていくのが正しい解決法です。
また、政府は小手先の市場対策ではなく個人投資家が銀行預金並の安心感をもって株式投資ができるよう施策を打つとか、原理原則に基づいた施策を採って欲しいと思います。
日記帳の書き込みの内容が重くなるにつれて、気楽に書き込めなくなってしまったのが原因です。書いている本人が楽しめないと続きませんので、これからは気軽に書いていきたいと思います(そうはいっても、今日の書き込みは重いです)。
先月は、検察庁の捜査情報漏洩問題で大騒ぎでした。
問題となった裁判官の官舎は僕の家の近くにあります。朝、九時頃、図書館に行くためにバス停で待っていると、目の前をマイクロバスに乗って集団で出勤していく裁判官達の姿をよく見かけておりました。
バスの中に僕と同世代の若い判事補達の姿をみるにつけ、寒風が身にしみておりました(笑)。ですが、あのバスの中には間違いなく古川判事もいらっしゃったわけですね。
日本人には自分たちには有能で高潔な官僚によって統治されているという幻想がある、とは岸田秀が言ったことですが、まぁそういう一面があることは間違いないことだと思います。
マスコミの報道などで、政治家や行政官僚については、その幻想もたぶんにメッキが剥げてきたわけですが、司法官僚については今でもかなり妥当しているのではないかと思います。
これには理由があるわけでして、裁判官は裁判所にやってくる事件を受動的に処理するのが任務で、自ら動いて事件を探し求めることはしません。ですから、裁量の範囲がごく限られているため、権限を濫用しようがないわけです。
さらに、退官後は弁護士登録をすれば何とか食っていけますから、行政官僚と違って、不正の温床となる天下りというパイプを作る必要がありません(あるのは公証人役場くらいか?)。
こうした、外部的な理由はもちろんなのですが、重要なのは、裁判所の方も、自らに高潔な裁判官というイメージを大切にし、自己規制をかけてきた面があるということです。
裁判官の場合、だいたい三年に一度の転勤があります。また、任地でもほとんど地元の人と接触しません。地元の人と癒着するのを防ぐためです。
酒を飲むときも、だいたい決まった店で飲みます。それもカウンターなんかではなく奥まった席で。店の方も心得ていて女将が不祥事が起きないよう見張っているなんて話も聞いたことがあります。
おかげで、裁判官への買収等がない(少ない?)という、裁判制度の運営がなりたっています。これは比較法的に見て、奇跡に近い現象だと思います。
ですが、こうなると裁判官の家族に対する精神的な圧力は大変です。旦那は職場である程度の交渉がありますが、家族の場合は交際する場合もたいがいは同僚の家族と言うこととなります。地元の人と普通に接することは難しいわけです。
(ちなみに僕の人格がひん曲がったのは、小学校にはいる前にあちこち(松江>長崎>対馬>大分>大分>小倉)転勤させられたのが原因の一つだ、と勝手に思ってます(笑))
今回の古川判事の奥さんは、こういう圧力に負けてしまったのだと思います。
2年前でしたか、政治集会に参加した判事補が、戒告処分を受けたことに抗議し、裁判官にも市民的自由があるとして争った裁判がありました(寺西判事補事件)。
これは、裁判官の政治活動を制限する法律へ異議を唱えたものでしたが、最高裁は寺西判事補の異議を認めなかったものの、五人の裁判官が反対意見を述べました。
こうやって、裁判官の中からも、制限付きの生活に対する異議がでてきつつあります。
僕は思うに、もう有能で高潔な裁判官というイメージはある程度崩さないとまずいように思います。現実の人間像と乖離しすぎるからです。こういう無理はかならずどこかにしわ寄せが来ます。今回の事件はその一例ではないかと思うのです。
ですが、これを裁判所自身が崩すのは無理でしょう。それは自分たちが今までやってきたことの自己否定になるからです。
結局、日本国憲法が本来想定している(裁判官の任期は10年となっている)、弁護士からの裁判官登用という方法を部分的にせよ採らざるを得ないのではないかと思います。
新しい機種はVAIOのC1VJです。こいつは前に使っていた携帯ワープロ書院WV−S200とほぼ同じ大きさで、手軽に鞄に入れて持っていけます。電池の持ちもよく、すてきです。
さて、本題です。
前に書いたとおり、今まで裁判所の書類はB版が使われていました。これは我が国の官公庁の公文書がB版で統一されていたためです。
その法律上の根拠は旧民事訴訟法規則にありまして、第六条に「訴訟書類には、できる限り、日本工業規格B列四番の用紙を二つに折ったもの又は日本工業規格B列五番の用紙を使用しなければならない」とされていたためです。
ですが、このたびの民事訴訟法の大改正に伴い、規則の方も改正され、このような規定はなくなりました。
その背景には、今やA4版が事実上の国際標準の地位を固め、A4版の書類とB版の書類が混在するようになり、事務能率に影響を与え始めたこと、OA機器などの導入の点で不利益を覚えるようになってきたこと、などがあります。そこで、裁判所に限らず官公庁は公文書を平成5年あたりから徐々にA4版に変更をはじめていたわけです。ま、裁判所が例によって一番遅かったともいえます。
その制度改変の趣旨は合理的なもので納得できるものです。
ですが、裁判所が、今年から起こす訴訟はA4の横書きで提出してほしいと言ってきたために、各法律事務所および裁判所の実務では大混乱が生じています(笑)。
その影響は当然我が家にも襲ってきました。今までB4袋とじ用紙に縦書きで書いていた訴状・答弁書等々をこれからA4横書きにしなければならないからです。
そんなのはワープロの書式を変更すればいいじゃないかと思うでしょうが、これがそうは問屋がおろしてくれません。
例えば、文書の中に「右に述べたとおり」という文句があれば、これは「上に述べたとおり」と書き直さなければなりません。また、漢数字をアラビア文字に直すのも一苦労です。
何より困るのが、証拠書類等です。手形とか領収書のコピーを書証として提出する場合、A4の用紙にコピーし直さなくてはなりません。
拡大コピーをすればいいじゃないかとお思いのそこのあなた、それは甘い(笑)。拡大してしまうと印鑑の大きさも変わってしまうので、印鑑の同一性の証明がとれません。四隅があきますが、通常コピーでやらないといけません。これに気づくまでに無駄なコピーを何枚とったことやら(涙)。
よりによって、先月は相続事件があったので、親父の仕事を手伝ったのですが、これは必要的共同訴訟なので、相続人全員に訴状のコピーを送らないといけませんでした。結局、十数枚の訴状を10通以上作るはめになりましたね。
おかげで、200枚くらいは残っていたはずのA4のコピー用紙のストックがあっという間に底をつき、自転車で買い足しに行くという寸劇まで演じてしまうありさま(笑)。
幸いなことに、現に係続中の事件については、今まで通りB版の書類でよいと裁判所から通達がありましたので、すでに作った書類を作り直すなどという悪夢は見ないですみました。とりあえず、ここ数ヶ月は裁判所でも混乱が続くことでしょうね。
私の親父などは、現場を知らない連中の思いつきのためわしらが苦労をする、とプンプン怒っております。
ですが、この用紙の統一による事務作業の効率化はきっとこれから出てくることだろうと思います。また、国際標準にあわせるという意味はきっとみんなに理解されることでしょう。
司法制度改革が世情をにぎわせる今日この頃ですが、意外なところで改革の影響を受けた思いがしました。
【参考文献】
◎「A4革命−スーパー書斎の整理術」山根一眞&情報山根組 著(日本経済新聞社:日経ムック1993年)
B版の由来は美濃紙という徳川家御用達の和紙からきているらしいです。で、公文書のA版への変更は、さぞ苦労があったと思われますが、具体的動きは行革審(土光臨調)から来ているとは意外でした。
こういう本を書かせたら山根氏は光りますね。同じ書院WV−S200使いとして好意をもてます。でも、この本はちと主観に走りすぎだぞ(笑)
銀行の持ち合い株についていは前にも少しふれたことがあるし、あとでもう少し詳しく説明するつもりですけれど、今回は政府の反応、特に亀井静香氏の反応が面白かったので、このことについて少しふれてみたいと思います。
株価については市場の動きに任せるべきで、政府がこれを操作しようとするなど、市場関係者の間ではとんでもないことというのが常識です。その背後には「何人も市場をコントロールできない」という経験則が横たわっています。
ところが、わが亀井氏は「市場のことは市場に任せよなどととんでもないことを言う人がいるが、市場の評価が実際の実力より低く見られているときは、政府が介入して当然だ」と言い放ったのです。
この二つの立場、どちらが正しいのでしょうか。実はどちらも正しいのです。それぞれの立場に置いては・・・。
僕の見るところ、亀井氏は権力の本質を本当によく理解していると思います。この点は先に政変未遂事件を起こした加藤紘一氏なんかよりよほど政治家として優れていると思います。
その権力の本質とは何でしょうか。それは「俺はえらい。よって俺の言うことをきけ」この一言につきると思います。国民のあいだで不都合が生じている場合、権力を持っている者が乗り出して、これを解消する。これこそが政治だ、ということでしょう。そしてこれは正しいのです。統治者の倫理に沿った行動であり賞賛されるべきです。
ですが、これは統治者・被統治者の関係においては・・・と限定がつきます。今回の亀井氏の発言は、その関係を超えたところに統治の倫理を持ち出しているところに問題があるのです。
世の中の人の関係は、統治者・被統治者の関係ばかりではありません。対等の立場で取引をする者たちの関係もあります。
そして、この取引をする者たちの間には、統治者・被統治者間の関係とは別の、市場の倫理ともいうべき法則がなりたっています。これは、統治者・被統治者間とは異なった倫理観です。
例えば、状況に応じて機敏に振る舞う人がいるとします。これは市場の倫理からすれば利にさとい、すぐれた人というポジティブな評価を得ます。ですが、統治の倫理からすれば、我利我利亡者とよばれ、ネガティブな評価しか受けないでしょう。同じ行動でも、評価する基準によってポジティブにもネガティブにも評価されるわけです。
市場の倫理からすれば、株価とは鏡のようなものとよく言われます。つまり鏡の前に立つ者が美しければ美しい姿を映しますが、鏡の前に立つ者が醜ければ醜いなりの姿を映します。そこには作為はありませんし、悪いのは醜い奴であり自業自得・自己責任という評価しかありません。
これに介入して鏡に現実と違った姿を映させようとする者がいるとすれば、そういう奴は非難されます。
ところが、統治の倫理からすれば、醜いという評価を受けることで俺の支配下にある者に傷ついた者がでた。ゆるせん!ということになってしまうわけです。むしろ介入しない統治者ほど非難されてしまいます。
亀井氏の今回の行動はまさにそれです。市場の倫理が働くべき領域に統治の倫理を持ち込んでしまっているわけです。(さらに深読みすると、そこまでやらないとやばいほど、日本経済は追いつめられている、とも言えます。)
亀井氏がこういう行動をとってしまうのは、亀井氏が警察官僚というまさに統治の倫理そのものの出身であるという事情からくることでしょう。
ですが、徳川吉宗の時代より、権力者が市場に介入してうまくいったためしはあまりありません。短期的にはうまくいっているように見えても、あとで必ず市場のしっぺ返しがきます。
市場という鏡は、現在の日本経済が醜いと言っています。ここは鏡に文句を言う前に、ダイエットを試みるというのが筋というものでしょう。
(加藤紘一が反乱を起こしたときの大義名分が「このままでは三月頃には日本経済は破局を向かえる」だったのは、慧眼だったですね。そういう意味では、彼は市場の倫理を読めた希有な政治家だったかな。)
では、どうすればダイエットできるのか・・・。政府がやろうとしている「金庫株」は効果があるのか。持ち合い株解消と法人資本主義は・・・それはまた後日(汗)。
【参考文献】
◎「市場の倫理・統治の倫理」ジェイン・ジェイコブズ著:香西泰訳(日本経済新聞社)1998年
今年の夏の成果の一つ。対談形式がかったるくて途中までしか読んでいないけど、「統治の倫理・市場の倫理」という補助線を使うことでかなり世の中がすっきり見えるようになりました。法律的にも「統治の倫理=ローマ法・市場の倫理=商法」という歴史的な流れがあるのが面白かったですね。
そういうわけで、粗大ゴミを出すなら今のうちに出しておかなければなりません。今日は、我が家にあった粗大ゴミをまとめて出しました。量が多く、また重たかったので、一仕事でした。たぶん、全体の重量は百数十キロはあったでしょう。
重かったのは、大型TVを二台も出したからです(これだけで90キロ)。それに加えて、年代物のレーザープリンターを二台(これも重かった)。買って二年で使えなくなった東京特殊鋼製17インチのパソコンディスプレー。羽のおれた大型扇風機等々・・・・・。しばらく力仕事はしていなかったので、ひざと腰にこたえました。もう歳ですねぇ(汗)。
大型TVの一つは僕が東京から持って帰ってきたものです。大型TVが普及するごく初期に買ったもので、東芝の普及品でした。
福岡に帰ってからも我が家の居間で使っていたのですが、ある日突然映らなくなりました。どうやらフライバックトランスが飛んだようです。修理することも考えましたが、修理代金が数万円かかるわけで、修理代金に数万円加えれば新品が買えてしまいます(今、このタイプのTVは値崩れを起こしています)。そういうわけで、そのまま自宅の倉庫に放置されていたのです。
家電品の修理部品は製造後7年間保管することがメーカーに義務づけられています。逆に言うと、7年経ったら、修理はしないよ、ということであり、それが製品の事実上の寿命と言うことです。
メーカー側も、7年程度持てばよいということで、その程度の造りで設計しますから、全体としてものが安っぽく見えます。べこべこのキャビネット、安っぽいスイッチ等々、安いんだから文句をいうな、と言われればそれまでですが、やはり貧相です。これは我が国の生活全般に通じることです。
家電のように、技術の進歩で寿命が短くなるのは仕方のないことですが、本来は長く使うことができる家具のような耐久消費財でも、我々は数年で買い換えることを前提として買うものですから、合板の安っぽい奴を買ってしまいます。
でも、安物家具はやはり安物でしかありません。カリモク社製のむく材を使った本物と比べると、その使用感に差がでてきます。そこが、ゆとりというものでしょう。我が国の文化がなんとなしに貧相なのは、こういう一時しのぎの消費生活を繰り返しているからかも知れません。
僕のTVは、7年を遙かにこえる年月使ってきましたから、当初の購入価額については減価償却が終わっている、つまり使い切っていると言ってよいかと思います。
しかし、それでもこれだけ長く使ってきた製品を粗大ゴミとして出すというのは心情的に抵抗があります。最後に、ゴミの収集車がテレビを飲み込み、収集車のクラッシャーがテレビをばきばきと潰してしまったときは、さすがに胸が痛みました。
物を買うことは楽しいです。特に相場より安く買えたときの快感といったら他に言いようのない幸福感があります。
ですが、長く使う物。例えば耐久消費財のようなものだけは中古でもよいからまともな物を買おう。そして長くつきあっていこう。そう思いました。それが地球に優しい生活というもんです(笑)。
年末のNHK特番では陪審制の是非に関する討論会が放送されていましたが、最近はこの陪審制の導入の是非に関する報道をよく目にします。社会の関心が高まっているのでしょう。
陪審制という言葉はよく聞きますが、これはどういう制度なのでしょう。参審制とどうちがうのでしょう。
裁判という存在があまり身近でないのでよく知られていないのですが、裁判のプロセスを大きく分けると、「事実認定」と「法律適用」の二つの部分に分けることができます。「事実認定」とはどういうことが起こったかを証拠と証人の証言から判断すること。「法律適用」とはその事実がどういう法律の条文に当てはまるかを判断することです。
一般に、「法律適用」の部分は法律の専門家でないと行うことはできないが、「事実認定」の部分については、証拠と証言から経験則と論理法則を使って社会通念に照らして判断しますから、良識を有している人であれば、必ずしも法律の専門家の手による必要はないと言われています。
陪審制は、裁判のプロセスを二つに分けて、「事実認定」の部分だけを国民から選ばれた陪審員の手にゆだねようというものです。したがって、陪審員の判断は絶対で、この判断に裁判官は拘束されます。
これに対して、参審制とは、たとえ「事実認定」とはいえ、事件の性質によっては専門的な知識が必要な場合もあるところから、裁判官に助言をできる人たちを裁判に参加させ、裁判官の事実認定を助けることを目的とした制度です。したがって、この判断は裁判官を拘束しません。
この二つの制度は、似ているようで実は全く異なった沿革を持っています。「参審制」の方は、各分野の専門家を裁判官のパワーアップキットとして装備させ、正しい裁判が行われることを主眼とするものです。
これに対して、「陪審制」の方は、英米法の歴史を知らないと理解できないと思います。
イギリス(というかイングランド)は、もともと北ドイツの方から流れてきたアングロサクソン系の民族が支配していた地域だったわけですが、ここは1066年に今のフランス地方を支配していたノルマン人によって征服されます(ノルマンコンクエスト)。
ノルマンの貴族はイングランドなどというへんぴな島国に永住しようという気はなく、現地には代官を置いて統治させます。
代官は、現地から搾り取ることが仕事であり、統治には関心がありませんでしたから、イングランドには、ノルマンの法とイングランドの法が併存する形となります。昔、「ロビンフッド」という映画
がありましたが、あの映画の中で、主人公のロビンが「我々はノルマンの法には縛られないはずだ」と叫ぶシーンがありました(僕はあの映画ではこのシーンしか覚えていない(笑))。イングランドの地域社会の問題はイングランドの人間が決めるという伝統はこういう沿革から生まれたわけです。
とはいえ、法が強制力を持つものである以上、裁判所は必要です。そして、裁判権は統治するもののが行うのが常です(もっとも教会が部分的に裁判権をもっていたり、イングランドの法はややこしい)。
そして、イングランドを統治しているのはノルマン貴族です。そこで、ノルマンの国王裁判所が裁判を下す場合には、イングランドの伝統的な法(コモンロー)を適用すること。事実認定には地域社会から選ばれた陪審員が行うこと、というルールが発生したわけです。
この陪審制度は、海を越えてアメリカ大陸に渡ります。そして、大きく発展します。アメリカもまたイギリスの植民地としてイギリスの法に支配されていましたが、この法律を作る議員を出す権利はありませんでした。この陪審制発展の陰には、ノルマンとアングロサクソンの関係に似たような構図があったわけです。
以上の陪審制の歴史から見えることは、統治者が作る法律に対する徹底的な不信であります。
そもそも、モンテスキューがかって「怖るべき裁判所」と述べたように、裁判所が下す裁判がいいかげんだと、民衆は泣かされます。裁判所が裁判権を濫用することはなんとしても阻止しなければなりません。
フランスやドイツなどの大陸法系の国々では、裁判所が適用する法律を作る側つまり立法府を民主化することでこれに対抗しようとしました。
これに対して、英米系の国々では立法府に対する不信が甚だしかったので、裁判所を民主化することでこれに対抗することにしたわけです。
陪審制の生まれた沿革はおわかりいただけたかと思います。問題は、陪審制と参審制のどちらを導入すべきか、です。
誤解を恐れずに言わせていただければ、参審制が「正しい裁判」を目指すのに対して、陪審制は「正しい手続きによる裁判」を目指すものと言えるかと思います。つまり、陪審制では必ずしも真実の探求はメインの目的ではない、ということです。
ですから、裁判を受ける国民の側からすれば、陪審制なればメリットがある(謝った裁判を受けるおそれが少なくなる)と考えるのは大間違いということになります。むしろ、「この裁判は誤っているかもしれない。しかし、民衆の代表が下した結論だ。だから我慢して受け入れてくれ」というのが陪審制といっていいと思います。アメリカのマジックジョンソン事件がよい例です。
そういうことならば、陪審制導入などとんでもない、と皆さんお考えになると思います。
ですが、僕は陪審制には欠点を補うだけのメリットもあると考えています。その理由は次の通りです。
我が国の裁判制度についてもっとも批判が集中しているのは、「時間がかかりすぎる」ということではないかと思います。
確かに、オウムのような事件に何年もかかっている現状をみると、その批判は当を得ています。
しかし、証拠と証言に基づいて誠実に裁判をしようとすれば、そのくらいの時間がかかってしまうのもまた事実なのです。我が国の裁判所が、事件の真相解明に費やすエネルギーはとてつもなく大きなものなのです。
「裁判所は真実が何かを解明するところだから仕方がない」とよく言われます。しかし、この命題には疑問があります。いったい真相の解明など可能なのでしょうか。そもそも不可能なのではないでしょうか。我々は最初から不可能なことをあたかも可能なように装ってはいないでしょうか。
我が国の刑事訴訟制度は、戦後大改正が行われまして、基本的には英米法の制度を採り入れています。そこでは、アドバーサリーシステム、つまり、乱暴に言うと、被告人は徹底的に自分の権利を守ることに命をかけ自己中心的に振る舞う。逆に検察官は訴追した以上被告人を有罪に持っていくよう自己中心的に振る舞う。そして裁判官はその様子を中立的な対場から見守り、どちらが正しいか判断する。そういうシステムです。
そういうシステムの中では、被告人の無罪は、検察官が犯罪の証明に失敗したというだけのことであって、被告人が罪を犯していないという真相とは何の関係もありません。逆に、被告人が有罪とされた場合も、検察官が犯罪の証明に成功したというだけであって、被告人が真実犯罪を犯したかどうかとは直接関係がありません。それがわかるのは神様だけです。
ですが、我々国民の意識は裁判によって真相が究明されると信じています。そして裁判所もそれに応えて真実を解明しようとつとめます。その結果が裁判の遅延につながるわけです。
陪審制は先に述べたとおり、ラフジャスティス。つまり「粗い」裁判です。ですが、陪審員が協議してその場で即決するため、非常にスピーディーな裁判が可能となります。そして、例え当事者(被告人・検察官)が不満を抱いても「民衆の代表が決めたことだ。文句があるか」という押しの強さをもっています。
そういうわけで、陪審制は我が国の裁判、特にオウム事件のように当事者が事件を否認して争っているような事件をスピードアップすることが可能となります。この点に、僕は陪審制のメリットがあると考えているのです。
こんなメリットは、事件の真相の解明を裁判の命と考えている職業裁判官は意地でも認めたくないでしょう。ですから、現職裁判官には陪審制度はきわめて評判が悪いです。
ですが、裁判で真実が解明できるなどというフィクションを押し通すのはもう苦しくなってきているのではないでしょうか。神様以外は真相解明なんてできない、というのは自然法則の帰結です。これについて裁判官が責めを負うなんて不条理です。そういう帰結は国民の代表たる陪審員に負ってもらうのが適当だと思います。
(最近、ある交通事故でお子さんを亡くされた両親が、検察官の事故処理のいい加減さをマスコミに訴えた事件がありました。街角で起きた交通事故で真実は何か、なんて事故を起こした本人が自白しない限り真相は決して明らかにならないのに、まるで明らかにしないのは検察・裁判所の怠慢だ、といわんばかりのこのときのマスコミの論調には、僕は正直呆れました。こういう人たちに納得していただくためにも陪審制はとても有効です。)
結局、どんな裁判でも人が人を裁くという事実には変わりはありません。裁判に関わる人たちが最善を尽くして、それが最良の結果を導くものであれば、どんな制度改革でもやるべきです。
ですが、制度を変えればそれですべてがよい方向に進むと考えるのも、あまりに楽観的すぎて採り得ません。司法改革審議会の面々には、慎重な配慮を求めたいと思います。
【参考文献】
「日本の司法文化」佐々木知子著(文春新書)
*著者は元検察官でアジ研の教官だった方です。今は参議院議員をなさっています。内容は検察官らしく犯罪者の処罰・治安の維持に傾いていますが、ここで述べてある日本の司法に関する疑問はかねがね僕自身が感じていたことなので、とても参考になりました。
注文したのは大昔の業務用ワープロ、キャノワード4000という機種です。システムがROM化されておらず、ましてやハードディスクも装備していないタイプです。起動するにはフロッピーディスクからいちいちシステムを呼び込みます。初期の98みたいなものですね。
なぜ今時こういう骨董品を手に入れたかわかるでしょうか?別に観賞用に買ったわけではありません。僕の父親が実務で使うために買ったのです。
僕の父親の事務所では、長くキャノワードを使ってまいりました。一番最初に入れたのはキャノワード45というマシンで、6809を載せて5インチフロッピー装備。和文タイプの代わりに導入したもので、確か100万を超えていました。
それから、キャノンの業務用ワープロを使い続け、今のキャノワード4000を導入したのは88年ですから、今から12年前となります。さすがにこれだけ使っていると、あちこち具合が悪くなり、最近ではFDDの調子が悪く、一基は完全に沈黙、もう一基も読み込みミスが多くなってきました。
私としては、こういう骨董品は粗大ゴミに出して、パソコンを導入してもらいたいのですが、父親はキャノワードの扱いに慣れきってしまい、他の機種には移りたくないというのです。
これはある意味合理的な判断です。事務所で作る文章は定型的なものであって、別に最新のワープロ機能は必要ではありません。また、新しい機種に移動するための習熟コスト、そこで生じる混乱を考えると移行に二の足を踏んでしまいます。
それにもまして、問題なのは、70に手が届こうとする父親に、今更パソコンの操作を覚えよというのはあまりに心苦しいということです(汗)。
キャノンの方に修理を依頼したこともあったのですが、FDD(何と2DD)の部品がないと言われ修理できないと言ってきました。もうお手上げです。
そこで、思いついたのがヤフーオークションです。もしかしたら事務所の片隅にでも放置されているキャノワードがあれば、どなたか譲って下さるかもしれません。
そういうわけで、ヤフーにおいて「キャノワード4000求む」と逆オークションをかけてみたのです。
狙いは的中しました。僕が逆オークションをかけるのを狙っていたかのように、業務用キャノワードの出品が相次いであり、僕らは狙いのキャノワードを二台も手に入れることができたのでした。
今回の件で面白かったのは、「4000ではないが、うちのキャノワードを引き取ってもらえないか」といった問い合わせが二件ほどあったことです。要するに死蔵されている業務用ワープロが少なくないということなんでしょうけど、逆に言うと、捨てずに持っている方が結構いらっしゃるという証拠でもあります。どんな機械でも長年使っていれば愛着がわきます。仕事上苦楽を共にした機械を粗大ゴミとして捨ててしまうのは忍びないという方が多いのだと思います。
パソコンの世界にいると、一つのマシンに愛着を持つということの困難さを身にしみて感じます。3年立てばだいたいの機械は古くて使い物にならなくなってしまいます(例外はX68000くらいか?(笑))。
ですが、まだ使える物を粗大ゴミとして出すという生活は、やはりエレガントではありません(最近流行の言い方ですと「地球にやさしくない」でしょうか)。
かといって、古いパソコンを無理して使っていれば、最新のソフト技術の成果を享受できず、時代に取り残されてしまいます。
いま、TVでパソコンのリサイクルをメーカーに義務づけるというニュースが流れていましたが、そういう仕組みが必要な時期にきているように思います。
そういう資源の有効利用という側面を抜きにしても、一つのマシンに愛着を感じられるほど長くつき合っていられればいいなぁ、なんぞと思っております。半導体業界をムーアの法則が支配している間は無理な話とは十分に承知していますが。
ことの発端は、バブルの末期、郊外の地主が都会のコンサルタント会社にそそのかされて別荘地を開発したものの、バブルがはじけて売れない別荘地を抱えてしまったというありがちな話です。
地元で小さな事業をやっていたその地主は、自分の持っていた遊休地にテニスコートやクラブハウス、宿泊所等々の施設を建て、企業の保養地向きの別荘地に作り上げました。最盛期には10億を超える値段がついたといいます。
ですが、バブルがはじけてしまいました。
バブル時に企業・個人が別荘地をほしがっていたのは、それが値上がりすることが見込めたからです。その値上がり分は含み益として税金のかからない収益となっていました。
ところが、今では土地が値上がりすることは見込めません。そうなると、利益を生まない土地など公租公課がかかるだけで意味がありません。いや、それどこか土地の値下がりが続き、土地を買えば含み損となってしまいかねない状態にあります。
当然、かの別荘地も今では誰も買い手がつかず、5分の1でも売れない状態になってしまいました。それでも、手持ちの資産が目減りするだけなら問題はないのですが、この地主は開発のために地元の農協から多額の借金をしておりました。
バブルがはじけた後もこの地主は土地が再び値上がると信じていたのでしょう。農協へ再三の弁済の延期を要請して今まで持ちこたえてきたわけです。ですが、もう限界です。このままでは家屋敷をすべて農協にとられるところまで追いつめられました。そこで、この地主は別荘地を捨て値で売り払う決意をしました。
僕がこの別荘地に出かけていったのは、この別荘地の売買契約の立ち会い人の弁護士のカバン持ちとしてでした。
さて、自動車で2時間以上かけて問題の別荘地についた僕たちは、まず売り主の地主さんに会うことになりました。
田舎とはいえ、事業をやっている家だから、事業家風の風貌をした人がでてくるだろう。チェーホフの桜の園みたいに没落貴族の令嬢でもいないかな・・・・・・なんぞと内心期待しておりました(笑)。
ところが、あにはからんや山男ふうの老人が出てきたのにはびっくり。これはコンサルタント会社のうまい話にのせられたんですねぇ(汗)。
それから、問題の別荘地に出かけました。さすがコンサルタント会社が目を付けただけあって、あたりは自然がいっぱい。本当に別荘地向きな物件でした。事前に見せられたカタログには美しく整備されたテニスコートやクラブハウス、温泉等々が載っていましたが、それは完成直後のこと。その後整備するものもなく、夏草にうもれて壮絶な光景となっていました(汗)。
敷地内には小川がながれていたのですが、その河岸もコンクリートできちんと整備され、遊歩道が走り、両岸が桜並木となっていました。桜の盛りの頃はさぞや美しい光景だったことでしょう。
ですが、その整備された河岸も、豪雨の度にあふれたのでしょう、流木が散らばり、排水溝を埋め、これまた壮絶な光景になっていました。
僕らが行ったのは夏でしたから、もう桜の花は散ってしまっていましたが、残された桜の樹が多量のサクランボをつけていました。自然の営みは偉大です。まるで人間達の思惑をあざ笑っているように見えました。
別荘地の話はこのくらいにしておきます。以下は、個別的な話を一般論でくくって結論を出しましょう。
バブルの原因については、いろいろな意見がありますが、一般にはプラザ合意以後の日銀の金融緩和が原因とされています。
しかし、ミクロで言うと、銀行の特に都銀のS銀行の東京進出が大きかったのではないでしょうか。(なぜ、銀行が土地関連融資にのめり込んだかは、また別の機会に述べます。)
都心部での地価の上昇は、都心の土地を売った人たちが郊外に家を求めることで郊外の地下を押し上げ、さらには別荘地(リゾート地)の需要までも引き上げたのは僕らの記憶に残っていることです。
つまり、バブルは都心から始まり郊外へ移転していったわけです。そして、バブルも賭博も同じですが、後半戦から参入するほど、ババを引かされる可能性が高くなります。
我々は、銀行危機と聞くと、都銀の不良債権を頭に浮かべます。しかし、実のところ、バブルの後半になって参入した地方の金融機関、農協なんかの方がよほど深手を負っているのではなかろうか、なんぞと不吉な推測してしまいます。
今日のニュースでも、『金融再生委員会、金融庁は15日、在日韓国人系の国内最大の信用組合「信用組合関西興銀」(大阪市天王寺区)を職権で破たん処理する方向で最終調整に入った。』と伝えています。
これからは、こういった小さい銀行や農協の処理が大きな山場を迎えそうな気がします。ですが、農協といえば政治が絡みます。そして解決策はまた税金の投入でしょうか。見苦しい茶番劇が予想されてなりません。
【参考文献】
◎「愚か者の舟」海老原泰久 著:文芸春秋社
*同名の海外小説もあるけど、これは純国産。
バブルの当時何が起こっていたのかを、文学の立場で述べようとする試みがあちこちで行われています。例えば村上龍のメールマガジンなどは、その分野の専門家を巻き込んですばらしい成果をあげています。
元銀行員の立場からは「果つる底なき」とか「はみ出し銀行員シリーズ」とかも出てますね。
この「愚か者の舟」は推理小説の形を取りながらバブルの形をミクロの視点で記述した本です。地上げの手法とか、土地転がしの手法などをちゃんと地道に取材した後が見られるので好感を持てます。ゴルフが趣味の刑事なんて、世界でも初じゃないでしょうか。
◎「突破者−それから」宮崎 学著:徳間書店
*こっちは、神田の神保町を舞台とした地上げの裏舞台が述べてあります。かなりどぎつい裏社会の話が書いてあるので心臓の弱い方は読まない方が良いかも知れないですね(汗)。僕でもかなり苦しかった。悪徳弁護士のモデルみたいな奴の話も出てくるしなぁ・・・・。
少年法改正の話題を取り上げたとたん、また少年の了解不能系の犯罪が起こりました。
この爆発物は花火などの黒色火薬を集めたもののようです。まぁ、この年齢の少年は、爆発物が好きなものです、いやいいすぎかな。好きな奴もいるってくらいにしておきましょうか(笑)。僕がその一人でしたから(汗)。ロケット花火の導火線にニクロム線を巻いて、連射したのは懐かしい記憶です。
ですが、それを使って人を殺してみたいとは思わなかったし、ましてや実際に使うこともなかった。海岸の防波堤から海面に向かって発射するのが関の山でした。(海中にロケット花火を打ち込むと、爆煙があぶくとなって浮き上がってくるのが面白かった・・・・・僕も危ないガキだったかな?(汗))
話は変わって、僕は大学のゼミでは「犯罪学」を勉強しました。犯罪学とは、犯罪の原因および犯罪者の処遇を研究する学問です。通常の法律学は、裁判所の中でどのような判決を出すかを研究しますが、犯罪学は裁判所に入る前、および入った後のことを研究しているといっていいかと思います(おおざっぱな言い方ですが)。
その中でも、犯罪原因論というのは、これが面白い分野でした。人はなぜ犯罪を犯すのか、ということを研究するのですが、犯罪者という類型をくくる道具として、昔からいろんな道具が使われてきました。
例えば、鬼神論(悪魔がついて犯罪者になるのだ)とか、進化論(犯罪者は先祖帰りだ)とか、骨相学(頭の骨の形から犯罪者類型を導き出す)とか・・・・・・・、まあ諸説紛々なわけです。
確かに、犯罪者と呼ばれる範疇に属する人たちには、一定の類似性が認められることは否定できません。ですから、そういう類型を見つけることができれば、そしてそういう類型になった原因をさぐれば、世の中から犯罪をなくすことができる、普通はそう考えがちです。
ですが、実は、これは正しくありません。
僕が昔、渥美東洋教授の刑事訴訟法の授業を受けていたとき、この先生がこういう風に言っていました。
「大学院などで犯罪学を勉強している連中に、まるで犯罪原因を取り除けば社会から犯罪をなくすことができるようなことを言う人がいたけど、それは間違いなんだよ。犯罪というのは文化の一部なんであって、人間の正常な営みの一部なんだよ。だから犯罪だけを取り除くことはできないんだよ。」
ずいぶん昔に受けた講義なのに、えらく明瞭に印象に残っている光景です。もちろん、この先生の意見は、犯罪自体を肯定するものではありません。
「個人は、誰でもいくらかは、その社会の集合的類型からズレを示すものである。そのズレが、集合感情を侵害するとき、人々はそれを犯罪として認知する。だから、犯罪のない社会とは、すべての個人が、その社会の集合的類型からずれることのない、超平準的な人間社会のことであり、このような社会の方が、よほど問題のある社会である。」(デュルケム)
だから、犯罪のない社会というのは成立しないし、しない方が普通というわけです。
話を戻して、この栃木の少年のような行動をとる少年は、たとえ少年法を改正して刑罰による威嚇を行っても抑止することは難しいでしょう。それが証拠に、この少年は犯行を侵した後も逃げていない。刑罰を受けるのがいやなら逃げるはずです。
かといって、このまま放置することもあまり良い方法とも言えません。こっちが被害者になるのは勘弁して欲しいからです。
とすれば、やはりポイントは教育かも知れません。
とはいっても、今までの、いわゆる「世間」(ないし社会通念)を背景とした「道徳教育」では、この子たちは裏に嘘の香りをかぎとって言うことを聞かないでしょう。道徳に合理性を持たせないと、説得力を与えられません。
あまりはっきりとは言えませんが、ゲームの理論から道徳を解きほぐしていくような教育、つまり道徳的に行動する方があなたのためにもなりますよ、といった教育が求められているのではないだろうか、と僕は漠然と考えています。
【参考文献】
◎「月曜の手紙」(内山 節:エコノミスト11/7号)
◎「社会的ジレンマ」山岸俊夫著:PHP新書
少年法改正案が参議院に続き衆議院でも可決され、とうとう法律として成立しました。
現行法上、人が犯罪行為を行っても刑罰が科されない場合がいくつかあります。例えば心神喪失者の犯罪がそれです(刑法39条1項)。これは人の責任を問う前提となる責任能力がないからです(責任能力については>ここを参照)。責任能力のない者の例としては、他に例えば、三つの子供のように善悪の判断の付かない未成年の場合が挙げられます。この場合も刑罰の対象とはなりません。
では、ここで問題となっている14歳以上の少年についてはどうでしょう。
刑法は確かに14歳未満の少年の犯罪行為については刑罰を科していません(刑法41条)。ですが、13歳の少年に善悪の判断が全く期待できないと考えるのは常識に反するでしょう。ここで処罰されない理由は、心神喪失者の場合とは異なります。少年の人格の可塑性から将来の改善更正に期待して、刑罰ではなく保護処分に委ねるべきだとする政策的な配慮に基づくものです。
そして、我が国の法律は、この刑法14条にアドインする形で、少年法が規定されています。これによれば、16歳未満の者に対しては刑事処分は許されず、また、16歳以下であっても20歳未満の者に対しては死刑・懲役・禁固にあたる罪についてでなければ刑事処分は許されないこととなっています。
これは、責任年齢そのものの規定ではないのですが、実質的には、責任年齢の引き上げとほぼ同様な結果になっていました。今回の改正はこの点にメスを入れたわけです。
この14歳という責任年齢は政策的配慮に基づくものですから、政策的判断が変更になればこれを引き下げることも可能なわけで、しかも、今回はアドインされた少年法の部分のみを改変したわけですから、刑法理論上の問題は少なかったといえるでしょう。
ですが、その政策的判断の変更が妥当かどうかは別問題です。
僕自身の私見も揺れています。この刑の厳罰化はおそらく犯罪抑止効をもたらさないでしょう。ですから刑事政策的観点からすれば反対するべきです。しかし、刑は犯罪抑止効のみで考えるべきはありません。「応報」という側面も否定できないわけです。このことを考えると、結論を出すのにどうしても躊躇(ちゅうちょ)してしまいます。
今回の少年法は被害者側の感情に配慮するような改正に含みを持たせた付帯決議がなされています。刑事手続に被害者の応報感情の慰撫を盛り込んで、刑罰によらない「応報」という奴を目指していると思います。この方向での法律の進化に期待したいところです。
ところで、この少年法の改正ですが、少年法改正の政策的判断の是非以前に、なぜこの時代に少年法改正が問題となったかについて考えてみたいと思います。
少年法は戦後の法律です。戦後の少年犯罪については、三つのピークがあると言われます。1951年をピークとする第一波、1964年をピークとし1976年に谷に達した第二波、そして1977年以降上昇過程をたどり1983年をピークとする第三波です。
我々は、多くのセンセーショナルな少年犯罪の報道を耳にしますから、今も少年犯罪は激増しているように錯覚しますが、実はそれは誤りなのです。1990年代に入ってからの刑法犯少年の絶対数は減少傾向にあるのです。(実は、凶悪な犯罪に限っては増加傾向にあるのでTVに報道されやすいという面があります)
少年法のできた戦後直後、そして第一波の少年犯罪のピークの頃は、現在に比べ物ならない凶悪な犯罪のオンパレードだったと言われています。終戦の社会的混乱は続いていましたし、経済的窮乏は今の日本では考えられない酷いものだったからです。
その頃、改正されずに運用されてきた少年法が、なぜ今になって改正されなければならなかったか。それは、想像するに、犯罪を犯す少年達の側ではなく、犯罪を評価する社会の側が変わったからだと思います。
では、社会の何が変わったのか。それは、僕の私見ですが、「都市化」ではないかと思います。
ドイツのことわざに、「都市の空気は自由にする」と言われるように、昔から都市は農村の人間にとって自分を農地から開放してくれる場所であり、希望の場所でした。
したがって、都市にはあちこちから雑多な人間が集まってきます。その中には好ましからぬ人間も含まれるというのは致し方のないことです。都市の住人は顔見知りでないのが通常ですから、他人の生活に関わり合いを持とうとしません。すると、どうしても都市には犯罪が多発しがちです。
他方で、農村は構成員の入れ替わりがほとんどありません。したがって、構成員はほとんど顔見知りです。よって、他人の生活に対する関与、つまり地域社会の統制がきつくなりがちで、犯罪の発生も少ないのが一般です。
こういう前提をもとに考えれば、犯罪者に対する風当たり(当罰意識)は、農村の方が厳しいと考えるのが自然です。犯罪を犯すような地域社会を害する者は懲らしめなければならないと考えるだろうからです。
ところが、実際に調べてみますと、これが違った結果がでてきます。都市の人間の方が、犯罪者に対する当罰意識がはるかに厳しいのです。
たとえば、国が教護院(児童自立支援施設)などを作ろうとすると、地域住民から反対運動が生じます。非行少年を身近に歩き回らせるなどけしからんというわけです。
ですが、この反対運動。最近引っ越してきた新住人と昔から住む旧住人とで、その態度が正反対になるそうです。旧住人はこういった刑事施設について理解を示してくれるのですが、新住人はみごとに拒否反応が出るのだそうです。
考えてみれば当然で、匿名性の高い都市の住人は、犯罪者の行為から身を守ることを自分で考えなければならないわけで、そうなると当然犯罪者に対する当罰意識が厳しくなってしまうわけです。
戦後の日本より現在の日本が犯罪者に厳しくなってきているのは、日本全体の都市化が進行し、地域社会による犯罪統制があてにならなくなってきているという現状をしめしているのではないかと思います。
いずれにせよ、少年法は改正されました。国民の当罰意識は一応は満足されたでしょうが、犯罪の発生自体には、まだ何の手もつけられていません。家庭裁判所や行刑機関がこの新しい法律を円滑に運用していただくことを期待したいと思います。
【参考文献】
◎「刑事政策概論」(藤本哲也著:青林書院)
私の恩師の書いた教科書です。
◎「一般市民の違法行為者に対する排斥-受容態度」(広瀬卓爾:日本の犯罪学6(平野竜一編:東京大学出版会)に収録)
◎「更生保護と地域社会」(川崎卓司:犯罪社会学研究3号に収録:立花書房)
開館前から門の前には長蛇の列ができており、いつもの学習室はあっという間に定員オーバーとなってしまい、一般閲覧室も満員御礼。しょうがないのでワープロルームに駆け込みました。
このワープロルームというのはワープロ・パソコン操作専用の部屋です。最近は図書館でパソコンを使う人も珍しくなくなっていますが、キーボードをたたく音がトラブルの種になっていると聞きました。うちの図書館ではその対策として、パソコン・ワープロの専用ルームを作ってくれたわけです。これで、キーボードを打ちならしても迷惑をかけないですむし、何より机に専用のコンセントがあるのがすてきです。
ただ、問題があって、通常の勉強にはできれば使いたくない部屋なのです。それは、この部屋の机がキーボードを打つことをねらって作られた机なので、通常の机より若干低いのからです。低い机で物を書いていると、腰が異様につかれるんですな、これが(汗)。
一時間もしないうちに机についている気にならなくなりましたので、ノートを手に持って、歩き読みすることにしました。私はわりと歩き読みが好きな方で、特に暗記物などをしなければならないときなどは、よくノートを手に持って、図書館の中を歩き回ります。
口の中で「こうとうべんろんとはこうかいのほうていでとうじしゃそうほうがしゅっせきし、ちょくせつにこうとうによりべんろん・しょうこしらべを・・・・」とつぶやきながら歩き回ります。我ながら不気味ですね(汗)。
やはり、日曜日には少し早めに家を出て、閲覧席を確保して置かなくてはなりません。若い者には負けるわけにゃいきませんから(笑)。
話は飛んで、この日記帳の中で何度もふれている「信頼社会と安心社会」の山岸俊男教授ですが、私がよく行く「ほぼ日刊イトイ新聞」で糸井氏との対談が連載され始めました。興味のある方は、ぜひごらんください。面白いですよー。
【参考Webページ】
「ほぼ日刊イトイ新聞」インデックス
まず、音楽圧縮技術MP3の出現がありました。CDなどから音楽データを取り込んで、それを圧縮する技術です。MP3自体は大した技術ではないそうなんですが、インターネット上で広まった結果、事実上の標準としての地位を築いてしまったことが重要だと思います。これによって、音楽ファイルの流通が可能となったからです。
MP3の存在は、サンデーでチャットしているとき知ったのですが、こういうのが好きな奴が、まるでHな画像を収集するがごとき情熱をもって集めていました(笑)。当時は(今でも?)MP3のファイルを多数載せた違法サイトが多数存在していたからです。
そうこうしているうちに、ナップスターというサービスが始まりました。ナップスターという会社が音楽ファイルの会員制仲介業(?)を始めたのです。ナップスターのサイトには音楽ファイルはなく、ナップスター自身は会員が登録している音楽ファイルを検索するだけ。ファイルの交換は会員自身が直接行うというのがミソでした。
ナップスター社は全米著作権協会に提訴され現在係争中なのですが、そうこうしているうちに、さらに今度はグヌーテラというソフトがフリーで出回るようになりました。こいつはナップスターのように中央サーバーを必要としません。個人のパソコン同士が音楽ファイルを交換します。
ここからどういう現象が生じるのでしょう。夏井高人明治大学教授は「はっきり言って、音楽産業は歴史的使命を終えたのだ」と述べています。音楽ファイルのようにいくらでもコピーが可能となってしまうデジタルコンテンツは、ネットに載せられたら最後、価格が発生しなくなるからです。価格のない物を販売する商売は(少なくとも今の形では)成立しません。
ナップスター問題も単なる不正コピーレベルで考えていれば本質を見誤ります。業界の存亡にかかる問題なのです。
と、まあ、ここまでは普通の本や雑誌に載っている話です。ですが、この前スカパーの258CHで放送されたソニーの出井会長の講演はさらにすごい未来を予言していました。
曰く「ナップスターと音楽産業の話を新聞記者の人たちに言うと、他人事のように驚いてくれる。ですが、あなたたちそんなに他人事で良いのですかと言いたい。例えば、新聞なんかがスキャナーで取り込まれて画像ファイルで出回るようになったらどうします?テレビなんかが圧縮映像ファイルでやりとりするなんて、もうすぐそこまで来ているのですよ。そうなるとテレビ局の編集権は無意味になります。また、映画なども音楽産業と同様の道をたどることはかなり可能性が高いのですよ。いわゆる著作権に関連するビジネスはどんな分野も影響が避けられないのですよ。」(だいたいこういう台詞だったと思う)
そうです。ナップスター問題を単なる音楽産業という限られた一部門の問題と考えてはいけないのです。実は、個人の著作物の法的保護のあり方自体を根本的にかえないとならない事態なのです。
さて、皆さん、用意は出来ていますか?
【参考文献】
◎「ナップスター問題」(夏井 高人:「エコノミスト 11/14号」P.58:毎日新聞社)
◎スカイパーフェクTV:JNNニュースバードでの出井会長の講演
*出井さんの講演を聴くのははじめでしたが、大変迫力のある人でした。デジタルのことならいくらでもしゃべりたいことがあるという様子でした。
以前は、電話代を節約するためにダイヤルアップ後目的のページをダウンした後、すみやかに接続を切って、しかるのちにキャッシュにたまったページの記録を読むという使い方をしていましたが、今はもう意味もなくつなぎっぱなしにしています。いわばテレビ感覚です。
つなぎっぱなしにしていると言うことは、パソコンをつけっぱなしにしていると言うことです。パソコンを動かしているとHDDやファンの音がうるさいので、落ち着いて勉強できません。そこで、ディスプレーやキーボードの延長ケーブルを買ってきて、パソコン本体は机から離れた押入の中につっこんでしまいました。おかげでパソコンの動作音は耳を澄ましてもほとんど聞こえないレベルまで静寂化されました。我ながらこのアイデアには満足しています(笑)。
話は変わって、僕のパソコンにはOdigoというメッセンジャーをいれています。これはICQみたいなもので(といえば語弊があるが)、自分が覗いているサイトにOdigoユーザーがいれば知らせてくれます。また、登録したパーソナル情報をもとに自分と同じ趣味の人間を世界中から捜してくるといったことができます。
このOdigoを入れておけば、全く知らない人からメッセージが届くことも少なくありません。
先日も、12時を回って、アルコールも回り、そろそろ寝ようかと思っていたところ、ディスプレー上にこういうメッセージが表示されました。
「You are attorney?」(・・・・・・げ、英語(汗)。attorneyって何だ?差出人は「PalaLegal」さん。もちろん知らない人です。何で外人さんから?)
私は英語はしゃべれませんので、芸がないなとおもいつつ、「Sorry!! I can't speak English.」と返答してOdigoの接続を切ってしまいました(汗)。
ひとまず落ち着いて、キャッシュに残された「PalaLegal」さんのプロフィールを読んでみると、謎が解けました。
「PalaLegal」さんは、30台の米国女性(独身ぉぃ)。不動産仲介業をやっておられるとありました。「興味のあること」の欄に「法律」とありました。私の「興味のあること」の欄も「法律」となっていますから、「興味のあること」が同じ人で全世界サーチをかけたのでしょう。で、たまたま東洋人男性の私がヒットしたというわけです。
ここで本題に入ります。僕はこの「PalaLegal」の意味も「attorney」の意味も知らなかったのですが、後になって調べてみると向こうの法律制度が勉強になりました。
まず、「PalaLegal」の意味ですが、これは日本語に直すと「法律職事務員」という意味になります。単に法律事務所に勤務いるという狭い意味ではなく、企業の法務部に所属するといった広い意味に理解されているようです。会社で経理部の人間をその専門性をさして「経理マン」という言い方をしますが、向こうでは法務部の専門性が日本より重視されているので、こういう言い方となるようです。
日本でも、企業内PalaLegalを増やそうと、今年から法務検定試験なるものが導入されています。日本で法務部の専門性が重視されるようになるにはまだまだ時間がかかるでしょうが、心強い動きです。
次に「attorney」ですが、これが問題でした。辞書をひくと「弁護士」となっていたからです。
通常、僕らが弁護士を指す言葉としては「lawyer」を使います。
辞書によると「lawyer」とは、「法曹、法律家(法律研究者、法律学者)。通常弁護士のことで、依頼人のため、訴訟、告発、弁護その他法的権利義務に対して助言する人の総称である」となっています。そして「attorney,solicitor,barrister,counselor,advocateの総称」とかっこ付きで注がついていました。
そして、「attorney」とは、「弁護士。代理人。代人。」となっています。さて、この違いはなんでしょう。
各国の司法制度の違いに伴って、弁護士制度にもいろいろあるのですが、前提として、日本の弁護士制度について説明します。
日本で弁護士というと、(原則として)司法試験を合格した者が司法修習を受けたのち、はじめて取得できる資格とされています。
司法修習所を卒業した者は三つの進路があります。裁判官、検察官、そして弁護士です。つまり法定で対決する三者は対等な立場でなければならない、という理念(法曹一元)に基づいて、裁判官や検察官と同一の研修を受けることを要するとされているわけです。
したがって、弁護士は法律資格としてはオールマイティーで、弁護士資格さえとれば、税理士、弁理士、司法書士などの事務も行うことができます。
では、この日本の弁護士に相当する英語はなんでしょうか。僕はやはり「lawyer」でよいのだと思います。
では、「attorney」を弁護士と読んで良いか。必ずしも間違えではないのですが、辞書によると英国ではattorneyはsolicitor(事務弁護士)と同義とされていますので、法廷代理権のない弁護士つまり司法書士くらいに相当する職業のように思います。
以上のことから分かるように、司法制度は各国それぞれの特長があります。僕らは日本の司法制度しか知りませんからこれが唯一のように思いがちですが、いろいろなあり方があるわけです。
現在、京都大学の佐藤幸司先生を長とする司法制度改革審議会が司法制度の抜本的改革を議論しています。
僕らは、この審議会の結論に直接の利害関係を有するのであまり客観的には(というか冷静には)ながめられないのですが、将来は弁護士という言葉の意味がまるで違ってくるかもしれません。それに伴って日本の国家構造自体まで変化する可能性があります。
さて、日本の未来は、僕の将来は・・・・・・・・・明日はどっちだ!(古語)。
【参考文献】
◎「法律用語辞典」(藤田欣治著:晃洋書房)
そういうわけで、今日は、部屋の装備品を耐寒モードに切り替えました。大げさな表現ですが、大したことはなくて、部屋の隅に放置されていた扇風機を片づけて、代わりに石油ファンヒーターとセラミックヒーター、それに袋式の足温器を出してきたというだけの話なんですが。
僕が住んでいるところは、福岡ドームから一キロあるかないかといったところで博多湾のすぐそばです。したがって、玄界灘からの北風は強いのですが、昼と夜の寒暖の差はそれほどでもありません。北国や内陸の方からいわせれば、何が耐寒モードだと笑われてしまうほど温暖なところです。
それに比べると、僕が東京にいたころ住んでいた聖蹟桜ヶ丘の冬は寒かった。冬に八王子行きの京王線特急に乗って車外を眺めていると、多摩川を超えたあたり、つまり聖蹟桜ヶ丘駅あたりから雨が雪に変わるんですよね。東京の場合、多摩川を超えると多摩丘陵地帯ですから、気温がそこでだいぶ下がるのです。そういうわけで川を超えるとはっきりと雪にかわります。
多摩川の冬景色でもう一つ記憶に残っているのが、多摩川の霧でしょうか。夜が更けて外気が下がってくると、川の水の方が温度が高くなります。そうすると、川から水蒸気が立ちのぼり始めるのです。これは水の方が比熱が高いせいで起きる現象ですが、多摩川の場合、多摩丘陵地帯から冷気が降りてきますから、よけいに目立ちます。
夜の多摩川の堤防を散歩すると、水面から立ちのぼる水蒸気が霧となって水銀灯で照らされるわけで、それが本当に幻想的な光景なのです。
僕は、親父の仕事の関係であちこち転勤させられましたが、住み易さという点ではやはり海岸に近い方が楽ですね。海が近くにあるというだけで、寒暖の差がおだやかになります。
ですが、四季の変化という点では、内陸部の方が楽しめると言えるかも知れません。もっとも、四季の変化に伴う苦労も多いのでしょうが。
さて、とりとめもなく思い出をつづってきましたが、話にきりをつけなければなりません(笑)。
そうですね。風景といえば富士山。富士山の話で締めくくることにしましょう。
今頃は、東京では冬の太平洋岸独特の青空の下に雪をいただいた富士山がよく見えていることでしょう。あれも関東地方の印象に残る風景の一つ、というか昔からの定番です。北斎の絵なんかにはかならず富士山が入ってきていますよね。
我々のご先祖様達は、こういう風景を見ながら詩を詠み、あるいは絵を描いてきたわけです。過去どれだけ多くの人々が、そこで驚き、喜び、あるいは涙を流したことでしょう。聖蹟桜ヶ丘はかって古戦場があったところだけど、戦場で斬られて絶命する寸前のさむらいが、多摩川のほとりで最期の光景として僕らが見ている同じ富士山を見たかも知れない。そう思うとゾクゾクしませんか?
こういう昔の人々の涙や感動が今ある風景を膨らませてくれるわけです。
つまり、風景は単体としてそこにあるから美しいわけではない、それを見る者の目があって風景を解釈するから美しいのです。そして、見る者もまた単体として存在するわけではありません。昔の人が同じ風景をみて涙し、感動したという歴史があるからこそ、見る者もまたより一層感動できるわけです。
この国の国土は、そういう昔の人々の涙、感動が染みついているわけです。学校でいわゆる古典を学ぶのは昔のことを知るのではなくて、今をもっと知るために学ぶのですね。僕は学校では古文漢文は大嫌いでしたけど、こう思うと、もっとまじめに勉強しておけば良かったかなとも思います。(ま、そうはいっても今からやろうとは思わないけど(汗))。
【参考文献】
◎「若き数学者のアメリカ」藤原正彦著
*新田次郎氏の次男で数学者の藤原正彦氏のエッセイ。氏がアメリカに留学したとき、アメリカの雄大な風景に驚きながらも、アメリカの風景には「詩がない」と述べる場面があって、それが今日の書き込みのもとネタです(汗)。
************ アンケートご協力へのお願い *****************
私ども、東京大学文学部社会心理学研究室では、情報化社会における
人間関係についてデータに基づいて研究しております。このたび、研
究の一環として、皆様の人間関係や情報化社会に対するお考えをおう
かがいするため、アンケート調査を実施することとなりました。ご多
忙中、まことに勝手で無理なお願いをし、大変申し訳ございませんが、
ぜひ私どもの研究にお力添え下さるおつもりで、ご協力をお願い申し
上げます。回答下さる方で、アンケートの結果を知りたいとご要望の
方には結果を(2月をめどに)メールにてお送りしたいと存じます。
アンケートにご協力いただけますなら、
http://research.l.u-tokyo.ac.jp/~ec_survey/
をクリックしてください。
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(注;IDは英文字5字をランダムに入力。いたずらしちゃ駄目よん)
アンケートの内容は、世の中の人間をどれだけ信頼しているか、を内容とする一連の質問です。これだけなら、以前述べた「信頼社会と安心社会」の研究と同様ですが、今回目新しいのは、アンケート内容が「インターネット上の信頼」にまで及んでいるところでしょう。
インターネット上で取り引きする際、ネット上の取引では基本的には見ず知らずの相手と一回限りの取引をすることとなります。そうなると、取引の相手をどくまで信用できるか、ちゃんと約束を守ってくれるか、が最大の問題となります。
そうなると、「たいていの人間は信頼できない」と考える人が多い社会では、多くの人が「インターネット取引など危なくてやってみる気にはならない」と考えるため、結果としてネット取引は発達しません。
他方で、「たいていの人間は信頼できる」と考える人が多い社会では、わりと人々は簡単にインターネット取引に参入します。その結果としてネット取引が発達します。ネット取引の事例が増えれば、悪い奴もいるわけで事故も当然起こるわけですが、その結果として個人の側のトラブル回避のノウハウが蓄積され、ルールが形成されていきます。
このルールが、人々のインターネット取引への信頼をさらに増進させネット取引がさらに活発となっていきます。
しかるに、「たいていの人間は信頼できない」と考える人が多い社会では、確かに、ネット取引の事故は発生しにくいです。ですが、それではいつまでたってもトラブル回避のノウハウは蓄積されず、インターネットでより安いもの、より珍しいものを買う機会を失ってしまいます。これを機会損失といいます。
「たいていの人間は信頼できない」と考える人が多い社会は、個々人が慎重に、賢明に振る舞ったが故に、社会全体としては愚かな振る舞いをしてしまうこととなります。これを社会的ジレンマといいます。
この社会的ジレンマをどれだけ解消できるかが、その文化を持つ国にとって死活問題となるといえます。
具体的な例を述べます。
昔々、僕が大学受験予備校にいたころ、数学の講師の先生(なべつぐさんね)が雑談で語ってくれた話でが、江戸時代の数学というのは世界レベルからみてもひけをとらないくらい高度なレベルに達していたそうです。
その先生は、地方の大名家の書庫に残っている資料から、そういった昔の研究を掘り出す作業をなさっていたそうですが、新しい文献を見つける度に感心させられたほどのレベルだったそうなのです。
その理由は、江戸時代の幕藩体制では、各藩がそれぞれ独立国家化しており、各藩がそれぞれ藩の教育機関を作り、学問を奨励し、文化を育てていたわけです。闘うという存在意義を失った武士達は、その存在意義を学問に求めたというわけでしょう。
その研究レベルは、例えば関孝和が、世界でも独自に微積分を見いだしたほど高度なものだったといいます。
ところが、明治維新以後、それらの研究は、我が国に何も残っていません。なぜでしょうか。
いろいろな原因が考えられますが(例えば、漢字を用いるのみで数学記号を開発しなかったなど)、僕はせっかくなされた多くの研究が、社会にひろめられることなく、藩の、あるいは家の、門外不出の「技」として、土蔵の中にしまいこまれてしまったからではないかと考えています。
授業の中でその講師の先生がおっしゃっていました。
ある藩の中で、数学で高名な家があった。ところが、同じ藩の中で、それ以上に研究が進んだ者がでてしまった。
そこで、その高名な家はどうしたか。その家は刺客を放って、そのライバルを斬り殺してしまった、と。
情報は周りに知らせないで囲い込んで置くことではじめて価値がある。これは今でも通じる原則です。そうすることが、個人にとって賢い振る舞いです。
しかし、情報は(特に数学のような学問の情報は)周りに知らせなければ、社会にとってメリットはありません。その情報を土台に皆が研究を進めればさらに多くの果実を得られるからです。
(ヨーロッパでも錬金術が盛んだった中世では日本と似たようなものだったそうです。これが変わったのは、当時の化学はイスラム社会の方が進んでいたので、公開するにしてもそれほど損を感じなかったから、とアシモフ先生がおっしゃってました。)
個人として賢明に振る舞ってしまったがために、日本の社会は数学を発展させる機会を失い、社会として愚かに振る舞ってしまった。まさに社会的ジレンマです。
その後の我が国が明治維新の際、国内の科学技術を振興するためどれだけ苦労したかを考えると、重要な社会的ジレンマを未解決に放置することは国にとって致命的なことと言ってもいいすぎではないでしょう。
さて、話を戻して、我が国は、「たいていの人間は信頼できない」と考える人が多い社会でしょうか、それとも「たいていの人間は信頼できる」と考える人が多い社会でしょうか。
社会心理学の調査によると、日本は欧米社会に比べて「たいていの人間は信頼できない」と考える人の割合が多いことが顕著なのだそうです。それは調査をすればもう明確にあらわれるのだそうです。
しかるに。我が国は森首相が音頭をとってIT革命云々と言っています。ソニーの出井会長を長とする情報戦略会議は2005年までに各家庭に高速データ通信網を張り巡らすと明言しています。
確かに、ハードウェアは日本の得意技ですからその目標は実現されるかも知れません。しかし、仏作って魂入れずといいますが、肝心の日本の文化自体がIT革命の障害となってしまうかもしれないわけです。
どうです?日本文化を変えますか?それともITやめますか?皆さんはどう思われます?
【参考文献】
◎「社会的ジレンマ」山岸俊夫著:PHP新書
◎「安心社会から信頼社会へ」山岸俊夫著:中央公論新書
*上のアンケートは明らかに山岸先生の研究を下敷きにしていますね。どんな結果が出るか楽しみです。
◎「文化の経済学−日本的システムは悪くない」荒井一博著:文春新書
*この本は、全部読んでいない(暇がなくなった(涙))のですが、ゲームの理論を駆使しながら山岸先生と正反対の議論を展開しておられます。日本が鎖国をしていた時代なら成り立つ議論かもしれませんね。
面白そうな本なんだけど、来年の八月まで読めないなぁ(はぁ)。
◎ 『アジモフ博士の輝け太陽』現代教養文庫
*弟の本棚にあったのを拝借。アシモフ博士って本当に教養人だったんですね。ご冥福をお祈りします。
僕らが本を読むとき、たいていは黙読です。特別な事情がない限り、声を出して読むということはありません。第一、そうでなければうるさくてしょうがありません(笑)。図書館で本を音読すれば、周りからブーイングの嵐を受けることでしょう。
ですが、これがいつの時代でも普遍的な真実と思っては間違いです。
中世のヨーロッパにおいて、キリスト教の僧院などで本を読むときは、音読が基本でした。黙って本を読んでいると「あいつは悪魔と会話している」といわれて気味悪がられたとのことです。
確かに、人が本を読んでいても、その内容を外部から推し量ることはできません。ですから考えようによっては気味が悪いともいえます。
これが現代なら、僕らは「本」というメディアになれていますから、たとえ身近で本を黙読している人を見ても、それほど不自然には見えません。
ところが中世では、本というメディアはごく一部の知識階層しか所有しておりませんでした。これが改善されるにはグーテンベルクの活版印刷の技術を待たなければなりませんでした。つまり、本というのは、当時のニューメディアだったわけです。
こういう時代では、本というメディアに接している姿は、さぞや不気味なものに見えたことでしょう。
さて、なんでこういう話をするかといいますと、次のような事件があったからです。
「電車内でEメールを注意した男性に暴行 千葉・松戸」
電車内で携帯電話からEメールを送っていた女性に注意した男性に対し、「目障りだ」などと腹を立てて乱暴、けがをさせたとして千葉県警松戸署は19日、松戸市常盤平1丁目、会社員田中庸公容疑者(24)を傷害の疑いで緊急逮捕した。
調べでは、田中容疑者は19日午後7時20分ごろ、同市松戸新田の新京成電鉄松戸新田駅のホームで、同市内の会社員男性(62)の服をつかんで引きずり回した上、鉄さくに頭をぶつけるなどした疑い。
男性は事件直前、電車内で携帯電話でEメールを送っていた高校生くらいの女性に「電源を切りなさい。どういう家庭で育ったんだ」と注意。女性が無視して、携帯電話の操作を続けたため、何度か注意したところ、そばにいた田中容疑者が「うるせえんだよ」などと言ったことから口論になったという。
田中容疑者と女性は面識がなく、調べに対し田中容疑者は「しつこく注意していたから、目障りだった」などと話しているという。 アサヒコム
http://www.asahi.com/0920/news/national20011.html
(ちなみに、これは、サンデーネットの時事問題研究会で(いろんな意味で)大議論になっている問題です(笑)。)
この話を読んで、僕は先日読んだ「団塊世代はなぜインターネットが苦手か」という本を思い出しました。
全共闘世代はパソコンには弱いのは、情報機器を右脳的感覚で扱っていないからだというくだりがあって思わずニヤリとさせらたのです。
曰く・・・・・・、若い頃から情報機器が身の回りにある若者は、誰かと話をしたいと思えば携帯電話をつかういうのは当たり前の話であって、特にその途中の過程を意識する必要はない。ところが、おじさん世代の人間の多くは左脳、すなわち理屈で物事を認識する。全共闘世代は話をしたいと思えば、左脳を使って携帯電話をかけるという動作を左脳で意識しなければならない。そのへんが全共闘世代が情報機器に弱い理由だというのです(笑)。
右脳云々という話はともかく、この本からは、全共闘世代が情報機器を自由に使える世代に相当いらだっているな、ということが読みとれました。
最近こそ、携帯・PHSでメールを飛ばす姿は日常のものとなりました。
ですが、自分がPHSを始める前は、土曜の午後の図書館など、閲覧室の机のあちこちで携帯・PHSで無言のメール会話をやっている姿に違和感を覚えました。あまりライブでこういった姿を見ない、いわゆるおじさんたちなら今でも違和感を覚えることでしょう。困ったものです。
もっとも、中世の人が黙読を気味悪がっていたとしても、今では黙読をだれも何とも思わないのと同様に、携帯・PHSでメールを飛ばす姿もやがて誰も何もいわなくなることでしょう。
とはいえ、他方で新しいメディアは携帯・PHSに限らず次々と現れてくることは確実なわけで、この辺の摩擦の種は尽きることがないように思います。
月並みな結論ですが、新しいメディアは公衆マナーを守って使いましょう(笑)。
【参考文献】
◎「読書の方法」(外山滋比古著:講談社現代新書)
*中世の僧侶の話はこの本に載っていたと思ったけど、今パラパラめくってみてもその話が見つけられません。別の本(渡部昇一あたりか?)かもしれないです。
◎「団塊世代はなぜインターネットが苦手か」(三木光範著:講談社ブルーバックス)
*著者は同志社大学工学部知識工学科教授。こういう方でも最初はパソコンに苦労したらしい。
宮城県築館町の上高森遺跡や北海道新十津川町の総進不動坂遺跡を舞台にした、東北旧石器文化研究所の藤村新一・前副理事長(50)の「旧石器発掘ねつ造」問題は、毎日新聞のスクープです。この問題が全国の考古学研究者に与えた衝撃ははかりしれません。
ある研究者は「事実と願望を混同した結果だ」とコメントしていました。僕もだいたいそんな感じだと思います。
自分の理論からすれば、ここからは石器が見つかるはずだ。見つからないのは、単に運が悪いだけであって、このへんのどこかに石器はあるのだ。ならば、このへんに石器を勝手に置いても間違ったことはしていない・・・・・・・。この研究者の思考過程はこういうことかと思われます。
まったく、こういう原因と結果を逆転した発想は困ったものです。報道によると、下手すると彼が関わった発見のすべてが吹き飛んでしまうはめになるかも知れないのだそうです。教科書も書き換えが避けられないでしょう。
ですが、我々は果たしてこれを笑えるでしょうか。なぜなら、我々の身の回りにこれと似たことは多く起こっているからです。
例えば、決算の結果が悪かったので、銀行の株が下がった。これは会計ルールが厳しいからだ。だから決算ルールを変えよう、とか。あるいは、企業のトップが悪いことをやって株主代表訴訟に引っかかった。これは、株主代表訴訟があるからだ。制度を変えてしまおう、とか。あるいは、我が政党が選挙に負けた。これは選挙制度が悪いからだ。制度を変えてしまおう、等々・・・・・。
事実が自分の都合に合わない場合、これを潔く受け入れるのは容易なことではありません。少なからぬ人間は、自分の都合に事実を合わせようとします。
ですが、いくら自分の都合に会わせようとしても、事実という奴は変わってくれません。いくら制度をいじっても銀行の経営が悪いのは変わらないでしょうし、企業のトップの違法行為の事実は変わりません。また、某政党の支持率が下がるのも変えられません。
自分の都合の悪い事実が出てきた場合、やはり人間手遅れになる前に事実を直視すべきですね。ヤなことですけど(汗)。
学園祭のシーズンです。昔々、僕が高校の物理部にいたころの話です。、高校の文化祭は部活動の重要な発表の場で、我が物理部もこの時期は発表の準備に力を入れていました。
一年生のときでしたか、先輩達はどこからか電子キットを買ってきて電子オルガンを作っておりました。そして、僕は誘電加熱器(ヒーターのない電気コンロ)の実験の準備をしていました。この実験は100Vを直接扱う実験でけっこう危ない奴でした。
案の定、ある日の放課後、僕は手元を狂わせて100Vをショートさせてしまいました。バシッと紫色の火花が散り煙が上がりました(汗)。まったく100Vをなめるものじゃありませんねぇ(汗)。
ところが、その失敗の影響は思わぬところに現れました。隣のテーブルの電子オルガンが突然沈黙してしまったのです。今考えると、サージ電流が発生して、CMOSが飛んだんですね。きっと(汗)。
当然、先輩達からは大顰蹙を買ってしまいました。代替のCMOSがなかなか手に入らず、文化祭がはじまるまでひやひやしましたっけ。(ごめんなさーい)
僕はここで100Vから何千ボルトを扱う電力系(強電といいます)の世界と、5V何ミリアンペアを扱う電子技術(弱電といいます)の世界の違いを知ったのでした。
さて話はかわって、先の「地上波デジタルフェア」で面白いものを見ました。電子・情報技術を主体としたフェアなのに、なぜか強電系の九州電力のコーナーがあったのです。
展示していたパネルを見てびっくり、九州電力と三菱電機が共同して開発した「電力線を使う通信技術」の展示でした。
どういうことかといいますと、電力線は電信柱の6600V60Hz三相交流電流をトランスで100Vに降圧して
家庭へ送られてきます。この100Vの電力線に搬送波を乗せて家庭との情報通信に使うというプランなのです。ADSLは通常の電話線の上の方の周波数が空いていることを利用してなりたっている技術ですが、九州電力のこの技術は、これを電力線でやろうというものなのです。
電力線の上には、様々なノイズが乱れ飛んでいるはずなので、これにはちょっと驚かされました。
この技術のメリットは、CATVのように新たにケーブルを張り巡らさなくても、すでに配置してある電力線をつかえるので、新たな投資がいらないこと。そして、現在電話線のある部屋しか使えないIT情報機器が、コンセントのある部屋ならどこでもつかえるようになること、です。なにせ、コンセントに電力モデムの端子をつっこめばそれで設置が完了するわけですからその手軽さはまさに家電感覚です。
対応してくれた九電の技術者の人の話によると、すでに今年中に300戸の家に実際に配置して実地テストを始めるんだそうです。「おやすくできますよー」とはその技術者の弁。通信速度は3Mはいくのだそうです。H−ISDN並ですね。
6600Vの電力線に光ファイバーを束ねて配置すれば、電信柱のスペースも問題ないですし、あとは汎用品のルーターを変電所に配置すれば、そのままNTTを上回る高速データーサービスが開始できます。
いや、それどころか、この通信網に音声データを流せばNTTの市内通信網に置き換わることも可能です。
今まで規制産業の権化のような存在だったNTTと電力会社が新しい市場を目指して雌雄を決する。何ともエキサイティングな話じゃないですか。
【参考文献】
月刊誌「インターフェイス」2000年?月号(CQ出版)
*例によって外国ではこの電力モデムは実用化されているようですね。日本ではあのビジコン社が輸入代理店をやっているようです。
佐賀の元高校生がバスジャック事件を起こしたのは忘れもしない今年の5月。その後、彼は京都の医療少年院に送致されたようです。
この事件の当時、少年が、いわゆる「引きこもり」であって、インターネット上の掲示板に「ネオむぎ茶」という名で活発に書き込みをしていたという事実が報道されて社会の関心をひきました。
彼は、掲示板の中で誰かに相手にしてもらいたかったのでしょう。みんなに注目してもらうため突飛な行動をとり、かえって皆の反感を買って袋叩きにあっていた模様です。
社会の中で相手にしてもらえない孤立した人間が掲示板に代表されるネット社会に居場所を求める。これは理解できる構図です。ネット社会のような広範なしかも匿名性の高い社会なら、誰かが相手をしてくれるだろう。ネオ麦茶君がそう考えたのも無理はありません。
しかし、これは大きな誤解です。なぜならネット社会は、実社会以上に厳しい実力主義の世界だからです。
掲示板システムの中では、人を引きつける文章力、人をうならせる知識量、そしてそれを継続して出し続ける体力が要求されます。楽しい文章やためになる文章を出力できる人はスターですが、そうでない人は相手にされません。逆に迷惑がられます。
(問題となった掲示板では、掲示板の話題についていく実力もないのに、レベルの低い書き込みをして場を盛り下げる人は「厨房(中学校卒程度の知識しかない坊やという意味)」という隠語で呼ばれて軽蔑されているようです。くだんのネオ麦茶君もそういう人のようでした)
もちろん、そういう面は実社会でもあります。ですが、実社会の場合は文章力以外に人を引きつける方法はいくらもあります。ところが、ネットでは決め手になるのは文章や、あるいはみんなの役に立つフリーソフトでも公開することです。当然、その厳しさは実社会以上となるのです。
実社会に適用できず引きこもった少年が、ネット社会に逃げ場を求めたこと自体無理があったといえるでしょう。
所詮、人間、寂しかったら自分を磨いて他人を引きつける人間になる以外逃げ道はないのです。どこにも桃源郷はありません。少なくとも他人を不快がらせて何とも思わないような人間は永久に孤独です。
夕べはちょっと嫌なことがありましたので、こういう書き込みになりました。不快に思われた方がいらっしゃったなら、ごめんなさい(汗)。
僕が使っている図書館の近辺は、催し物がよく行われます。この前は地元の放送局が主催した「地上波デジタルフェア」なる催し物が行われたので行って参りました。
デジタル放送といえば、BSデジタル放送の方に目がいってしまいがちですが、実はアメリカと同様に日本でも地上波のデジタル化が着々と進行しています。
ご存じの通り、現行の放送波はNTSCと呼ばれる方式を採用しています。これはアメリカを中心として規格化されたもので、最初はモノクロ専用でした。
ところが、後に技術が進んでカラー化する要請がでてきました。この時点で、二つの道がありました。一つはカラー専用の現行のNTSCとは全く別の規格をたてる道です。そして、もう一つは現行のNTSCを修正して互換性を維持しながらカラー化する道です。全く別の規格をたてた方が画質の点で優れていたのですが、結局、委員会は後者を選びました。これは正解だったと思います。
現行のカラーNTSCは、アナログ信号処理、いうなればアナログ圧縮の成果です。モノクロ信号にカラー信号を織り込むには、本来三倍の帯域が必要とされますが、チャンネルあたりの帯域は互換性維持のため変えることは出来ません。そこで、人間の目は細かい部分の色を識別する能力が欠けているという性質を利用して、大面積(低周波数)部分のみ色を塗り、カラー信号を大幅に圧縮した上でモノクロ信号にインターリーブさせて、互換性をもたせたのです。
ところが、地上波デジタル放送は現行のNTSCとは全く互換性がありません。完全に別物です。その点で、テレビの歴史始まって以来の大変革だといえると思います。
NTSCから地上波デジタル放送への移行スケジュールは次の通りです。
まず、2003年に首都圏等で本放送が開始されます。電波帯はUHF帯を使うようです。番組内容は現行のNTSCと同じものを平行して流すそうです(サイマルキャスト)。福岡のような地方局については、2006年からの予定です。アンテナ等の向きをどうするのか、聞くのを忘れましたが、UHFアンテナを福岡タワーに向ける必要があるかもしれません。
そして、計画では、2010年にて現行のNTSCは放送を終了。今のVHF帯にはデジタルラジオを流すのだそうです。
ちょっと、信じられない感じがしますが、会場の説明員の人(日立の人でした)の話では、どうも本気でやるみたいです。
この地上波デジタル放送は技術的には面白いです。感じとしては、片方向のみのISDNといった感じでしょうか(もっとも、電話回線をつなぐことによって限定的な双方向性は確保される。これはスカパーも同じ)。例えば、一チャンネルの中に、三本のサブチャンネルが入っていて、通常画質の映像を同時に三本ながす、あるいはハイビジョン相当画質の映像を一本ながす、といった柔軟な構成が可能です。(何でも、ISDBという言葉があるんだそうです。「B」はブロードキャスティングですかねぇ)
ですが、現行のTVを使えなくするわけですから、当然現行のTVより優れた利点がないと視聴者に対する説明が付きません。果たして一般視聴者にとってこの地上波デジタル放送にそれだけのメリットがあるのか。これが大いに問われることとなるでしょう。
【参考文献】
◎地上波デジタルフェアでもらったパンフレット
◎月刊誌「インターフェイス」2000年11月号(CQ出版社)
(特集:ディジタル放送の画像・音声・データ処理技術)