|
||||
とめられなかった戦争 加藤陽子 より (まとめを兼ねて) |
||||
ナショナリズム (工事中) | ||||
近代天皇制 (工事中) | ||||
近代右翼思想 (工事中) |
||||
まとめのまとめ:何故戦争を避けられなかったか? | ||||
昭和政党内閣 目次に戻る | ||||
カカワタハワイ | ||||
1924年加藤高明・1925加藤・1926年若槻礼次郎・1927田中義一・1929浜口雄幸・1931若槻・1931犬養毅 | ||||
(いっきに学び直す日本史 安藤達朗 より) |
||||
政党政治 目次に戻る | ||||
1918年、政友会の原敬内閣以来、政党政治が始まった。積極財政と強硬外交を謳い文句とする政友会、 | ||||
緊縮財政、協調外交を主張する憲政会(民政党)の二大政党制も実現(1928年第1回普通選挙実施) | ||||
選挙中の党利党略、美辞麗句で勝利した方が政権を取るのはよいが、 | ||||
折しも1929年世界恐慌をうけた経済危機になすすべもなく | ||||
”政党のスローガンと現実は余りにも違うじゃないか”政党政治への国民不信が高まる | ||||
後に”昭和維新”と呼ばれるテロや暗殺(民政党の浜口雄幸、井上準之助、政友会の犬養毅らの暗殺) | ||||
実行犯は右翼や軍人だったが、困窮にあえぐ民衆は、彼らに同情的だった(実行犯も民衆救済を旗印とした) | ||||
結局1932年5.15事件、犬養暗殺をもって政党政治は終わりを告げ、以後日本は奈落への道をひた走る | ||||
二大政党時代 目次に戻る |
||||
護憲3派から分裂した加藤高明そして昭和前期の若槻礼次郎(憲政会)・田中義一(立憲政友会)・浜口雄幸・ | ||||
若槻礼次郎(立憲民政党)・犬養毅(政友会)と二大政党による政権交代が行われた時代を二大政党時代と呼ぶ | ||||
しかし両政党の政策に差ほどの相違はなく、それぞれ財閥の利害を代表して(政友会は三井閥、憲政会系は三菱閥) | ||||
党利党略・権謀術策に終始した | ||||
両党の泥試合に国民が失望、後の軍ファシズム台頭の一因ともなる | ||||
政党政治は党利党略を求める政党によって自己崩壊した | ||||
憲政会→立憲民政党 | ||||
普通選挙制を主張(憲政の常道)、帝国主義的強硬外交(山東利権固執) | ||||
しかし第2次護憲運動以降、幣原喜重郎の協調外交に方向転換 | ||||
(国際協調と中国内政不干渉、幣原に変更ないが | ||||
加藤の憲政会にとっては大変更だった) | ||||
政友会 | ||||
普通選挙反対(反民主主義)、 | ||||
外政面はワシントン体制を支持(平和主義路線) | ||||
しかし田中義一内閣にいたって拡張外交に路線変更 | ||||
明治新政府の最大使命は日本資本主義の育成にあった | ||||
明治の薩長藩閥政治は三井・三菱・住友・大倉・渋沢・藤田組など政商を育てた | ||||
薩長とくに長州出身の政治家が政商を援護する事でかれらから政治資金を吸い上げる相互援助の関係が成り立っていた | ||||
特に日清戦争・日露戦争・山東出兵・シベリア出兵など戦争のたびに政商は肥え太っていった | ||||
自然政党も三井が政友会、三菱が憲政会の資金源となって見返りを期待、 | ||||
政党に流入した官僚も財界とのパイプ役が必要であった | ||||
憲政会・加藤高明は三菱社主・岩崎弥太郎の長女であった | ||||
当時党費も選挙費も総裁が殆ど受け持った | ||||
桂太郎の死後、桂の立志会党員は一番金を出す加藤高明の所に結集、憲政会初代総裁に仰いだ | ||||
辣腕家の原は結構金集めにも手を汚したが、高橋是清は金が無い事もあって党の指導至らず、 | ||||
陸軍から持参金付で政友会に転身(軍機密費から300万円を流用持参したとの噂)した田中義一に総裁の椅子を譲った | ||||
若槻礼次郎内閣 1927年金融恐慌 目次に戻る | ||||
1914年 第1次大戦の戦争景気(大隈内閣)→1920年 戦後恐慌(原内閣)→1923年 関東大震災と震災恐慌(山本権兵衛内閣) | ||||
→1927年金融恐慌(若槻内閣) | ||||
加藤高明病死で若槻礼次郎が後継 | ||||
加藤の延長内閣だったが、若槻には金が無く淡泊、優柔不断な性格は党員や西園寺元老からも頼りない存在と見なされていた | ||||
金輸出解禁・財政整理・金融恐慌(1927年、人苦になる金融恐慌!) | ||||
経済不況の原因 | ||||
@前政権からの紙幣の増発→インフレ | ||||
A国際競争力の不足 | ||||
B外国為替相場の不安定(円下落)→貿易不振 | ||||
憲政会・加藤高明(病死)を継いだ若槻礼次郎内閣は金が無く淡泊、優柔不断な性格は党員や西園寺元老からも頼りない存在と見なされていた | ||||
銀行取り付け騒ぎ、震災手形処理法案をめぐって 片岡蔵相失言 | ||||
渡辺銀行・台湾銀行・第15銀行休業へ、公布された銀行法は中小銀行に規制強化、三菱・三井・住友・安田・第一の5大銀行に資本が集中、図らずも恐慌によって金融資本が確立される結果になった | ||||
若槻内閣の幣原協調外交に反対する枢密院は政友会と組んで、台湾銀行救済策を敢えて拒絶 (経済恐慌も辞さない党利党略) →若槻総辞職 |
||||
憲政会は床次の政友本党と合併、立憲民政党となる(初代総裁は浜口雄幸) | ||||
田中義一内閣(右傾する政友会) 山東出兵→東方会議→満州某重大事件 1928年 目次に戻る | ||||
陸軍大将・田中義一を首相とする政友会内閣成立 | ||||
田中は山県の子飼い、末は”元帥”と期待されたが、持参金付で政友会に転身 | ||||
陸軍時代には、自ら望んで参謀部から歩兵連隊長に転出、エリート参謀部員と隊付将校の宥和を図ったり、”在郷軍人会”青年訓練所”などを設置して”兵営生活の家庭化”に努めた | ||||
”おらには300万人の在郷軍人が付いている”と豪語 | ||||
加藤(高)と若槻内閣の陸相時代、”軍縮”を断行した宇垣は田中の”知恵袋”であったが、”朝鮮総督”任官を容れられなかったため、田中に裏切られたと離反 | ||||
@経済政策 モラトリアム、日銀特別融通及び損失補償法、台湾銀行救済で金融恐慌に対処 | ||||
A強硬外交(下記) | ||||
B人民運動弾圧 3.15,4.16事件(共産党・労農党の一斉検挙・大弾圧)治安維持法改定 | ||||
幣原の協調外交の継続を全否定して強硬外交に | ||||
(産業立国=日露戦争で手に入れた満蒙権益を奉天軍閥(張作霖)を傀儡に”満蒙特殊地域”として、武力をもってしても保持) | ||||
戦争で手に入れたものは戦争でしか守り得ない(一旦入り込めば抜けがたい戦争の論理) | ||||
政友会は急速に右傾化 | ||||
@山東出兵(中国5・30事件、蒋介石の北伐開始で中国貿易縮小、満蒙権益まで損なわれる恐れに、日本軍は中国軍閥を傀儡としての満蒙分離を図り、在留邦人の生命・財産保護を名目として3回の山東出兵、蒋介石を頭領とする反日運動は益々激化) | ||||
A東方会議(外務省と陸海軍中央及び出先機関を招集して満蒙の分離、権益擁護のための武力行使する対支政策綱領発表)財閥も賛同 | ||||
B張作霖爆殺事件: 満州支配の傀儡に期待した張作霖が、蒋介石の猛攻に北京から敗走したので関東軍が殺害、 (随分乱暴な話だが、敗走する味方兵士はバッサリ殺すのが軍の倣い) 昭和天皇は”政府の宣戦不拡大方針のもとで関東軍の暴走は下剋上でないか、即刻処分せよ”と田中義一を詰問 一方田中は関東軍は政府・財閥の本音(東方会議決議)を忖度しての行動だから処分も出来ず、天皇の逆鱗に触れ退陣、 張作霖の息子・張学良は関東軍に恨みを抱いて蒋介石に帰順、結果満蒙支配の足がかりを自ら失った日本政府・軍は満州事変になだれ込む |
||||
対中強行外交は国内の不況を侵略戦争で切り抜けようとするものだった(日清・日露戦争で味をしめたが故”金融恐慌”打開のための中国侵略”に踏み切った、対外侵略の根因は経済問題で有ること、現在のロシア・中国・北朝鮮も同じであろう) | ||||
この状況が陸軍内満蒙強硬論者を勇気付けた、天皇によれば軍一線の”下剋上”に、しかるべき対応をせず甘やかしたが故に軍を勢い付かせ、手に負えなくなったのが”敗戦”の原因(拝謁記、いかにもオヤジ的で正直だし好感が持てるが、果たして下剋上だったろうか) | ||||
(満州事変から日中戦争へ、ファシズムの台頭) | ||||
緊縮財政は放棄され高橋蔵相がカムバックして積極(放漫)財政 | ||||
一方憲政会(民政党)は外政面は”幣原協調外交”、内政面は民主化を主張 | ||||
”平和と民主主義”の憲政会 | ||||
”侵略と皇室主義”の政友会の対立 | ||||
鮮明になってきた海外情勢 | ||||
@日本の中国侵略と中国側の抵抗、反日運動激化 | ||||
A日本と米英の帝国主義の対立 | ||||
B中国と米英との反日連合 | ||||
日本の中国侵略(いっきに学び直す日本史 安藤達朗 より) | ||||
日本資本主義論争 目次に戻る | ||||
30年代、日本資本主義と革命戦略をめぐって闘われた歴史的大論争は | ||||
共産党対社会党の対立として戦後にも引き継がれた | ||||
(”半封建資本理論”は”半従属資本理論”に衣替え) | ||||
第1期 1927−32年 革命戦略論争 | ||||
第2期 1933−37年 資本主義・封建論争 | ||||
講座派 | ||||
27年テーゼを受けた日本共産党が”二段階革命論”を主張 | ||||
当面する革命は絶対主義天皇制を打倒し地主制を撤廃するブルジョア民主主義革命 | ||||
を経て急速に社会主義革命に転化すべし | ||||
労農派 | ||||
封建的絶対主義勢力の物質的基礎はすでに失われており | ||||
国家権力におけるヘゲモニーは独占資本が握っているから | ||||
金融資本=帝国主義ブルジョアジーを倒す社会主義革命を 主張 | ||||
争点 | ||||
@地主的土地所有を半封建地代とするか、経済外的強制のない資本主義地代とするか | ||||
A明治政府の天皇を頂点とする中央集権国家を絶対主義国家とするか、明治政府の資本主義育成を重視するか | ||||
総括 | ||||
もともとコミンテルンの”民族統一戦線”方針の理論付けに発する論争だけに政治的要素に左右された歪みが大きかったが | ||||
”いつ日本の資本主義は成立したか”とか”天皇制は絶対主義か””寄生地主制は封建制の遺制か”など | ||||
今では無意味な論争とも思えるが、講座派の見解は日本資本主義の特性を抉って出色のものだった | ||||
資本主義は色々、確かに戦前日本資本主義は天皇制に名を借りた”開発独裁”によって成長した事は否めず、 | ||||
その矛盾の露呈が”太平洋戦争”だった | ||||
(占領期アメリカも、日本資本主義が半封建的である事を深く認識しており、 | ||||
しかも占領統治上”天皇制”を無くてならぬものとして利用した) | ||||
余談:昔学生時代に日共プロレタリア文学大御所の評論家・ 蔵原 惟人の”獄中記”かなんかで”文学は政治のシモベで有るべき”というような意味の事を読んだ。当時いささか旧制高校的高踏的気分だった私は”可笑しいでしょう”と思ったものだが 今思うに、芸術や学問は矢張り人類に役立ってこそと思う。ただそう割り切ると、芸術や学問が右にしろ左にしろ政治を忖度追従するようになる恐れがある、そうなったら”御用先生”ばかりが大きな顔 |
||||
無産政党の系譜 労働組合の系譜 | ||||
(いっきに学び直す日本史 安藤達朗 より) | ||||
浜口雄幸内閣 井上財政 昭和恐慌 1929年 目次に戻る | ||||
浜口雄幸井上準之助若槻礼次郎 | ||||
1927年憲政会と政友本党合同して立憲民政党結成、総裁・浜口雄幸 | ||||
政友会の”積極経済”の歪みを正すべく、 | ||||
蔵相・井上準之助は金解禁して緊縮財政・デフレ政策をとる(金解禁は諸外国に遅れたが、海外投資を求める金融資本の要望に応えたもの、又金解禁には緊縮財政と産業合理化が必要だった) | ||||
しかし時に世界大恐慌、金解禁→デフレでも、輸出は増えず、 | ||||
経済は未曾有の恐慌状態に突入(井上財政が呼び込んだ昭和恐慌) | ||||
この様な状況下にも財閥はカルテルで中小資本を吸収、金輸出再禁を見越してのドル買い等で莫大な利益を確保、国民怨嗟 | ||||
特に東北農村の飢餓恐慌が貧農救済を掲げるファシズム発生の一因となった | ||||
しかし国民は健全財政主義を評価したのか、総選挙は民政党の圧勝 | ||||
労働運動、農民運動は激化 | ||||
コミンテルンの指導で日本共産党再建(福本和夫)されたが | ||||
極端なセクト主義をとったがため、蒋介石の国共合作裏切りとともに農民運動が分裂 | ||||
共産党系労働農民党は国共合作の武漢政府を支持 | ||||
総同盟系社民党は蒋介石の南京政府を支持 | ||||
政府は共産党・労農党を弾圧 | ||||
外交・憲法・経済政策の争点肥大化の中で | ||||
陸海軍・右翼の国家改造運動、労働運動、農民運動 | ||||
が先鋭化 | ||||
3月事件:桜会・橋本欣五郎らと幕僚小磯国昭・右翼大川周明らと陸相・宇垣一成を首相とする軍部独裁政権樹立 クーデターを計画したが失敗、しかし首謀者は処分されず |
||||
浜口内閣は重要産業統制法公布、 | ||||
政府主導のカルテルで産業統制を強化(後の犬養毅政友会内閣で1931年金輸出再禁・インフレ政策に転換) | ||||
幣原協調外交は1930年ロンドン海軍軍縮条約調印 | ||||
←1928年パリ不戦条約←1927年ジュネーブ海軍群植条約←1922年ワシントン海軍軍縮条約 | ||||
→海軍が統帥権干犯と調印を批判、政友会も海軍に同調して政府を批判(政友会は党利党略に溺れ、海軍に同調しての | ||||
反対党攻撃、自ら政党政治の首を絞めた、まさに政友会の本性、弱さの露呈) | ||||
濱口 東京駅頭で右翼テロリストに狙撃され重傷・総辞職、若槻礼次郎Aが後を継ぐ | ||||
若槻おおむね浜口の政策を継ぐが、満州事変勃発 | ||||
満州事変 1931年 目次に戻る | ||||
関東軍が謀略によって南満州鉄道を爆破(柳条湖事件) 関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐、作戦主任参謀・石原莞爾中佐を中心とする陰謀だが、朝鮮軍司令官・林銑十カらも承知・賛意 |
||||
若槻政府の不拡大方針を無視して、朝鮮軍(林銑十カ司令官)が越境、沿線沿いを次々襲撃、北大営中国軍(張学良)が守備する奉天城を占領、満州制圧に走る | ||||
政府は”越境は認められないが、すでに出動した朝鮮軍の経費の支出は認め、統帥権干犯を責めなかった(これが昭和天皇が戦後に語った”下剋上に対して毅然たる処置をしなかった事が軍部の暴走・敗戦に結果した”と言う事だろう | ||||
蒋介石までが勢いに押されたのか、国連に訴えたものの、張学良には”抵抗するな”と指示 日本政府は皇帝・溥儀を立てて満州国建国(五族共和、王道楽土) |
||||
占領・植民地ではなく”満州国”が独立、新国家と条約(日満議定書)を締結、日本国軍が満州国内に駐屯することになった | ||||
満州事変の原因 |
||||
@関東軍は設置当初から、日露戦争でロシアから奪った旅順・大連・南満州鉄道等大陸権益の防衛が目的だった その意味で関東軍は対露(対ソ)戦略の第一線にあった。しかしソ連軍の進攻を仮定すれば、南満州だけの支配では防衛困難、更に北方まで支配地を広げる必要が有った(支配地防衛は支配領域の拡大を求める) 1917年革命を成し遂げたソ連は領域拡張意欲満々、コミンテルン等をもって着々とその影響力を増幅しつつ有った しかし未だ誕生間もない脆弱国家、経済混乱の最中に有るソ連を追いやって日本の支配地を広げるのは”今でしょ!” (余談:石原莞爾は天才的な理想を追いながら、実際戦略は極めて合理的で細やか 時期を見るに敏、兵站は現地調達すべし、彼にすれば”謀略”など極めて真っ当な戦略 ”日米最終決戦”の前哨戦として対ソ戦を戦ったが、日中戦争・対米戦争と拡大するに付け 一身を呈して反対、軍の暴走を制御するには石原しか居なかったし、事実頑張ってもくれたが、力及ばず、悪く言えば仮病を装ってまで、自らが主導した”日米最終決戦”の戦線を離脱した ”石原の言う様に進出は満州に止めておけば良かった”という意見もあるが、”日米最終決戦になる”予告していたのは石原その人だ、中国も米国も日本軍も石原の想定内・先見通りに動いたと考えるべきだろう。大きな違いは石原は日米決戦で”勝てる”と思っていたが、東条らの”戦略無き戦争”で”敗戦濃厚”になった、自分に任せてくれていたら”勝てる”と思っていたのだろうか? ”神ならぬ”石原莞爾”予測が甘かったのか?それとも最後まで石原を信じなかった軍部・元老の誤りか? いずれにしても、戦略の最大要点は”相手の動きを読むこと” 左右が相手さんに目を瞑って遮二無二走る中で、自他の形勢を客観視、かって自分が立て実行した戦略にも拘らず軌道修正、”敗戦”さえ見通し決意した石原莞爾は日本随一の”サムライ(戦いのプロ)”と思います) 石原莞爾:福田和也 ”地ひらく”より |
||||
A一方中国では蒋介石が北伐・国共合作に成功、祖国統一戦線・国権回復運動が結成されつつあり 更に米英ソに接近、強硬な排日運動で満州の日本権益が不安定になりつつあった ”南からの政治的攻勢を軍事力ではねつけながら、満蒙の地域を中国から切り離して日本のものにしてしまえば、 中国の要求は根拠が無くなるし、日本の人々を満足させられるじゃないか”という発想だった(”謎解き日本近現代史”野島博之” |
||||
B20年代、日本は恐慌と労働運動激化の最中 国内に資源らしきものを持たぬ日本の資本にとって、満蒙の豊富な資源が不可欠だった(石原莞爾の”満蒙生命線”論=山縣の”利益線”論)加えて急増する人口の移民先としても期待できる |
||||
C世界恐慌で完全失足していたアメリカも、事態の積極介入を避けたかった | ||||
D朝鮮で民族運動が激化しつつある当時、満蒙を緩衝地帯にしたかった | ||||
E満州を対支戦略の前線基地にしたかった | ||||
F対外戦争を政権奪取の機会にしたい右翼・軍部 | ||||
石原莞爾らは満蒙は日本の生命線との位置づけ、 | ||||
当初は直接支配(朝鮮型植民地化)を狙ったが、ワシントン体制への意識もあって間接統治 | ||||
統制経済で事変後の好景気が演出され、短期的には成功だった | ||||
日本製鉄など巨大国策会社誕生 | ||||
重工業中心の振興財閥誕生(軍部と提携) | ||||
満州に進出した日産や朝鮮に進出した日窒 | ||||
理研・森・日曹・中島など新興コンツェルンが形成された | ||||
3つの危機 | ||||
@経済危機 | ||||
A軍事クーデター | ||||
B対外危機 | ||||
のうち経済危機は取り敢えず沈静化 | ||||
軍事クーデターとして5.15、2.26事件等は | ||||
鎮圧されたが軍部の横暴・右傾化を強め | ||||
結局対外危機の陥穽に自ら陥る事になる | ||||
蒋介石は国連にリットン調査団を要請 | ||||
リットン調査団の報告は日本軍の自衛目的、満州国の自発的独立を否定する限りでは中国・蒋介石の主張を認めたが | ||||
”満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである”として | ||||
”中国が不買運動という経済的武力や挑発を行使している限り平和は訪れない”と日本側への配慮も見られる | ||||
つまり満州事変の頃まで、当事者・中国以外の列強諸国は日本の動きに是認的・同情的だった | ||||
諸国はご同様に帝国主義段階である、わが身を振り返れば日本を批判する大義名分も無かった | ||||
ソ連の進出を恐れる英国などは日本の帝国主義発展を後押ししてきた部分もある | ||||
問題は満州事変を先駆けとしてドイツ・イタリア等と | ||||
ワシントン体制(帝国主義先発組により打ち立てられた国際秩序)打破の連動が構築されていった事にあった | ||||
日本政府は1933年、”リットン報告”の制約を免れようと”国連脱退”、同時に軍は”もう国連の干渉を受ける必要なし”と満州に隣接する熱河に(張学良を追って)侵攻(何故か熱河は満州国内と思っていた政府も天皇も裁可、中国領土に侵攻と言う事になれば国連加盟国全てを敵に回すと斎藤政府は、慌てて天皇に裁可の取り消しを求めるも、 西園寺元老は”裁可の取り消しは天皇の権威失墜に繋がると拒否) |
||||
満州事変から太平洋戦争・敗戦への流れ 目次に戻る | ||||
満州事変から太平洋戦争・敗戦への流れを整理すれば | ||||
1931/9 満州事変 | ||||
1931/10 10月事件:桜会橋本・右翼大川らが又も荒木貞夫中将を首班とする軍部政権樹立を計画、 又も失敗するも処分なし(まさに戦後昭和天皇が大戦の原因として批判したように”下剋上お咎め無し”) |
||||
1931/12 政友会犬養毅組閣、金輸出再禁、インフレ政策復帰、世界恐慌の中で財閥はカルテル・為替ダンビング等で 巨利を得て成長 |
||||
1932/1 第一次上海事変(苦戦の上停戦) | ||||
1932/3 関東軍傀儡政権、溥儀の満州国創設 | ||||
1932/2 血盟団事件:日蓮宗僧侶・井上日召を盟主として”一人一殺”を主張するテロリスト・血盟団が前宰相・井上準之助、三井の団琢磨を暗殺 | ||||
1932/5 5・15事件、犬養毅暗殺で政党政治終焉、海軍・斎藤実・挙国一致内閣 日満議定書で満州国認知 |
||||
1933/3 リットン調査団報告に抗して国際連盟脱退 | ||||
国連代表松岡洋右:日本が国連に止まる限り、連盟は満州国を植民地とした日本を処罰せねばならない、 脱退は国連との衝突を避けたい松岡流平和戦略というのが三谷太一郎先生の説。 いずれにしろ日本は孤立を深め、ドイツ・イタリアに傾いていく |
||||
1933/5 日中軍事停戦協定(中国は満州国を黙認) | ||||
政治的一時安定の中で、軍は軍国謝儀確立を準備、経済は日満経済ブロックを形成して重化学工業に重点 | ||||
思想界への弾圧もより厳しくなった | ||||
1931年に創設されたナップ(日本プロレタリア文化連盟)小林多喜二虐殺、佐野学・鍋島貞親の転向声明等で34年消滅 | ||||
1933年 京大・滝川事件、1935年天皇機関説・美濃部達吉への攻撃 | ||||
1934/9 海軍・岡田啓介内閣、ワシントン海軍軍縮条約破棄 | ||||
1936/2 2・26事件、軍部大臣現役武官制復活 | ||||
1936/11 広田弘毅内閣、日独防共協定、ロンドン軍縮会議も脱退、無制限軍拡へ | ||||
1937/11 日独伊防共協定、西安事件で国共合作して抗日 | ||||
1937/12 盧溝橋事件で日中戦争開始、南京大虐殺 | ||||
1938 東亜新秩序声明 日独伊同盟を後ろ盾に ”アジアは任せてくれ”と”アジアの盟主””大東亜共栄圏”構想 | ||||
1939 日米通商航海条約廃棄通告、独ソ不可侵条約 | ||||
第2次世界大戦勃発 | ||||
1940 南京新政府樹立、日米通商航海条約失効 | ||||
大政翼賛会結成(新体制運動)、北部仏印進駐 | ||||
日独伊三国同盟締結(仮想敵国は勿論、米国) | ||||
1941 日ソ中立条約締結(日中戦争膠着に”北進”を棚上げにして”南進策”決定) | ||||
南部仏印進駐 アメリカも勿論座視できぬ、対日資産凍結・石油禁輸の”経済封鎖”で応えた | ||||
太平洋戦争(真珠湾攻撃) | ||||
1945 広島・長崎原爆投下、ソ連の参戦 | ||||
ポツダム宣言受諾 | ||||
5.15事件1932年犬養首相暗殺で政党政治崩壊 陸軍・斎藤実内閣、海軍・岡田啓介内閣 目次に戻る | ||||
犬養毅 | ||||
海軍青年将校による、かなり幼稚なクーデター | ||||
荒木貞夫外相を戴いての新体制を目指したが、荒木ら軍の上層部が取り合わずに失敗 | ||||
@政党政治腐敗への怒り | ||||
A農民窮乏への同情 | ||||
B軍人の矜持(第1次大戦後の肩身の狭い思いが満州事変で自信を植え付けられた) | ||||
C国家救済に向け君側の奸を討つ義挙との思いこみ | ||||
問題は事変によって政党内閣が終焉、議院内閣制挫折 | ||||
斉藤危機管理内閣は赤字公債発行・農村振興に向けての公共事業等で地方における政党の影響力を更に切り崩していった | ||||
政党政治崩壊の原因 | ||||
直接的には青年将校による5・15事件によったが | ||||
軍部をはじめ諸政治勢力の反政党化が政党政治を崩壊させた | ||||
@政友会による”地方利益”散布による集票システムが”不況・財政難”で行き詰まってきた | ||||
A若槻内閣倒閣に見られるように、枢密院が政党に反抗的になってきた | ||||
B官僚も政党の人事介入を嫌い反政党の色彩を濃くしてきた | ||||
C国際情勢の緊迫が軍部をはじめとしてワシントン体制への反発を招いた | ||||
岡田内閣は民生党・陸軍統制派と新官僚・社会大衆党の支持を取り付け、過半数政党・政友会と陸軍皇道派に対抗 | ||||
内閣審議会・内閣調査会を設置、政策立案能力を政党から取り戻す事で政党の存在意義を薄める事になった | ||||
結果 政友会は皇道派に接近、美濃部”天皇機関説”を攻撃 | ||||
しかし政友会が岡田内閣打倒のため陸軍皇道派とともに展開した”天皇機関説排撃運動”は | ||||
政党政治のイデオロギー的基礎を政党自身が攻撃すると言う自殺行為以外の何物でもなかった | ||||
陸軍は統制派が独裁 | ||||
*統制派(永山鉄山・東条英機・今村均・武藤章ら、統制により総力戦体制を築こうとする) | ||||
*皇道派(荒木貞夫・真崎甚三郎ら陸軍青年将校の直接行動を野放し) | ||||
*統制派は社会大衆党にも手を伸ばし、国家社会主義体制を目指したか? | ||||
*新官僚(新設された内閣調査局の修正資本主義的内務官僚) | ||||
政党内閣断絶後の内閣 目次に戻る | ||||
サオヒハコヒアヨココトコス | ||||
1932年斉藤実 1934岡田啓介 1936広田弘毅 1937林銑十郎 1937近衛文麿 | ||||
1939平沼騏一郎 1939阿部信行 1940米内光政 1940近衛文麿 | ||||
1941東条英機 1944小磯国昭 1945鈴木貫太郎 | ||||
二・二六事件1936年 広田弘毅(陸軍のいいなり?)内閣 林銑十カ(陸軍の擁立)内閣 目次に戻る | ||||
総選挙では皇道派と結んで”天皇機関説”攻撃に専念してきた政友会が敗れ、 | ||||
一応反軍国主義、反ファシズムを掲げた民政党が第1党に、しかし政党への不信回復にはならなかった | ||||
皇道派青年将校のクーデター2.26事件 | ||||
@国民的支持を得ていなかった | ||||
A”君側の奸”・重臣を討って天皇に訴えようとした彼らであったが、天皇からも排斥された | ||||
皇道派:青年将校と荒木貞夫・真崎甚三郎、観念的天皇中心の国体論(北一輝の昭和維新論) | ||||
統制派:永田鉄山・東条英機を中心とする中堅将校 | ||||
荒木貞夫・真崎甚三郎の排斥に怒った皇道派・相沢三郎中佐が1935年永田鉄山を刺殺、 | ||||
1936年2・26のクーデター蜂起、皇道派が鎮圧されたことで、逆に統制派を中心とする軍部が実権を完全掌握、 | ||||
後継広田内閣のもと、粛軍(反対派一掃)広義国防国家を称えて政府への発言力も強化 | ||||
軍部大臣現役武官制復活、大幅な軍拡、メーデー禁止、日独防共協定、日独伊三国防共協定締結 | ||||
*昭和天皇3大ご聖断 | ||||
張作霖謀殺事件の事後処分の遅れで田中義一を叱責 | ||||
2.26事件の青年将校鎮圧の命令 | ||||
ポツダム宣言受諾 | ||||
B”皇道派”は北一輝の”国家社会主義”を理想としたが、 | ||||
民衆から浮き上がった独善的行動は失敗、結果的にその隙に入り込んだ統制派的軍国主義を助長した | ||||
クーデター鎮圧後の議会 | ||||
民政党は反軍国主義、反ファシズムを鮮明にしようとした | ||||
政友会も選挙敗北もあって反ファッショ化に向かった(腹切り問答) | ||||
しかし社会大衆党は親軍的色彩を強めていった | ||||
政友会・民政党連携しての宇垣擁立は陸軍(石原莞爾が主導して)によって阻止(陸軍大臣推薦を拒否) | ||||
陸軍によって立てられた林銑十郎は議会に支持基盤を持たず短命に倒れる | ||||
林内閣と陸軍は広田弘毅の”広義国防”に関心を失い、国家社会主義に決別しようとした | ||||
(広義国防は社会変革を含む国家社会主義的色彩、狭義国防は軍事力増強に限定した国家資本主義) | ||||
財閥は”狭義国防”で陸軍に接近(”経済機構の根本”を守る代償として陸軍を援助) | ||||
社会大衆党は”広義国防”を主張 | ||||
近衛文麿 1937年 日中戦争勃発 目次に戻る | ||||
近衛文麿 | ||||
広田弘毅退陣後、陸軍長老・宇垣一成内閣は陸軍の横やりで流産 | ||||
(理由は政党や諸外国にも顔の利く穏健派だから?軍の病耄極まれり!) | ||||
陸軍・林銑十カも選挙大敗で短命に倒れ、近衛文麿は宇垣内閣を実現できなかった元老・西園寺最後の綱であった | ||||
@軍人・観念右翼(父篤麿が右翼と親交)政党いずれからも嘱望されていた | ||||
A同族意識(藤原兼家の子・道長5代の孫忠通の長男基実が近衛家、第3子兼実が九条家を創設、 | ||||
兼家の弟・公季5代の孫通季が西園寺家を創設、通季の兄・実行は三条家、弟実能は徳大寺家を創設、 | ||||
西園寺は徳大寺家から西園寺家に養子に行った、文麿・公望いずれも藤原北家の流れ、天皇家とも繋がる日本指折りの貴族 | ||||
B西園寺はフランスに留学、自由主義の洗礼を受け、近衛は京大で河上肇に師事、似たような学生時代をおくる | ||||
ちなみに河上肇は日本マルクス経済学の創始者? | ||||
C第2次西園寺内閣倒閣の頃から西園寺は近衛と親交、天皇家にも紹介、西園寺はまだ学生であった近衛を、 | ||||
家格を重んじ”閣下”と呼んで可愛がった | ||||
D天皇も公家の当主・文麿と”君臣水魚之交” | ||||
選挙区不拡大方針をとりながら、次々陸軍行動に振り回される近衛文麿 | ||||
さすがの西園寺もはらはらし通しだったが | ||||
結局失望、曰く | ||||
”近衛文麿は徒に陸軍に振り回された市場最低の宰相の一人であった | ||||
日本の破滅は近衛によって始められ、東条英機によって行われた、近衛は首相として陸軍の使用人だった” | ||||
日中戦争から日米開戦を準備した近衛文麿(松本清張氏によれば貴族中の貴族と言う理由から、 | ||||
いつも周辺の人々にとりまかれ、追従を言われ、利口そうに見えても理非の判断が付かず、 | ||||
人の強い言葉に影響されやすい貴族の痴呆的な血)であったが、戦争末期に至り | ||||
真崎甚三郎や吉田茂と共に東条打倒の秘密運動に乗り出す、しかしすでに天皇の信頼を回復する事は無かった | ||||
日中戦争 1937年 目次に戻る | ||||
1937年6月 林内閣に代わって期待の近衛文麿が組閣 | ||||
7月日中戦争勃発(北京西南郊外・盧溝橋近辺で演習中の日本軍が数発の銃声を聞いただけで中国軍を攻撃) | ||||
近衛は不拡大方針を発表したが8月には不拡大方針を破棄、戦線は上海にまで拡大 | ||||
(西安事件後抗日民族統一戦線形成の動きに刺激されての突出だったが、かえって紅軍を刺激、9月には第二次国共合作実現) | ||||
日本軍は11月までに華北をほぼ占領したが上海では頑強な抵抗に遭い、12月南京占領(大量虐殺が有ったとされる) | ||||
戦争の予想外長期化の見通しに近衛は国民精神総動員運動、国家総動員法(賃金・物価統制令等)、産業動員体制も整備 | ||||
国家の援護を受ける財閥は国家独占資本主義に転化、全評・日本無産党の検挙・解散 | ||||
大内兵衛・矢内原忠雄・河合栄治郎ら学者の弾圧、社会大衆党・総同盟は右傾化して戦争支持 | ||||
戦争に反対してきた昭和天皇さえ、日中戦争以降は大本営にご出馬、大元帥として督戦されたと聞きます | ||||
1938年近衛は”事後国民政府を相手にせず”声明、和平交渉打ち切り、東亜新秩序声明、 | ||||
近衛三原則(善隣友好・共同防共・経済提携)発表で国共分裂を図る | ||||
国民政府は重慶に移動、南京は汪兆銘傀儡政権 | ||||
毛沢東の長期持久ゲリラ戦に、近衛は方途を失い1939.1 総辞職 | ||||
東条英機 1941年 目次に戻る | ||||
東条英機 | ||||
華麗にして軽薄な近衛に代わった東条英機 | ||||
最後の内大臣木戸幸一から天皇の意を挺して軍を抑え日米戦争を回避するには東条しかないと推挙、 | ||||
天皇は”虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね”と応じた飛び切り几帳面な努力家、配下に対する配慮、 | ||||
民心掌握にも細々努めたが、残念ながら”軍事官僚” (司馬遼太郎に拠れば集団的政治発狂組合の事務局長のような人) |
||||
日米開戦回避にも努めたが、その胆力・度量を見透かされたか現場軍部に一方的に押し切られ、 | ||||
日米開戦には天皇に力量不足を泣いて詫びたそうである | ||||
一方”小心者”のつねか、精神主義者・強権主義者でもあった | ||||
”翼賛選挙”を実施、推薦候補を立て、批判的候補には露骨な選挙干渉、事実上の1国1党状態に | ||||
太平洋戦争 1941年 目次に戻る | ||||
1937年11月 日独伊防共協定 | ||||
1939年 独伊軍事同盟、独ソ不可侵条約、ドイツのポーランド侵攻に対し、英仏が宣戦布告、第2次世界大戦勃発 | ||||
1940年7月 第二次近衛内閣 | ||||
日独伊三号軍事同盟締結 | ||||
近衛新体制 | ||||
戦時経済での兵と物資の大量動員で労働力不足、労働条件低下、生活物資の窮迫、インフレ昂進、増税 | ||||
→頻発する労働争議、小作争議、1939年には価格統制令、コメの配給制 | ||||
基本政策要綱(国防国家体制の完成・大東亜新秩序建設・新国民組織樹立) | ||||
時局処理要綱(日独伊枢軸の強化、仏印・蘭印への進出) | ||||
大政翼賛会、大日本産業報国会結成、全労組は解散して”隣組”組織 | ||||
ノモンハンの敗北等、”北進”の行き詰まりを打破すべく”南進”→仏印・蘭印への進出 | ||||
後方を付かれないため 1941・4月 日ソ中立条約締結(松岡外相) | ||||
一方 駐米大使・野村吉三郎は米国務長官・ハルと日米交渉 | ||||
松岡に日米交渉を邪魔され1941/7月総辞職、第3次近衛内閣に生まれ変わる | ||||
しかし仏印進駐は米を激怒させた、”経済封鎖”在米日本資産凍結と石油の対日輸出禁止で応えた、英蘭も同調 | ||||
日本の”食”を求めて始めた戦争は、世界的孤立化、益々”食”の道を狭めた、此の儘では”国家的餓死”、勝ち抜くより無い、もう我慢できない | ||||
日本が戦争を辞めることが出来なかった理由で有る | ||||
日米の戦力差は解っている筈の近衛は当然”日米交渉”に賭けざるを得なかった | ||||
(自分が決裂せざるを得ない道を選んだに関わらずである、その意味では近衛も心底平和を願っていた) | ||||
一方海軍も日米早期開戦に踏み切らせ、”帝国国策要領”で10月下旬までに日米交渉が纏まらなければ日米開戦も辞さずと決定 | ||||
結局 日米交渉纏まらぬまま近衛は辞任、 | ||||
キングメーカー内大臣の木戸幸一は、対米戦争を避けるために陸軍を統率できる東条英機を首相に推した | ||||
任命するのは勿論天皇、昭和天皇、木戸”虎穴に入らずんば虎児を得ずだね”(天皇も木戸も心底平和を願いながら戦争の罠に陥った) | ||||
1941.10東条内閣組閣 | ||||
”日米交渉”は最早時間稼ぎ、12月開戦が決められた | ||||
12/8 真珠湾奇襲攻撃、同時に対米宣戦布告 | ||||
付:”開戦及び終戦の詔”現代文 目次に戻る | ||||
勿論軍の作成で有ろうが、天皇名で有るから、少なくとも元帥・天皇も目は通されたであろう | ||||
真珠湾攻撃については陸軍大臣を兼務する東条は兎も角、”統帥権”外の諸大臣も知らなかったという | ||||
だから、”誰がこんな戦争を始めたか?”ウヤムヤ。 | ||||
今じゃ ”勝ち目無し”と日米戦争に反対しながら、真珠湾攻撃の戦略を組み、 | ||||
一線で実戦を指揮した連合艦隊司令官・山本五十六に責任が転嫁されたりしている | ||||
真珠湾攻撃”ルーズベルト陰謀説”なるもの有るが、”負け惜しみ”だろう | ||||
|
||||
山本五十六”それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。 然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、 かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい” |
||||
事態は五十六の言うとおりになった | ||||
初戦はめざましい戦果を上げたものの(マーシャル諸島・ビルマ・ソロモン諸島・アリューシャン列島等占領)、 | ||||
戦線拡大につれ、軍需物資の補給困難、日米の国力差が覆いがたくなる | ||||
1942.6からのミッドウエー海戦、ガダルカナル攻防戦で敗北制海・制空権を失い | ||||
1944.6からのマラリア海戦で敗北、サイパン島陥落で、日本本土が米空軍の爆撃範囲内にさらされることになり、 | ||||
1944.7東条辞任して陸軍大将・小磯国昭組閣 | ||||
国内総力戦:徴兵枠拡大で労働力不足、制海・制空権を失い植民地を失い顔料・資材不足、食糧等軍需以外の生産急落、 | ||||
1943年より学徒出陣、中学生以上の学徒の勤労動員、女子挺身隊、 1944年からの本土空襲で焼け野原の食糧危機・集団疎開 |
||||
近頃 今時の若者は平和ボケ軟弱、太平洋戦争最中の人々を美化する風潮も有るが、自分や愛する家族が斯様な戦時下状況に置かれる事に耐えられるだろうか? 日夜戦禍に怯える事に耐えられるだろうか。正直私には耐えられない 軍備も戦いも必要かも知れない。しかしその前に、戦争のない世を創るに、軍備が安全かつ最高の手段だろうか? |
||||
連合国側では: | ||||
1943年 カイロ宣言 日本が第1次大戦以降獲得した海外領土剥奪、満州・台湾返還、朝鮮独立、日本の無条件降伏 | ||||
1943年 テヘラン会談 社会主義と共存共栄、スターリンの対日参戦約束 | ||||
1945年 ヤルタ協定 独の軍国主義・ファシズム根絶、国連創立、ソ連の対日参戦、南樺太・千島のソ連返還 | ||||
1945年 サンフランシスコ会議 国連憲章採択、国際連合成立(51カ国加盟) | ||||
1945年 ポツダム宣言 日本への終戦条件提示(軍国主義駆逐、民主化まで連合軍の占領、日本の領土限定、戦犯処罰、民主主義の復活強化、再軍備禁止等) | ||||
終戦へ | ||||
1945.5成立の鈴木貫太郎内閣はなおも本土決戦、一億玉砕を叫ぶ一方終戦工作 | ||||
1945.7 ポツダム宣言 | ||||
1945.8 広島・長崎原爆投下同時にソ連は日本に宣戦布告 | ||||
天皇制護持つまり自分たちの支配体制維持に拘って宣言受託を延ばしてきた政府も、原爆投下・ソ連参戦で | ||||
さすがに その日のうちに御前会議でポツダム宣言受託を決定、無条件降伏 | ||||
300万人の死者を出した太平洋戦争は日本の敗戦のうちに終了した | ||||
政党政治崩壊以降 斉藤実(陸軍) 岡田啓介(海軍) 広田弘毅(外交官) 林銑十郎(陸軍)
近衛文麿(貴族院) 平沼騏一郎(司法官僚) 阿部信行(陸軍) 米内光政(海軍) 近衛文麿、東条英機(陸軍) 小磯国昭(陸軍) 鈴木貫太郎(海軍・ポツダム受託) 目まぐるしく内閣が替わったが、概ね軍部と元老・西園寺の妥協の産物故、(よく言えば国論を二分せぬよう)無難な好人物、良心的だが勇気も政治力も無いリーダーばかりでは、誰もが平和を願いながら、手を付けられなかった |
||||
*ファシズム 目次に戻る | ||||
北一輝石原莞爾 | ||||
1929年10月アメリカ発世界大恐慌→賃金切り下げ・労働強化で労働運動の激化、植民地での民族運動激化、共産運動の脅威 | ||||
→資本主義の全般的危機に動揺する列強、米の保護関税採用、英の金本位制離脱、日本の満州侵略でワシントン体制崩壊 | ||||
→英は植民地間に経済ブロックを形成、米はニューディール政策で対処 | ||||
英のように豊富な植民地を持たず、米のように豊富な資源・未開地を持たない資本主義諸国はファシズムに転化した | ||||
社会主義的綱領で中産階級を引きつけ、高揚する労働運動・共産運動を圧殺、侵略戦争を行うことで独占資本の利潤を | ||||
保証する独裁政治体制 | ||||
イタリアの”国家ファシスト党”(1921年ムソリーニ)ドイツ・ナチス(1933年ヒットラー首相)の”国家社会主義”勢力、 | ||||
”三国同盟”に参加した日本の軍事独裁政府もファシスト勢力と呼ばれる | ||||
@急進的・権威主義的ナショナリストの政治運動 | ||||
A全体主義的・排外的政治理念 | ||||
B反自由主義・反共産主義・反保守主義 | ||||
C一党独裁による専制主義・国粋主義 | ||||
D指導者の対する絶対服従と反対者の対する過酷な弾圧 | ||||
しかしこの様な独裁的反動的現象はいつの時代にもあった | ||||
ファシズムは社会主義への弾圧、軍需生産と結託した独占資本を特徴とする、 | ||||
”国家独占資本主義に対応した政治的上部構造”と定義される | ||||
しかし国家独占資本主義=ファシズムとも言えない | ||||
ファシズムは”後発”の国家独占資本主義に目立った現象である | ||||
@ファシズムは高度に発達した独占資本体制を持ちながら、 | ||||
他方に零細な農民層や生産性の低い中小零細企業を大量にもっている国に生まれた(ファシズムの支持基盤は旧中間階級、 | ||||
だから民間右翼に見る如く時に反資本主義を唱えることもある) | ||||
A経済不況になると | ||||
@生活窮乏に対する危機感 | ||||
A社会主義思想や運動に対する危機感 | ||||
B既存の価値意識崩壊の危機感 | ||||
(家父長的家族制度・醇風美俗の衰退・民族の堕落等) | ||||
を強く訴えるファシズム運動に | ||||
彼ら中間層が共鳴、支持基盤となる(彼らは経済不況の最大の犠牲者だが社会主義には共鳴出来ない故に) | ||||
*ファシズムと社会主義 | ||||
自由を否定する意味で(時に既存の資本主義を否定する意味でも)対極の社会主義・共産主義との類似性は拭いがたい | ||||
近親性故に両者は頗る仲が悪い | ||||
経済的”階級”概念の認否が大きな違いだが、ファシズムが社会主義の看板を掲げ | ||||
(北一輝・大川周明らは”国家社会主義”を標榜した) | ||||
社会主義が国権主義を振り回すのはよく見る通りである | ||||
先回りして言えば”ファシズム”も”修正資本主義”も”国家資本主義”、 第2次大戦は民主主義対国家主義の戦いではなく |
||||
生き残りを賭けた”国家資本主義”同士の覇権争い、帝国主義戦争だったとの見解にも一理ある(主に太平洋戦争肯定論者から発せられているのであるが) | ||||
*日本版ファシズムの特色 | ||||
独・伊のファシズムは従来の政治体制の外側からの大衆的政治運動によるクーデターで | ||||
政権を奪取強力な独裁体制を敷く事で成立した | ||||
日本では皇道派や民間右翼の運動を弾圧して政府首脳部に入り込んだ統制派等の中堅将校が既存の政治機構の中で | ||||
ファッショ化を推し進めた(大衆的基盤を持たない上からのファシズム) | ||||
よってムッソリーニ・ヒトラーの様な国民的英雄・独裁者は現れなかった | ||||
勿論天皇の主導ですすめられたファシズムではない | ||||
(天皇はファシズムを嫌ったが、排斥するだけの権力を持たなかった) | ||||
天皇は政治の枠外、天皇制は国民統合の名目に利用されただけ | ||||
何故この様な日本独自のファシズムが成立したか | ||||
@独・伊に比べても民主主義が未発達(政党や政府は国民とは無関係に党利党略に流された) | ||||
A政治システムとしての無責任体制(例えば内務大臣単独責任制、各大臣は天皇のみに責任を負う名目の下、 | ||||
何人も誰にも責任を負わない体制が創られた) |
||||
村上龍の小説”愛と幻想のファシズム”が衝撃的だった (主人公・鈴木冬二、政治結社「狩猟社」の党首、ハンターであり、その経験から独自の弱肉強食の狩猟原理を説く。その決断力と得体の知れない魅力で人々を引き付ける。最終的には実質的な日本の独裁者になった。フィジカルな強さを象徴する) ”強者は弱者を殺すべし”ファシズムの本質に情け容赦なく切り込む著者の筆力に戦慄を禁じ得なかった しかし私自身は温厚な村上氏の”ファシズム批判”と受け取っていたが、 書評を見ると、ファシスト冬二に憧れる読書子が結構多いことに驚いた 同じ村上氏の著に”半島を出よ”も怖い小説だった (2011年、失業率が10%を超え、アメリカにも見放され経済的に孤立状態にあった日本。そこに9人の北朝鮮コマンドが福岡に侵入し、プロ野球開幕戦が行なわれていた福岡ドームを占拠する。その2時間後に約500名の特殊部隊が博多に襲来。10日後には12万人の兵士が上陸する事になっていた。日本政府は一つとして手を打てず彼らによる占領をみすみす許してしまう) いかにも起こりそうな(現実に起こっているのかも?)新しい形態の”国家占領戦略”に備えは有るだろうか? (逆に 斯様な戦略に対して軍備は有効だろうか?) |
||||
太平洋戦争の原因 目次に戻る | ||||
@後発帝国主義路線を選択した日本は朝鮮・中国を”生命線”と考え支配しようとした | ||||
A当然、朝鮮・中国は反発する | ||||
B南下政策を取るロシア、中国に市場を求めるアメリカ(日本同様後発帝国主義国?)の反発も当然の成り行き | ||||
C日本は石油・鉄鋼・工作機械等のほぼ7割を米国からの輸入に頼っていた、米国は日本に対し石油禁輸で応じる | ||||
D米国に経済封鎖されれば戦争継続は元より、国家の死活問題、南方に資源を求めるも、 | ||||
これは欧米の勢力圏、ますます日本は孤立 | ||||
Eいつ釦を掛け違えたのか、日本は戦争に勝たなければ国家崩壊(実際の所は国家支配者の崩壊) | ||||
の袋小路に入り込んでしまった | ||||
F明治維新以来営々と築かれた来た独裁政権によって誰も戦争を止める事が出来なくなっていた | ||||
G独裁・独裁と言うが、誰の独裁だったのか | ||||
人物を特定出来ないのが日本”独裁政治”の特徴だ | ||||
軍事政権は天皇を隠れ蓑とし”国体護持”を名目に戦争を推し進めた | ||||
天皇は”立憲政体”をもって、口出しを憚った | ||||
当時戦争を止め得る者は天皇唯一人であったろう | ||||
その天皇は軍の横暴を憎み平和を求めながら、”立憲政体”崩壊を恐れて政治に口を出せなかった | ||||
元老・西園寺さえ天皇の口出しを諫めた | ||||
かくて全ての指導者が責任を回避、引き返せない流れに身を任せた | ||||
太平洋戦争の敗因 目次に戻る | ||||
@政府・軍部はドイツの過信等国際情勢を的確に捉えていなかった | ||||
A圧倒的な国力不足、しかも経済に素人の軍部は軍需生産の読みを誤った | ||||
B政府と軍、陸軍と海軍の対立、結果的に軍は”統帥権の独立”を楯に政治の介入を嫌い、撤兵による士気喪失、 | ||||
国民の不信のみを恐れて無責任な”精神主義”で暴走 | ||||
C軍と政府(ファシスト政権)は国民に正しい情報を伝えず、マスコミは国威昂揚に躍った | ||||
D作戦面での頑なな”精神主義”、兵站無視 | ||||
(総じて統率力・分析力もなく計画もなく、総力戦とは国民を駆り立てる呪文、 | ||||
ただ闇雲に国民を泥沼に駆り立てたようですが、追ってより詳しく勉強したいと思います | ||||
とめられなかった戦争 加藤陽子 より抜粋 (さかのぼり日本史 昭和) 目次に戻る 加藤先生は 2020年学術会議員任命を政府によって拒否され渦中の人となった 学術的評価は私には解らないが、昔先生の 東大式レッスン”戦争の日本近現代史”という新書に触れて、”これから日本のリーダーになる方々は矢張りこのような1000本ノックを受けて頂きたい”と思ったものだ 文中に繰り返される”何故そうなったか?””あなたなら どうする?” 勿論学者だから自らの”仮説”も提示するが、読者自ら考えさせる事に力点を置く(反対意見を馬鹿チョンに封じる学者先生とはちょっと違う) その先生が政府から睨まれているのは、門外漢の私には解らない事情が有るのだろう。でも反対意見を封じ込め国民を思考停止に導いた結果が、戦争突入と”敗戦”だった 扨 加藤先生は昭和の歴史をさかのぼる事で、読者に何を問いかけたのか? すでに述べてきたところに被るも多々ですが、”昭和編”の復習も兼ねて、纏めたく思います 1。太平洋戦争 緒戦の大勝、そして暗転 米英のヨーロッパ戦線多忙なスキを狙って”南進”太平洋に攻め込んだが、太平洋はアメリカの裏庭 42.3のミッドウエイ海戦に大敗、ソロモン・ガダルカナル島で反攻され、日本軍は攻勢から守勢に 43.9”絶対国防圏”の設定、サイパン島の所属するマリアナ諸島は”絶対国防圏”内死守すべき地域であった しかるに44.7サイパン陥落、何故死守すべき重大地点だったか?この地点からなら日本本土の直接空襲が可能になる 事実サイパン陥落以降、日本本土への空襲開始、もはや敗戦が決定的になった その意味でサイパン陥落は決定的な転換点、先生はこの時点で停戦すれば、原爆投下・ソ連参戦等で多くの人命を 犠牲にすること無かったのに残念だったと言われます。 何故停戦できなかったか 44.7東条内閣から小磯内閣へ。なおも太平洋から中国大陸に戻って活路(元々大陸侵攻の泥沼膠着状態を脱するための”南進”だったのに)開くべしとの継戦派も居ますが、大半は和平派、なのに”一撃講和論”(もう勝つ機会は無いのに、一撃の勝利で有利な講和を引き出したい)”ソ連仲介待望論(日中戦争や大陸攻め時点で仮想敵国だったソ連に仲介を期待するのはハナから無理)時間だけが空費 (サイパン陥落は日本が米軍の空襲圏内に入った転換点だったのですが、今は中露北朝鮮から直接の大陸弾道ミサイルの射撃圏内にさらされ真裸状態、どれ程軍備を拡張しても戦争になれば一溜まりも無いと思われます) 2。日本は何故圧倒的国力差あるアメリカと戦ったのか 開戦時国力差 国民総生産12倍、粗鋼生産量12倍、自動車保有台数160倍、石油777倍 ”南進”の目的は”援蒋ルート”を絶滅と”資源の確保”だった、思いのままにならぬ”北進”(中国大陸侵攻)からの脱却を狙ってもの。 @利害が正面から衝突した日米、日本の仏印進駐→米国の経済制裁(日本資産凍結・石油禁輸)は日米開戦の直接的原因には違いない(どちらが先に手を出したとか、どちらが悪いとかで無く) (先生は米国の強硬態度の原因をドイツと戦争を始めたソ連を援護するためだったという。この時点確かに米ソはしっかり通じていた、その認識が日本政府に無かった事も問題だ) A中堅幕僚の日露戦争・日清戦争勝利の少年時体験 B洗脳”精神力は国力の差を克服する” 3。日中戦争は何故長引いたか 主戦論者お決まりの戦略は@早期開戦(現在米中いずれも”今のうちに叩かねば”と言っていまA短期決戦(プーチンの誤算も”短期に決着”出来ると思っていたようです) 1937年日中戦争勃発、殆ど偶発を装って開かれた戦端、その後の日本軍の攻撃は素早かった 不拡大方針を提示していた日本政府も4日のうちに、北支派兵を声明 直後に日本側が出した条件に沿う停戦協定は調印された しかるに支那駐屯軍は北京・天津占領 更に上海事変 さすがに南京蒋介石政府が反撃、”自衛抗戦声明”受けて近衛内閣は支那軍の”暴戻を膺懲”せんと日中全面対決 (”征韓論”同様だが、反抗を挑発して”武を持って成敗”は前世紀世界の常套手段ではあった) ここで加藤先生の興味ある指摘が入る 日中ともに”宣戦布告”して国際法上の戦争状態に入ることを回避した 理由はアメリカの”中立法”発動を恐れたから 戦争状態にあると認められた国には @兵器・軍用機材の禁輸 A一般の物資・原材料の輸出制限 B金融上の取引制限 中国は主として@とAを恐れた、日本もBAを恐れた この時点ではアメリカの威圧は生きていた (ウクライナ戦争でも米は武器を供与するが参戦はギリギリ堪えて経済制裁、 この”経済制裁”も日本では逆に太平洋戦争開戦を決意させた、余談だが軍備拡張も両面効果がある、相手さんが怯んでくれれば良いが、逆に奮い立たせる事も有る。特に日本の狭隘な国土は相手にとって”短期決着が可能か?”と思わせる恐れがある) 話戻って、日本軍は更に南京攻略、日本国内は戦勝に浮かれていたが、前線では中国軍の頑強な抵抗に手を焼いていた 中国軍は日本の予期に反し、何故これ程頑強だったか? @抗日意識の強さ、 満州事変・日中戦争による日本の”華北分離工作”は逆に中国共産党の”抗日民族統一戦線”への評価を生み、 第二次国共合作が成立、中国統一への抗日意識が燃え上がっていた Aドイツ・ソ連の資金・軍需品・軍事顧問団の援助 この時点でドイツは中国に対する最大の兵器・武器供与(優勝輸出)国だった (逆にドイツからすれば中国は大事な顧客、世界中が生き残りを賭けて戦っていた) 扨 上述のごとく戦争では無いのに日本軍は”一種の討匪戦”という認識で戦っていた、理由は中国の”日本製品ボイコット” 38年第一次近衛声明”帝国政府は爾後国民政府を相手とせず”和平交渉を打ち切り更に”国民政府を否認するとともに之を抹殺せんとするものである”と補足声明、40年重慶に逃れた国民政府に代わって汪兆銘傀儡政権を南京に樹立 戦線は徐州から武漢、広東に拡大、”無条件降伏”のみを求めた日本軍に抵抗するしか術なき中国 長引く戦いに日本の兵士・国民も厭戦気分、”賠償金も望めないのに、何のための戦いか?”の疑問に駆られます(先生によれば宣戦布告が無ければ、戦後の賠償金・領土割譲等は認められないそうです) 第2次近衛声明 ”帝国の希求するところは東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり。今次征戦究極の目的亦此処に存す” 戦争継続の大義を位置づけた”東亜新秩序”、いかにも空虚な”後付け”に思われます 末尾に先生は”胡適”の”暗澹たる覚悟”論を紹介しています ”中国は豊かな軍事力を持つ日本を自力では倒せない。日本の軍事力に勝てるのはアメリカの海軍力とソ連の陸軍力しか無い。だからこの2国を巻き込まない限り中国は日本に勝てない。巻き込むには中国が日本との戦争を正面から引き受け(当方から戦争を起こしてでも)2.3年間負け続けることだ” まさに”暗澹たる覚悟”ですが、中国は長期戦に耐え、第2次大戦勝利組の地位を得て、良くも悪しくも経済力世界2位にあります しかし左様な覚悟、何か感覚的にイヤですね、私には勿論そんな覚悟はありません でも”短期戦”での勝利は無論望めない、ならば”戦争しない方法”を模索するしか無いのじゃ? 4。満州事変 何故関東軍は陰謀を企ててまで満州事変を引き起こしたのか @1930年から31年にかけ世界恐慌の影響で深刻な不況(昭和恐慌) A1930年張学良(父張作霖を爆殺された恨みをもって国民党に合流した)が満鉄平行線を建設、南満州鉄道が深刻な赤字(満鉄平行線禁止は日清条約の秘密議定書にもられた日中の約束だったが、満州権益の範囲そのものが中国をさしおいて日ソの間で譲渡されたもので曖昧な点が多かった、日本軍はむしろ曖昧な点につけ込み、”条約を守らない中国”と批判) 加えて蒋介石が新鉱業法で日本人の土地・興行権取得を制限 満州で排日運動多発 B一方日本国民には満蒙権益は日露戦争で父祖や先人の血で購った”我が国の生命線”(松岡洋右)との認識が深くすり込まれていた(1931年立憲政友会・松岡はその線にそって”軟弱外交”を批判して”武力強硬外交”を主張) ”条約を守らない中国の権利侵害を武力を持ってしても直ちに取り返せ”武力行使容認の国民感情 C首謀者・石原莞爾は ”東洋の王道と西洋の覇道のいずれが世界統一原理たるべきか”の日米最終決戦論(その前の日ソ決戦も予想)”に立って、”対米戦の資源的根拠地としての満州、対ソ戦のための満州”の”我有”戦略と位置づけました ”支那問題満蒙問題は対支問題にあらずして対米問題なり”本音はさもありなんですが、いかにも傲岸ですね 但しその本心は国民には明かされず、”条約を守らない国・中国”との論調が展開された 昭和恐慌下で生活の不安と窮乏化におののく国民が”満蒙生命線”に共鳴し、条約を守らない中国に対する怒りを募らせて、武力行使容認の国民的コンセンサスが形成された まさにその瞬間に、関東軍は満州事変を起こした 内部問題を外部に転化する典型でしょう 何故政府は陸軍の突出を容認したのか @3月事件、10月事件の計画、血盟団事件、5.15事件等 軍部・国家主義者のテロ続発 ”輝かしい昭和改元、明るい時代の筈が暗いのは、天応を支える筈の閣僚・宮中側近・政党人・財閥が悪いから” 要は政府は肉体的恐怖に怯えてしまったのか?何をかいわんやであるが、上記Bのごとく”武力行使容認”の国民感情のもとではの致し方なかったかも知れない。問題はさような”国民感情”は決して自然発生したものでは無く、巧妙に作り上げられたこと。そして、この荒んだ風潮が”武力信仰”を呼び、国民全体に作用反作用しながら増幅していったことだろう |
||||
|
||||
大正史 まとめ 明治史 まとめ 幕末史 まとめ |