中世の幕開け
宮尾登美子”平家物語”、大河ドラマ”清盛”
及び京都ポータルサイトの平家物語年表(http://www.e-kyoto.net/rekisi/76)
を参考に 注釈を加え
 年表
 伊勢平氏・人物相関図
 天皇家と平家・相関図
 源家・相関図
 摂関家・相関図
を作ってみました
歴史絵巻”平家物語”を読まれる参考にして下さい

平家物語あらすじ  (私のwebから)
 
  源平絵巻(1)   平清盛&源頼朝
  源平絵巻(2)   後白河法皇
  源平絵巻(3) 源 義経
  源平絵巻(4)   義仲・平家公達・怪僧文覚
  後白河法皇 再論

平家物語 年表






西暦

天皇

院政

出来事

1118

鳥羽

白河

平清盛、生まれる

忠盛の嫡男ではあるが、白河法皇に仕えた女房から生まれたため、白河の子とする説が有力である

(NHKドラマでは更に白河が清盛の母を殺害する場面を設定、院の非道性、清盛の反貴族勘定・革命性を強調した

それは兎も角、逆に太政大臣にまで上り詰めた清盛の異例の出世から院の実子であったとする説が強い

日本屈指の専制君主・白河さん、養女・待賢門院璋子を我が孫・鳥羽天皇の中宮に付けながら、公然と手を付け後の崇徳を生ます

その事が保元の乱の原因となります

但し、白河さんは勿論、璋子さんにも、さほどの罪の意識もなく、

まさに世の常識を超越した上層の世界、TVドラマでは“けもの道”と表現していました

北面武士・佐藤義清も璋子さんに恋いこがれて出家、歌詠みとして大成します(西行)

1131

崇徳

鳥羽

平忠盛、昇殿許される(忠盛、公卿連中の殿上闇討ちを巧みにかわす)

1146

近衛

鳥羽

清盛、安芸守となる

1153

近衛

鳥羽

忠盛、死去(58歳)

1156

後白河

鳥羽

保元の乱、骨肉の争い、うまく立ち回った清盛及び信西(藤原通憲)が後白河に認められる

信西はさほどの出自ではないが、知略無類の政治家、保元の乱を契機に頭角を現す

崇徳(兄)     後白河(弟)

藤原頼長(弟)  藤原忠通(兄)

平忠正(叔父)  平清盛(甥)

源為義(父)   源頼朝(子/兄)

源為朝(弟)

1159

二条

後白河

平治の乱

後白河の寵臣(寵童?)・藤原信頼が二条親政派や源義朝をかたらってクーデター、院側近・天皇側近双方に“反信西”勢力を糾合、権力の頂点・信西を破った
しかし信頼それ程の人物では無かった故か勢力は内部分裂

清盛が信西の仇討ちを名目に立ち上がり信頼勢力を一掃

根底に院勢力(後白河)と天皇勢力(二条)の対立が有るものの、

信頼の信西への嫉妬、保元の乱での恩賞を不満とする義朝の清盛への嫉妬などを契機とした

結果的に“アナタコナタ”の才に長けた清盛が名を挙げ、国家の軍事権を掌握、文官上級貴族の凋落を招く

義朝の妾・常磐御前(身分は低いが絶世の美女)、今若・乙若・牛若を連れて京を脱するが、母を救うべく自首、3人の子の助命と引き替えに清盛に囲われ1児(三条殿)をもうける

1160

源頼朝、伊豆へ流される

1161

平滋子(時子の妹)、高倉天皇産む

清盛の妻・時子と言う人、なかなかの人である

清盛さんが外でつくった子供達を次々育て、上層貴族と血縁を結ぶ事で、平家一門の栄華を築きます(お家第一主義)

弟・時忠は後の大納言、“平家にあらずば人にあらず”と豪語しました

1167

六条

清盛、太政大臣従一位となる

1169

高倉

平滋子、建春門院の宣下

平徳子入内、高倉天皇の中宮に

1176

清盛に弄ばれた妓女たち(祗王・仏御前の話)

建春門院崩御

1177

行綱の密告により鹿谷平家打倒謀議露見、俊寛ら鬼界ケ島に流される

 成親(妹が重盛の妻、娘が維盛の妻)西光、俊寛、成経、康頼

 重盛は成親を必死に助命嘆願

 成親は後の平治の乱で信頼側につき、ここでも助命

1178

安徳天皇生まれる(母・平徳子)

1179

清盛、治承3年のクーデター

盛子・重盛の遺領を奪われたのが直接の契機となって後白河への怒り爆発、関白以下43人の官職を解き、法皇を鳥羽殿に幽閉(愛人・丹後局が侍る)、更に高倉の寵妃・信西の孫・小督を尼におとす

1180

安徳

高倉

安徳天皇3歳で即位

後白河の子・以仁王、源頼政(名馬木下をめぐって嫡男・仲綱と宗盛が確執)、源為義の子・新宮行家が平家専横を嫌って蜂起(宇治川戦いで以仁王討死、源頼政自害)

平重衝、忠度、三井寺を焼く

清盛安徳天皇を奉じ、福原へ遷都せんとするが、僅か半年で挫折

源頼朝、伊豆で挙兵

頼朝、母は由良御前、側近に中原親能・大江広元兄弟、

頼朝の旗揚げを勧めた“文覚”がよく小説に取り上げられる

北面武士・遠藤盛遠、従兄弟で同僚の渡辺渡の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺害、19歳で出家

頼朝の知遇を得て、アジテーターとして活躍(頼朝に義朝のドクロを見せて蜂起を迫ったと言う、兎に角激しい坊主のようだ)

愚管抄に曰く“乱暴で、行動力はあるが学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭る”

維盛・忠度らは頼朝追討の為、福原を出発するが、富士川の戦いで敗走

重衡、通盛ら、東大寺、興福寺を焼く

義経・頼朝、黄瀬川涙の対面

義経

 常盤の子

 義朝に殉じた鎌田二郎正清の遺児・鎌田三郎正近に出生の秘密を聞く

 金売吉次が奥州・藤原秀衡に届ける

   秀衡の妻は信頼の兄・基成(父が藤原長成の従兄弟)の娘

 奥州と義経の縁、奥州前九年役

   安倍貞任 対 藤原清衡・基衡、源頼義・義家 連合

重盛の家臣・斉藤時頼(滝口入道)と横笛の悲恋

1181

安徳

後白河

高倉上皇崩御(21歳)

木曽義仲、挙兵

清盛熱病の為死去(64歳)

1181

安徳

後白河

中宮徳子、建礼門院と称す

1183

安徳

維盛以下十万騎、義仲討伐に向かうが倶梨迦羅谷で敗れる

義仲上洛、宗盛は天皇、女院を奉じて西海へ(主上都落ち)

維盛ら平家一門都落ち

後白河、還御

義仲は朝日将軍の院宣を受け後白河の守護につく

後鳥羽天皇、即位

義仲、法住寺を襲い、法皇を押し込む

1184

宇治にて源義経、範義ら、義仲を破る(宇治川合戦・木曽最後)

解放された後白河は頼朝に平家追討の宣旨

範頼、義経平氏討伐のため京都を出発

鵯越の坂落しで平家大敗。忠度、敦盛ら討死

重衡捕えられる。他の一門は屋島へ退く

維盛、高野山に登り、滝口入道に導かれ出家、

那智の沖で入水(27歳)

1185

屋島の戦い(那須与市、扇の的を射る)

壇の浦の戦い

源氏は伊予水軍、周防大内氏、熊野別当・湛蔵増などを味方に付け、

阿波民部重能の心変わりなどもあって平氏はついに滅亡(大将・平知盛の最後が美しい)
安徳天皇
、入水。建礼門院は助け出される。

宗盛、時忠ら、生け捕り

建礼門院、長楽寺で出家(後白河の後宮に狙われ逃避した為とも言う)

戦勝の義経、腰越状を送り弁明するも、頼朝に鎌倉入りを許されず

宗盛父子被斬、時忠(大納言)被流、建礼門院は大原寂光院に

義経追討の院宣下る(判官都落ち)

維盛嫡子六代、斬られる所を文覚が命乞い

1186

後白河法皇、大原の建礼門院を訪問(大原御幸)

1189

義経平泉で戦死

1190

頼朝、上洛し、正二位大納言、右大将となる

1191

建礼門院、崩御

1192

後白河法皇、崩御(66歳)

頼朝、征夷大将軍になる

1199

土御門

後鳥羽

頼朝、死去(53歳)

六代、ついに斬られ、平家の子孫は絶滅